坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年11月2日 永眠者記念礼拝説教「死なないものを着るとき」

聖書 コリントの信徒への手紙(一)15章50〜58節 
説教者 山岡創牧師

15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 
          「死なないものを着るとき」
 私たちの教会が属している日本基督(キリスト)教団(本部は早稲田にある)が発行している雑誌で、『信徒の友』という月刊誌があります。その中に、2014年4月から〈がんと生きる〉というシリーズが掲載(けいさい)されています。樋野興夫さんという方が書いておられます。この方は、順天堂大学医学部の教授であり、クリスチャンでもあります。樋野さんは2008年から〈がん哲学外来〉という試みを始めました。がんについての病理学とキリスト教信仰を融合(ゆうごう)させた考え方(哲学)を基にして、がん患者の心のケアを目的とした新しい試みであり、がんになっても使命感をもって生きることのすばらしさを伝えています。
 この外来にやって来て、樋野先生と面談し、その後もお茶の水クリスチャンセンターで開かれているがん哲学外来カフェという交わりに参加している方たちの言葉が、〈私のがん体験記〉として、並行して掲載されています。その中には、“病気であっても病人ではない”“解決はできなくても解消はできる”、そういった樋野先生の言葉にハッと目を開かれ、支えられ、使命感を持って生きている姿が証しされています。   
けれども、そのような方々も、最初は皆、当然のことながらショックを受けます。放心状態になって何も考えられなくなります。死の不安や混乱に陥ります。ある人は、夫婦(妻が)で告知を受けて、自宅へ帰ろうと車を走らせていたのに、気が付いたら逆方向に走っていて、慌てて車を路肩に止めたと言います。また、ある母親は、患者仲間の死を目の当たりにし、あらためて自分の死を考え、高校生と中学生の子どものことを思うと、不安とがんの怖さでパニックになりそうだったと言います。
 死の不安と恐れは、その人から普段通りに生活する落ち着きを奪い去ります。それが、今日の聖書の55節の言葉で言えば、死の「勝利」ということなのでしょう。死の不安と恐れとが、私たちの心を支配するのです。そして、絶望へと導き、死後のことについて何の希望も平安も抱かせなくするのです。


 けれども、この手紙をコリント教会の信徒たちに書き送ったパウロは、高らかに死に対する勝利を宣言します。
「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(54〜55節)。
 私たちに勝ち続けていた死に、私たちを恐れと不安によって支配していた死に、私たちは逆転勝ちして勝利をつかむのです。希望と平安とを勝ち取るのです。どうしてそのようになれるのか?それは、イエス・キリストが死から復活されたからです。そして、キリストの復活を信じる者も、神の愛と力によって死から復活できると信じるからです。
 古来、死の恐れと不安とは、私たち人類にとって人生の最大の問題だったと言って良いでしょう。聖書は、この問題に“復活”という答えを提示します。その一つがコリントの信徒への手紙(一)です。この手紙は15章のはじめから、復活について語っています。長くなるので1節からは読みませんでしたが、その20節でパウロは断言します。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。
 「眠りについた人たち」とは、死んだ人たちのことです。しかし、聖書はそれを“死んだ”とは言わず、“眠りについた”と言います。それは、眠りから覚める時が来ることを信じているから、すなわち復活を信じているからです。〈永眠者記念礼拝〉という名称も、ここに由来します。
 キリストが「眠りについた人たちの初穂」となったということは、キリストが復活の手始めになったということであり、それはキリストに結ばれた人たちがキリストのように復活できるという希望を表しています。22節に、「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と書かれているとおりです。
 アダムとは、神さまが天地を創造されたとき、最初に造られた人間です。旧約聖書の創世記の冒頭に登場します。今、木曜日の聖書と祈りの会では、ちょうど創世記を学んでいます。改めて学び直すと、とても興味深い、おもしろい内容です。先日、3章でアダムがエデンの園で罪を犯す物語を学びました。神さまから食べてはいけないと命じられていた善悪の木の実を、へびにそそのかされてエヴァが食べ、更にエヴァに勧められてアダムも食べてしまうのです。そこで神さまは、もう一つ禁じていた命の木の実を二人が食べることを恐れて、アダムたちをエデンの園から追い出します。私は、二人がもう少し成熟したら、神さまは善悪の木と命の木の実を食べさせようとお考えになっていたのかも知れないと思います。けれども、その時が来る前に、アダムは神さまのお命じに背いて罪を犯しました。その罪のために、アダムは命の木の実を食べられず、永遠の命を得られず、死すべきものとなったのです。
 今日の聖書箇所の56節に、「死のとげは罪であり」とあります。これは、死の原因は罪である、という意味です。罪のために人間は死すべきものとなった、と聖書は見ています。最初の人アダムがそうであったように、私たちも同じく死すべき存在です。
 けれども、その死のとげが私たちの体から抜かれる時が来た。罪の問題が解決される時が来た。イエス・キリストが十字架にかかり、その命を犠牲にして、私たちの罪を贖(あがな)い、赦(ゆる)し、神さまと和解させてくださったと聖書は語ります。そして、キリストが死から復活してくださったことによって、私たちも復活することができるという約束と希望が与えられたのです。
 もちろん、復活の確証があるわけではありません。納得できる証拠を出せ、と言われれば、それは出せないのです。けれども、私たちの信仰は証拠の上に成り立っているのではありません。復活したキリストに出会った、お目にかかったという人々の証言を受け継いで、信じているのです。マグダラのマリアという女性がお目にかかりました。ペトロをはじめとする弟子たちがお目にかかりました。トマスやクレオパという弟子は、とてもユニークな、決定的な出会い方をしました。それらの人々の、復活したイエス・キリストと出会ったという証言が、新約聖書の4つの福音書の最後に散りばめられています。この手紙を書いたパウロ自身も、それら復活の証言を受け継いだと15章3節で語っています。そしてパウロ自身、復活したキリストは自分にも現われてくださったと15章8節で証言しています。
 だから、私たち教会は、これら復活の証言を、すなわち聖書の言葉を受け継ぎ、信じるのです。だれも死後の世界をのぞき見ることも、証拠を示すこともできません。ただ、私たちは、聖書という偉大なる神の言葉を受け入れて、信じるのです。その信仰によって、慰められ、死の恐れと不安に勝利し、希望と平安を勝ち取るのです。


 けれども、現代人はもちろんのこと、2千年前当時の教会にさえ、復活を信じない人々がいました。信じないというよりも、復活を精神(心)の問題として理解しようとしたのです。それらの人々は、人間の肉体は滅んで土に返っているのに、どうやって復活するのか、どんな体になるのか、と疑問を投げかけました。
 その問いかけに対して、パウロは、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(53節)と答えています。「朽ちるべきもの」「死ぬべきもの」とは、50節に書かれている「肉と血」、すなわち肉体のことです。それに対して、「朽ちないもの」「死なないもの」を、パウロは「天上の体」(40節)、「霊の体」(44節)と言っています。聖書は、人間を霊と肉による存在だと考えています。そして、肉の体があるように、霊の世界には霊の体があるとパウロは考えたのです。もちろん、どんな体であるのかはだれにも分かりません。
 私は以前、パウロや彼に対立する人々が、なぜそれほど体にこだわるのかが分かりませんでした。体がなくてもいいじゃない。死んだ後も霊(意識?)が続くなら、それでいいじゃないと考えていました。体の復活ということが腑(ふ)に落ちませんでした。けれども、ある映画を見たとき、体の復活を信じるということの大切さを納得しました。それは〈ゴースト 〜 ニューヨークの幻〉という映画でした。
 サムという銀行員が主人公で、恋人のモリーと幸せに生活していましたが、ある時、暴漢に襲われ、殺されてしまいます。しかし、サムはゴースト(幽霊)となってモリーを見守ります。やがてサムは、自分が殺されたのは、銀行の同僚であったカールが不正をしていることに気づいたからだということを知ります。そこで、親切と同情を装いモリーに近づいてくるカールの正体を、霊媒師(れいばいし)を通してモリーに知らせます。罪と正体がばれたカールはモリーのことも殺そうとしますが、サムがモリーを守り、カールは自分が割ったガラスが胸に刺さり、死ぬことになります。モリーの安全を確かめたサムは、モリーに別れを告げ、安心して天国に昇って行く‥‥‥という内容です。
 この映画の中で、ゴーストとなったサムとモリーが触れ合おうとするシーンがあります。しかし、触れ合うことができない。とても切ない場面です。しかし、最後にサムが霊媒師の体を借りて、モリーと触れ合うシーンが出て来ます。私はそれを見ながら、もし私たちが死んだ後も愛する人と再会することができたなら、やはり触れたい、抱きしめたいと思うだろうなあ、と感じました。そう思ったら、“あぁ、そうか、神さまが私たちに復活の体、霊の体を備えてくださるのは、私たちが愛する人と再会したとき、触れ合い、抱きしめ合うことができるようにしてくださるためだ。そこまで神さまは私たちのことを考え、配慮してくださっているのだ”と、霊の体ということに心から納得しました。信じる者となりました。


 復活という恵みは、理屈や証拠で考えることではありません。私たちの恐れや不安、悲しみから考えることです。死の恐れや不安、悲しみは、慰められ、希望と平安を得なければ、私たちは健やかに生きていくことができないから、それを求めるのです。そして、聖書の言葉、神の言葉に耳を傾け、心に受け止め、蓄え続けていくならば、いつの日か、私たちをお造りになり、命を与えた神さまが、私たちを深く愛してくださっていることが、スーッと心に通るようになります。ストンッと胸に落ちるようになります。その神の愛が信じられるようになるから、私たちは、私たちの死を、神さまが配慮して、最善にしてくださると信じてゆだねることができるのです。だれにもはっきりとは分からないけれど、最善を信じてゆだねることができる。平安と希望の元がここにあります。
 だから、パウロは最後に、私たちにこう言うのです。
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業(わざ)に常に励(はげ)みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(58節)。
復活を信じて、私たちは、神の御(み)心のままに、使命をいただいて生きていきましょう。

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