坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年9月21日」主日礼拝説教 「神の言葉は滅びない」

聖書 ルカによる福音書21章20〜33節
説教者 山岡創牧師

21:20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
21:22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
21:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
◆人の子が来る
21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
◆「いちじくの木」のたとえ
21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」


 
          「神の言葉は滅びない」

 私たちの日本の国には四季があります。春夏秋冬が、これほどはっきりとしている国もそう多くはないと聞いたことがあります。季節感が豊かだと言って良いでしょう。例えば、夏の終わりをどのように感じるかと言えば、田圃(たんぼ)の稲が黄金色に実っているのを見て、あるいは台風の到来によって、夏の終わりを知ります。逆に夏の始まりは、梅雨が終わり、雷が鳴るようになると、いよいよ本格的な夏が来ると予感するのです。
 聖書の舞台であるパレスチナには、日本のようなはっきりした四季はありません。雨期と乾期があるだけです。それでも、四季が全くないわけではありません。今日の聖書の箇所で、主イエスが「夏」の話をしています。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」(29〜30節)。イスラエルの人々にとって、いちじくは馴染(なじ)みの木でした。そのいちじくや他に木に葉が出始めると、夏が近づいたと感じていたのです。


 ところで、主イエスはここで、季節感の話をしようとしているわけではありません。季節感の話をたとえにしながら、“時代感”とでも言いましょうか、“時”を感じ取るセンスを持て、と言われているのです。「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(31節)。
 「神の国」が近づいているということは、28節にあるように、「解放の時」が近づいていることだと言い換えることができます。そしてそれは、27節にあるように、「人の子」と呼ばれる主イエス・キリストが、天から再びこの世にやって来る時だと、主イエスご自身が予言しているのです。
 主イエス・キリストがやって来て、あなたがたを苦しみ悩みから解放し、神の国を打ち建ててくださる。あなたがたは、そういう時が近づいていることを感じ取る“信仰のセンス”を持ちなさい、と主イエスは言われます。「これらのことが起こるのを見たら」それを悟りなさいと言われます。
 では、「これらのこと」とは何でしょうか?既に21章7節以下でも預言されたことですが、「これらのこと」というのは、20節以下で預言されている戦争です。また、25節以下に預言されている「太陽と月と星」という「天体が揺り動かされる」ような現象、「地上では海がどよめき荒れ狂う」ような天変地異の現象です。一言で言うなら、人災と天災の両方です。このような人災や天災は、神の国が近づいている「徴(しるし)」(25節)である。その徴から、神の国が近づいていることを、ご自分がやって来る時を判断して、「身を起こして頭を上げなさい」(28節)と主イエスは言われるのです。
 ところで、私たちの世界は、20節以下で預言されたユダヤ戦争はおろか、20世紀には第一次世界大戦第二次世界大戦という大きな戦争を経験しました。今も局地的な戦争はどこかで起こっています。また、近年では、阪神淡路大震災東日本大震災といった大きな地震も経験しました。その際、まさに「海がどよめき荒れ狂った」津波によって、東北から関東沿岸の人々が大きな被害を受けました。聖書の中で預言されているような戦争と天変地異、人災と天災です。これらの出来事や現象は、神の国が近づいている徴なのでしょうか?
 私は、どうも信仰のセンスが鈍いのかも知れません。ピンっと来ないのです。これらの出来事や現象が、神の国が近づいている徴なのかどうか分かりませんし、神の国が近づいているという実感もないのです。そもそも神の国がどのように実現するのか実感が湧かないし、雲に乗ってやって来るというイエス様がどんなふうにやって来るのか想像もつかないのです。ここに描かれている主イエスの預言を、どのように皆さんにお伝えしたら良いのか、正直、困っています。私たちは、どのようにこの御(み)言葉を受け止めればよいのでしょうか?


 話を少し遡(さかのぼ)りますが、この主イエスの預言が始まるきっかけとなったのは、エルサレム神殿でした。当時の建築技術の粋(すい)とも言えるエルサレム神殿を、人々がほめ、弟子たちが見とれていた時です。主イエスはその様子を見て、この神殿は一つの石も残らず崩れ去ると預言されたのです。21章5〜6節の話です。そこから一連の預言が始まりました。そして、20節以下で、エルサレムの滅亡が予告されます。エルサレムが軍隊に包囲され、滅ぼされる。その時、神殿も破壊し尽くされるのです。
 主イエスの生きていた時代から約40年後、ユダヤ戦争が起こりました。エルサレムはローマ軍に包囲され、ユダヤ人の抗戦もむなしく、紀元70年にエルサレムは陥落し、多くのユダヤ人が戦死し、生き残った者も捕虜となり、あるいは世界中に散って行きました。その時、エルサレム神殿も跡形もなく破壊されました。
 この予告の中で、主イエスは、「逃げなさい」「立ち退きなさい」(21節)と言われていますが、戦争が起こったとき、エルサレムにある教会のかなりのユダヤ人クリスチャンたちが、自分たちもエルサレムに踏みとどまって戦おうと考えたようです。どうしてでしょうか?エルサレム神殿に愛着があったからです。エルサレム神殿こそ、自分たちの信仰を支える土台だ、神殿を失うことは信仰の土台を失うことだ、と考えたからです。だから、エルサレムを、神殿を守ろうとしたのです。
 けれども、主イエスの言葉は違いました。神殿は石一つ残らず崩れ去る。そこから逃げよ、離れよ、と言われたのです。それは、あなたたちの信仰を支えているのはエルサレム神殿ではないぞ。そんな、目に見えるこの世のものではないよ。だから、その執着(しゅうちゃく)を捨てなさい、そのこだわりから解放されなさい。それが「身を起こして頭を上げて」生きることだと主イエスは言われたのではないでしょうか。
 「身を起こして頭を上げなさい」。この言葉は、英語訳聖書では、ルック・アップ・アンド・レイズ・ユア・ヘッド(Look up and raise your head)と訳されています。ルック・アップ。視線を上げよ!。私は学生時代、ずっとサッカーをしていましたが、これはサッカーで使われる用語でもあります。顔を上げ、視線を上げて、周りを見ろ。味方がどこを走っているか、敵がどう動いているか、ボールはだれが持って、どういう展開になっているか、状況を判断せよ。そして、自分が今、どんなプレーをするべきかを考え、実行せよ。そういう意味の言葉です。ユダヤ戦争の中で、それに巻き込まれず、神殿は信仰を支える根源、土台ではないと判断し、逃げる。それが当時、ルカの教会のクリスチャンたちに求められたルック・アップ、「身を起こして頭を上げる」生き方でした。
 話は変わりますが、NHKの連続テレビ小説花子とアン〉を、私は楽しみに見ています。今は太平洋戦争が終わった後の話ですが、つい先日までは戦争真っ只中の状況でした。戦争が本格化していく中で、ラジオ放送の〈子どものニュース〉を読んでいた村岡花子は、放送内容が次第に戦争一色になり、戦いを美化するような内容に変わっていくのを憂(うれ)えて、遂に担当を辞退します。夫の村岡栄治は、経営する印刷会社を休業している時に、軍の関係の印刷の仕事をしないかと持ちかけられましたが、その勧めを断ります。戦争状態が深まり、敵国語である英語の使用が禁止される中で、花子は、カナダ人である女学校の恩師から、“友情のしるし”としていただいた『赤毛のアン』の原本を、これを日本語に訳することが自分の生きた証しだと思い定めます。社会全体が戦争ムードの中で、非国民とののしられ、嫌がらせを受けながら、簡単にできることではありません。それはまさに、「身を起こして頭を上げ」た生き方、時代を判断した生き方、今、目の前にある戦争はいつか必ず過ぎ去るもの、滅び去るもの、その戦争に巻き込まれ、こだわるような生き方をしてはいけない、という生き方ではないかと思うのです。その生き方を別の言葉で言えば、この世のものから解放された、自由な、主体的な生き方だと言って良いのではないでしょうか。まさに「解放の時」を先取りしているのです。村岡花子も英治も、クリスチャンの家庭に育ち、あるいはクリスチャンだった人物です。


 戦争を予告し、あなたがたが見とれているエルサレム神殿は滅びると、主イエスは預言しました。だから、滅びるもの、過ぎゆくものを、あなたの信仰の支えとしてはならない。あなたの人生の土台としてはならない。そのように主イエスは言われます。
 それどころか、エルサレム神殿はおろか、「天地は滅びる」(33節)と主イエスは預言されました。自分が今、足を着いて生活している天地が滅び去る。確かなものだと思い込んでいるかも知れない天地が滅び去る、と主イエスは言われるのです。天地が滅んだらどのようになるのでしょう。私たちはどのようになるのでしょう。私には分かりません。今から“ああだ、こうだ”と騒いでも仕方がない。もしそうなったら、主イエスにお任せするしかないと思っています。
 けれども、天地が滅びても、滅びないものがあると主イエスは言われます。「わたしの言葉は決して滅びない」(33節)。
 今、聖書と祈りの会で、創世記の天地創造物語を読み始めたところです。その際、神さまは、言葉で命じることによって、天地を着々と造り上げて行かれます。そのようにして創造された天地も滅び去る時が来る。過ぎ行くものである。永遠ではない。目に見えるものは滅び去り、過ぎ行くのです。けれども、天地を創造された神の言葉は滅びないのです。たとえ天地が滅びても、滅びることのない神の言葉に支えられ、従って生きていく。それが何よりも、私たちクリスチャンに求められていることです。
 ところで、今日の聖書の御言葉を黙想していて、もう一つ滅びることのないものを聖書の中に見つけました。それは、コリントの信徒への手紙(一)13章に記されています。
「愛は決して滅びない」(8節)。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)。
 主イエスの言葉、神の言葉と並んで、信仰、希望、愛はいつまでも残ると言われています。その中でも最も大いなるものは、愛だと言われます。
 滅びることのない神の言葉に立ち、神の言葉に従って生きていくということは、滅びることのない愛に目覚めて生きるということではないでしょうか。私には、先のことは分からないけれど、天地がどう滅び、神の国は、主イエスがどのようにやって来るのか分からないけれど、今、私に、私たちに求められているのは、人を愛して生きること、互いに愛し合って生きること。その先に、神の国があるような気がします。

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