坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年10月12日  礼拝説教「人の計画と神の計画」

聖書 ルカによる福音書22章1〜13節 
説教者 山岡創牧師

◆イエスを殺す計略
22:1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
22:4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
22:5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
22:6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
◆過越の食事を準備させる
22:7 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
22:8 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
22:9 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

 
        「人の計画と神の計画」
 ユダヤ人にとって、最も大きな祭りである「過越祭(すぎこしさい)」(1節)が近づいていました。「過越祭」は、ユダヤ人の先祖たちが千年以上も昔、神の助けによってエジプトを脱出したことを記念し、感謝する祭りでした。
 脱出決行の晩、ユダヤ人の先祖たちにはちょっと変わった指令が出ました。小羊をほふって食べ、その血を自宅の入口の柱と鴨居(かもい)に塗っておけ、と言うのです。人々は不思議に思ったでしょうが、そのとおりにしました。すると、その日の夜中、エジプト人の家では、人や家畜が死んで大パニックが起こりました。“滅ぼす者”が現れたのです。しかし、滅ぼす者は、魔除けの血を入口に塗っておいたユダヤ人の家だけは通り過ぎて行きました。この“通り過ぎる”という言葉が、祭りの名前になりました。そしてその隙に、彼らは逃げ出し、エジプト脱出を決行したのです。それで、この祭りの際には、小羊をほふって食事をするのが習わしとなりました。この過越祭が「除酵祭(じょこうさい)」(1節)とも呼ばれるのは、エジプト脱出後、遊牧民となった彼らが、やがてカナンの地に定住をして農耕をするようになった時、大麦の収穫を感謝して行う、酵母菌(こうぼきん)を入れないで作ったパンをいただく祭りとドッキングしたからです。
 この祭りは、神殿のあるエルサレムで行われました。主イエスと弟子たちも、この祭りに参加するために、ガリラヤ地方から上京していたのです。そこで主イエスは、祭りにやって来た人々に小羊や他の献げ物の動物を売ってぼったくる神殿のやり方に憤慨し、「強盗の巣」だ!と非難して大暴れしました。神殿を預かる祭司長たちと喧嘩問答もしました。神殿に集まっていた民衆に、教えを説きました。そのような主イエスの言動に腹を立て、「祭司長や律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたら良いかと考えていた」(2節)というのです。


 彼らは祭りの時に殺人を考えていたのです。祭りということの本来の意味を、私たち日本人は忘れかけていますが、祭りとは本来、単なるイベントではなく、神さまを祭るということです。つまり礼拝(れいはい)です。神さまを崇(あが)め、讃美し、感謝する礼拝です。そのように、まず第一に神さまのことを考えるべき時に、礼拝の最中に、彼らは殺人を考えていたのです。
 彼らは、自分たちのことをおかしいと思わなかったのでしょうか。どうやら思わなかったようです。むしろ、この男を除かなくては、神殿での礼拝を、祭りを通常通り営むことはできないと考えたようです。神の掟である律法では、神を冒涜(ぼうとく)する者は死罪でした。彼らはそのように考えて、自分たちの企てを正当化し、おかしい、間違っているとは思いませんでした。けれども、彼らは本当に神さまのことを考えていたのでしょうか。そうではなかったと思うのです。
 そのことを示す象徴(しょうちょう)的な言葉があります。「彼らは民衆を恐れていたのである」(2節)との言葉です。主イエスを殺す計画を実行するに当たって、彼らは民衆を恐れました。民衆は主イエスを支持していたからです。直前の21章の終りにもありますが、主イエスの教えを聞こうとして、朝早くから神殿の境内(けいだい)にいる主イエスのもとに集まるほどだったのです。そのような民衆の目の前で主イエスを捕らえることなどできない。そんなことをすれば、かえって彼らが民衆に反対され、取り押さえられるかも知れないからです。そのために彼らは「どうしたら良いかと考えていた」のです。
 彼らは民衆を恐れていました。人を気にしていました。人を恐れていました。けれども、神さまの目を気にしていませんでした。神さまを恐れてはいませんでした。神さまを本気で恐れる者が、殺人の計画など思い巡らすでしょうか。そして、5節に「彼らは喜び」とありますが、殺人の計画が成功しそうだと言って喜ぶでしょうか。しかも、祭りの最中に、礼拝の最中に、です。殺人計画を喜びながら、自分の悪事の成功を喜びながら、讃美を歌い、祈っているようなものです。そのような礼拝が、そのような信仰があるはずがない。そんな礼拝を、信仰を、神さまが喜ばれるはずがないのです。
 もちろん、彼らは、自分たちのことをそのような者だとは思っていない。気づいていない。彼らは、神さまを恐れているつもりでいます。神さまのことを考えているつもりでいます。神さまのために、神さまに害のある者を取り除こうとしているだけだと思っているのです。その思い込みが、信仰にとってはいちばん怖いのです。
 イスラム国が今もなお勢力を張っています。彼らの活動の背景には政治的問題や彼らの信念もあることでしょう。けれども、彼らは容赦なく敵対する者を殺します。暴力と戦いに訴えます。そこにアッラーの神はおられるのでしょうか。
 もちろん私はイスラム教のことをよく知りません。けれども、どんな宗教であっても陥りやすい間違いがあることだけは分かります。それは、自分本位で独善的な思想や主張を、神の御心(みこころ)だと思い込んで正当化するという誤りです。それで自分は信仰深いと思い込むのです。神さまを恐れ、従っていると思い込むのです。
 他人事ではありません。私たちも同じような誤りを犯すことがないでしょうか。殺人とまではいかなくとも、人を憎み、人を妬(ねた)み、人を否定しながら礼拝していることがないでしょうか。人を恐れ、人目を気にし、そこから生じる自分の損得を考えながら、信仰生活をしていることがないでしょうか。その時、私たちは神さまが見えていません。神さまを恐れていません。信仰がいつの間にか、自己本位で独善的になっているのです。
 そのような祭司長や律法学者たちの罪に、主イエスの12人の弟子の一人である「イスカリオテと呼ばれるユダ」(3節)が加担してしまいました。なぜユダは主イエスを裏切り、祭司長たちに売ったのでしょうか。主イエスの教えについて行くことができなくなったのかも知れません。けれども、それならば弟子をやめて、主イエスから離れるだけで良いはずです。何も祭司長たちの殺人計画の片棒を担ぐ必要はありません。それなのにユダは、主イエスを亡き者にしようとして彼らに協力した。主イエスを殺したいと思うほどの憎しみや恨(うら)みがユダの中にあったのでしょうか。そのような思いをユダの中に生じさせるような出来事が、主イエスとの間にあったのでしょうか。その点は謎です。何かがあったのでしょうが、ルカによる福音書は、はっきりしたことは何も書いていません。“魔がさす”という言葉がありますけれども、まさに「サタンが入った」(3節)と言うしかなかったのでしょう。
 ただ一つ言えることは、ユダもまた、神さまを見ていなかった。神さまを恐れていなかったということです。もし神さまのことを思っていたなら、決して主イエスを裏切り、売るような、自分本位な行動はとらなかったでしょう。


 さて、人の罪の姿ばかりをお話して来ましたが、今日の聖書箇所の後半には、主イエスを見つめ、主イエスの言葉に愚直(ぐちょく)にも従う二人の弟子が出て来ます。ペトロとヨハネです。祭司長たちの殺人計画が裏側で進む中で、主イエスは、神さまの救いのご計画を進めていきます。それが、過越祭の中で弟子たちと共にする「過越の食事」(9節)でした。エジプト脱出の際の神の助けを記念し、感謝する食事を、主イエスは新しいものにしようとしていました。その神の計画を進めるために、ペトロとヨハネも一役買うことになったのです。
 二人が過越の食事の準備を主イエスから命じられ、「どこに用意いたしましょうか」(9節)と尋ねたとき、主イエスは10節以下のようにお答えになりました。改めて読みませんが、まるで未来予知であるかのような言葉に、二人は面食らい、半信半疑であったかも知れません。だいたい「水がめを運んでいる男」(10節)なんているのだろうか。ユダヤでは当時、水を汲むのは女性の仕事だったからです。ですから、本当に主イエスが言われたようになるのだろうかと思いながら、しかし、その言葉に従って出かけて行った。すると、「イエスが言われたとおりだった」(13節)というのです。
 信仰とは何でしょうか。主イエスの言葉に聞き従うことです。聖書の言葉に生きることです。そして、主イエスの言われたとおりになる恵みを味わうことです。けれども、この世の常識や私たち自身の判断や願望などが、それを邪魔します。“本当かなぁ”と半信半疑にさせます。“そんなこと、あるはずがない”と不信仰にさせます。信仰に本気、聖書に本気になればなるほど、そういう思いや葛藤(かっとう)も強くなります。
 けれども、半信半疑かも知れない。しかし、自分の考えを通すのではなく、主イエスの言葉に従って行くところに信仰は生まれ、神の恵みを味わうのです。
 既に天に召されましたが、榎本保郎という牧師先生がおられました。“ちいろば先生”と呼ばれた、ユニークで、祈りに厚く、信仰の深い牧師先生だったと、私はこの方の書かれた本を読んで感じています。この先生の書かれた本に『ふつか分のパン』というものがあり、その中に書かれている〈和解への道程〉という話を、今日の聖書箇所を黙想しながら、私は思い起こしました。
 榎本先生が京都で教会を指導し、保育園を営んでいたとき、一人のお母さんが、子どもを保育園に入れるべくやって来ました。そこで、その女性が夫のことで愚痴をこぼし、“わたしが悪いと思いますか?”と聞かれたとき、榎本先生は“ゆるさないことが悪いなあ”と答えました。その答えに、“人が人を本当にゆるせますか?、クリスチャンは偽善者ぶっている”と食ってかかった女性に、榎本先生は、“いや、その通りだ。私もそうだ。私もゆるさなければいけないと思いながら、意地の悪い仕返しを考えるかも知れない”と言われました。その答えにかえって女性は感じるところがったようで、それ以来、教会の礼拝に熱心に来るようになりました。
 さて、この女性には、数年来、仲違いをしている姑(しゅうとめ)がいました。礼拝に出席し、御(み)言葉に聞き、祈り、信仰生活を送る中で、この女性は姑と仲直りをしたいと思うようになりました。しかし、なかなかその勇気が出ない。どうしても最後の一歩が出ずに、しり込みをする。そんな彼女を、先生は、聖書の御言葉に従って、神の力にゆだねて行きなさい、と励ましました。一緒に祈って送り出した彼女の結果がどうなるかと心配していた先生でしたが、やがて数時間すると、彼女が帰って来た。お互いに涙を流して和解することができた、という話です。
 私たちはどうしても自分の判断や自分の力量に頼りがちなところがあります。信仰を持っていても、そちらに引っ張られます。けれども、だからこそ祈るのです。神の助けを求めて祈るのです。そして、信仰の弱い私たちが主イエスの言葉に従って生きることができたとき、私たちは、自分本位な信仰ではなく、神さまのことを考えて、信じて生きた恵みと喜びを味わうことができるのです。

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