坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年8月3日 礼拝説教「天使のようになる」

聖書  ルカによる福音書20章27〜40節 
説教者  山岡創牧師

20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20:30 次男、
20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32 最後にその女も死にました。
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

  
     「天使のようになる」

 「サドカイ派」(27節)というのは、新約聖書に登場するユダヤ教の主流派の一つです。彼らの中核は神殿を司(つかさど)る祭司のグループでした。だから、最初はそうでもなかったのですが、19章の終りで、主イエスが神殿礼拝のやり方を非難し、境内(けいだい)で大暴れして、商人たちを追い出したことによって、サドカイ派の人々は怒り、主イエスと対立するようになりました。主イエスと対立する人々の中に「祭司長」という言葉がしばしば出て来ますが、それはサドカイ派の代表的な人物です。
 そんなサドカイ派の信仰の特徴の一つは、「復活があることを否定する」(27節)ということでした。当時、もう一つユダヤ教の主流派として、ファリサイ派という宗派がありました。神の掟である律法を熱心に守る人々でした。だから、仕事をせずに神の前に休め、と定めている安息日の掟を無視するかのように活動する主イエスとは、最初から対立していました。こちらは、復活を信じていました。
 ユダヤ教の二つの主流派であるサドカイ派とファリサイ派が、復活をめぐって信仰を異にしている。だから、彼らはしばしば議論し、信仰の考えを戦わせたようです。
 今日の聖書箇所で、サドカイ派の人々が、主イエスにふっかけた議論。これは、ここで初めて彼らが考え出した議論ではなく、既にファリサイ派の人々に仕掛けていた議論だったようです。律法の中に、28節に記(しる)されている掟がありました。旧約聖書・申命記(しんめいき)25章5節に、この掟の元が記されています。後継ぎを絶やさないための、名前と血筋を絶やさないための掟です。その掟をもとにして、29節以下で、彼らは、7人の兄弟が後継ぎのないまま一人の女性と結婚した。すると、「復活の時」(33節)、その女性は「だれの妻」(33節)になるのかと問いかけたのです。
 サドカイ派の、この問いかけを読んで、おそらくほとんどの人が、くだらない議論だと感じるのではないでしょうか。理屈は通っているかも知れない。けれども、現実味がありません。情が通っていません。夫を失う女性の悲しみも、子どもが生まれない辛(つら)さも、何も考えずに、ただ理屈だけの議論、相手を理屈で言い負かすためだけの議論をしています。信仰が死んでいるのです。それは、今日の聖書の38節の御(み)言葉を借りて言うならば、“神によって生きていない”ということではないかと思うのです。
 ちなみに、ファリサイ派の人々は、この問いかけにまともに受け答えをしたようです。復活の時、最初の夫に優先権がある。最初の夫が自分の妻だと言えば、その女性は最初の夫の妻である。しかし、最初の夫が自分の妻ではないと言えば、優先権は2番目の夫に移る、といった答えをしたようです。これも、筋は通っているかも知れないけれど、くだらない議論、答えだと言わざるを得ません。重箱の隅をほじくるように、律法の内容の細かいところ、枝葉末節にこだわる人々ですから、その理屈っぽさが、この答えにも現われていると言えるかも知れません。彼等もまた、細かいところにこだわって、理屈で相手を言いまかそうとするけれども、何か信仰が生きて働いていない、神によって生きていない感じがします。
 復活とは、人の命と死に関わる大切な問題です。真理です。希望です。慰めです。信じる人に、悲しみや苦しみの中にあっても生きていこうと思わせる力です。理屈で議論するようなことではありません。その理屈で勝ったから復活はあるとか、負けたから復活はないとか決められるような事柄ではないのです。それは信ずべきことです。受け止めるべきことです。死の恐れと不安にあえぐ人が、生きることに苦しみ、悲しみ、疲れ果ててしまう人が、それを信じることによって、主イエスの言葉を受け止めることによって、恐れと不安に打ち克ち、生きる勇気と希望を取り戻す力。それが「復活」にほかなりません。

 主イエスは、サドカイ派の議論、問いかけに、まともにお答えにはなりませんでした。復活とは、理屈で考えるべきことではないのに、彼らが理屈で考えようとしているから、しかも「この世」(34節)の理屈を、「次の世」(35節)にも、「復活の時」(33節)にも持ち込んで、適用させようとしているからです。復活の世界は、この世の理屈や価値観が通用する世界ではないことを、それらとは違う真理があることを、主イエスは、はっきりとお答えになりました。
「この世の子らはめとったり嫁(とつ)いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」(34〜35節)。
 めとったり嫁いだりしない世界。この世での夫婦関係、家族関係、人間関係が解消されて、「天使に等しい者」(36節)として、「神の子」(36節)として、神を中心とする新しい関係に生きる命の世界。それが、復活した者の味わうことができる世界です。
 私は、34〜36節の主イエスの言葉から、私が楽しみに観ているNHKの連続テレビ小説〈花子とアン〉の一つの場面を思い起こしました。ご覧になっている方も少なくないと思いますが、モンゴメリーの原作『赤毛のアン』を日本語に訳した村岡花子の生涯を描いたドラマです。花子は村岡英治という男性に恋をします。村岡も花子への思いを抱いているのですが、村岡は、花子が東京の女学校を卒業して故郷の甲府に帰っている間に、別の女性、香澄と結婚していました。けれども、香澄は結核を患い、結婚の当初から病院での療養生活を続けていました。その香澄の病床を、村岡の弟である郁弥が見舞うシーンがあります。その時、香澄が、自分の死が迫っていることを感じながら、しかも夫・村岡の心に別の女性が住んでいることを知りながら、郁弥にこう言うのです。
  あの人、やさしいから、わたしのこと引きずって、独りぼっちで生きていこうとするかも知れないじゃない。それだとわたし、安心して天国にも行けないわ。‥‥
  英治さんに伝えて。わたしが死んだら、もうわたしに縛られないで、だれかと一緒に生きていってほしい。
 自分が安心して天国に行けないから、だれかと一緒に生きてほしい。そのように言えば、相手が自分に遠慮したり、気遣う気持が和らげられる。それを知っていて、このように言う。とてもやさしい言い方だなあ、と感じます。そして、その心には、夫に対する恨(うら)みも独占欲も、また将来結婚するであろう女性に対する妬(ねた)みもありません。その心に、言葉に、人間としての美しさすら感じました。そして、もし天国で再会したら、夫・村岡の妻はだれになるのだろう?‥‥といった、つまらない心配もありません。そういったこの世の縛り、こだわりから解放されて、ただ相手をいたわる愛だけが残っています。命のともし火が消える寸前の人間が見せる美しさかも知れません。まさに「天使」のようです。
 けれども、この姿、今日の聖書箇所で主イエスが語っている「復活」って、ある意味で、こういうことなのではないだろうか。私はこのシーンを見たとき、ハッと今日の聖書箇所を連想して、理屈抜きにそう思いました。この世の命は終わろうとしています。でも、彼女の命は、「次の世」に向かって、復活の世界に向かって、永遠に向かって羽ばたこうとしている。そして、彼女の愛は残り、生きて働く。それが、主イエスが言われた「すべての人は、神によって生きているからである」(38節)というリアリティーの一端ではないだろうか。そのように感じました。
 もちろん、この世の人間関係、夫婦関係は、そのような美しいものばかりではありません。痛み、傷つき、苦しんで、そのような関係が、「復活の時」「次の世」では解消されるということに、慰めを感じながら生きている人だっているかも知れません。
 主イエスの言葉から分かることは、新しい世界が来るということです。この世の人間関係は解消され、神を中心とする新しい関係の中で、永遠の命に生きる「復活の時」が来るということです。この世の関係が続くことを願う人もいれば、断ち切られ、リセットされることに希望を置いている人もいるでしょう。復活に対する私たちの思いは様々です。けれども、神さまは私たち一人ひとりに最善にしてくださると私は信じています。どんなふうになるとは言えません。でも、神さまがいちばん善いようにしてくださるに違いありません。それがまた、「すべての人は、神によって生きている」ということだと思います。


 「死者が復活すること」(37節)を証しする言葉として、主イエスは、モーセが、燃える柴(しば)の木を前にして神の声を聞き、神と出会った箇所を取り上げます。旧約聖書・出(しゅつ)エジプト記3章です。そのとき、神さまはご自分のことをモーセに、私は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(37節)だと自己紹介をしました。アブラハム、イサク、ヤコブとは、最初に神さまがユダヤ民族を祝福すると、ユダヤ民族を通してすべての民を祝福すると約束したユダヤ人の先祖たちです。旧約聖書・創世記に出て来ます。主イエスの時代から千年以上昔の人物です。では、彼らは「死んだ者」(38節)なのか?そうではない、と主イエスは言われます。彼らは「生きている者」(38節)だと主イエスは言われます。もちろん、主イエスの時代に、この世に生きていたわけではありません。けれども、死んでこの世の命を終わって、それで滅んだというのではありません。確かに、この世の命ということからすれば、彼らは「死んだ者」です。けれども、主イエスは、この世の命ではなく、「復活の時」、復活の命という大きな広がり、希望の中で、私たちの命を見ておられます。だから、この世の命は終わっても、その人自身は終わっていない。「すべての人は、神によって生きている」のです。復活の命を約束されています。
 だから、使徒パウロは、次のように教会の信徒たちに語りました。主イエス・キリストご自身が復活されて、信じる者の希望となられたことを伝えながら、こう語りました。その言葉を聞いて終わりましょう。
「死は勝利に飲み込まれた。‥‥‥わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜(たまわ)る神に、感謝しよう。‥こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業(わざ)に常に励(はげ)みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」
(Ⅰコリント15章54〜58節)


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