坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2014年11月16日 礼拝説教「上に立つ人は仕える者のよ

聖書 ルカによる福音書22章24〜30節
説教者 山岡創牧師

22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

 
          「上に立つ人は仕える者のように」

 最後の晩餐(ばんさん)は、主イエスが死ぬ前にどうしても弟子たちと共になさりたいと願っていた食事でした。その姿、その言葉の一つひとつが言わば 弟子たちへの“遺言(ゆいごん)”です。
 けれども、そのような厳粛な席で、弟子たちはいったい何をしていたでしょうか。「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」(24節)と議論していたというのです。最初は弟子たちも、主イエスの厳粛な態度に緊張していたに違いない。この中に「裏切る者」(21節)がいると指摘され、更に緊張感は強まりました。けれども、ぶどう酒を飲んだことで、ちょっと酔いが回って来た。弟子たちの議論は、張り詰めた空気から逃れるように、裏切り者はだれかということから彼らがいちばん関心を持っていることへ、すなわち、だれがいちばん偉いかという話題にすり替わっていったのでしょう。


 弟子たちは、偉くなりたいと願っていました。主イエスに従ううちに、神の国が実現する時には‥‥と、そういう願いを膨(ふくら)らませて行ったかも知れません。
 では、弟子たちの考える「偉い人」(26節)とはどんな人のことでしょうか。彼らに代わって、主イエスが25節で代弁しています。それは、「王」のように民を支配し、「守護者」のように権力を振るう者でした。王や守護者のように政治的に最高の地位でなくとも、ともかく人の上に立ち、上から権力を振るい、人を支配する者でした。「食事の席」(27節)で言うならば、「給仕をする者」ではなく、「食事の席に着く者」(27節)でした。給仕をする者に食事の世話をしてもらえる人でした。
 王や守護者と言って聖書の中で思い出すのは、ヘロデ王です。ルカによる福音書でも3章19節以下、9章7節以下に登場します。ヘロデ王は、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを奪い、結婚しました。そのため、その罪を洗礼者ヨハネに指摘されると、彼を捉えて牢に入れました。そして、自分の誕生パーティーの席で娘に約束した軽はずみな発言と面子(めんつ)から、ヨハネを処刑してしまいます。その姿には権力者のエゴが浮き彫りにされています。自分本位です。自分中心に物事を考え、その願いを押し進めます。それができる権力を持っているのです。ヘロデ王だけではありません。神に従う名君と謳(うた)われたダビデ王でさえ、自分の部下であるウリヤを戦場でわざと戦死させ、その妻バト・シェバを自分の妻にしたことがありました。権力に慢心し、神の声に従わず、自分本位な欲望を押し進めた結果です(サムエル記下11章)。
 自分のやりたいことをやれる。その力を持っている。しかも、注意する人、間違いを叱る人はだれもいないのですから思い上がります。譬(たと)えてみれば、丸腰で“悪魔の誘惑”にさらされているようなものです。神の道から遠ざけられるのです。
 そうとは知らずに弟子たちは、偉くなりたい、上に立ちたいと願ったのでしょう。一度、周りの人間に気を使ったり、譲ったりせず、自分の思うままにやってみたい。人を使ってみたい。そんな願いが弟子たちの心にあったのかも知れません。


 そんな弟子たちに、主イエスは、「あなたがたはそれではいけない」(26節)と言われました。そして、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(26節)と諭(さと)されたのです。
 では、「仕える者」とはどんな人のことでしょうか。“仕える”とはどのように生きることでしょうか。現代の日本の社会では“仕える”という言葉を聞くことは、ほとんどなくなりました。仕えるというのは元来、自分より目上の人のために尽して働く、とか、家来が王の命じるままに動く、というような意味です。けれども、主イエスは、そのような上下関係を前提にして“仕える”ということを考えておられるのではありません。否、上下関係で言うならば、むしろ上に立つ者が下の者に仕えるべきだと考えておられるのです。だから、従来の上下関係は参考にならない。上も下もなく、人と人として、相手に仕える心で接することを教えておられるのです。そのために、食事の席でご自分が給仕をなさり、弟子たちにその具体的な生き方を示されたのです。ヨハネによる福音(ふくいん)書13章では、主イエスは最後の晩餐の席上で、弟子たちの汚れた足さえ洗っています。
 主イエスは弟子たちに、言わば模範(もはん)を示されました。弟子たちは、それで分かったのでしょうか。私は、今日の聖書の箇所を考えながら、“仕える”ということがいまいち ピンッと来ませんでした。なぜでしょう?死語だからでしょうか?考えてみて、それは私が、主イエスに仕えられている、という意識がないからだと思い当たりました。私の中には、“救われている”という思いはありますが、“仕えられている”という意識がないのです。主イエスの十字架と復活によって示された愛と赦(ゆる)しと命の真理によって私は救われている。聖書の教えによって、それを信じて救われている。そう感じています。実感しています。けれども、自分が主イエスに仕えていただいていると感じたことはないかも知れない。どうしてでしょう?主イエスと直接お目にかかったことがないからかも知れません。直接、給仕をしていただいたり、足を洗っていただいたことがないからかも知れません。そういう体験がない。当たり前です。現代の私たちが、主イエスとの間にそのような体験ができるわけがない。そう思ったとき、ハッとしました。私には、自分自身が他の人に、本気で仕えたことがないのではないか。人のためと思いながら、いつもどこかに自分のため、があるのではないか。いや、人のためと思ってすることは少なからずある。でも、それが喜びになっていないのではないか。それで、主イエスに仕えられている、ということが分からないのではないか。“仕える”ということの深さが分からないのではないか。そんな反省を思い巡らしました。


 仕えるとはどういうことでしょう。主イエスが弟子たちの給仕をされ、足を洗われた延長線の先には、主イエスの十字架の死があります。十字架の上で弟子たちのために、ご自分の命を捨てられたのです。だから、仕えるということの究極は、否、本来の意味は、その人のために自分の命を捨てる、ということなのです。そして現実に、だれかのために命を捨てることが、私たちの人生にもあり得るかも知れません。
 けれども、実際に命を捨てれば、私たちの人生はもちろんそこで終わりです。そう簡単にポンッと捨てられるものではありません。でも、もう少し小さくした形で、人のために命を捨てることはできるのではないかと思うのです。
 先週の火曜日、他の教会の信徒で親しくしている青年がヒョッコリ、訪ねて来てくれました。だいぶ顔を合わせていなかったからと言って、有休を使って会いに来てくれたのです。2時間ほど話をする中で、話題が家の手伝いのことになり、子どもの頃の話になりました。その青年は中学生の時、野球部で、土で汚れたウェアやストッキングを手洗いして、土をある程度落としてから洗濯に出していたと話してくれました。私も自分のことを話しましたが、私は恥ずかしながら、子どもの頃、家の手伝いをした記憶がほとんどありません。自分のしたいように遊んでいた。親も手伝いを余りさせなかったようです。私は中学と高校生のとき、サッカー部でした。サッカーも練習や試合で、ジャージやストッキングがドロドロになります。でも、私はそれを自分で洗ったことがたまにしかありません。ほとんど親に洗わせていた。それが当たり前だと思っていました。今考えてみると、大変だったろうなあ、申し訳なかったなあ、という気持になります。けれども、母親は文句一つ言わず、土でドロドロに汚れた私のジャージやストッキングを6年間、私のために洗い続けてくれました。日常的な事柄です。でも、仕えるというのは、こういうことを言うのではないだろうか。私はそう思うのです。自分の命を捨てるということは、小さく言えば、自分の“時間”を人のために使うということではないか。そんな思いに至りました。


 その時、ふと思い起こしたのが、ミヒャエル・エンデという作家が描いた『モモ』というタイトルの童話です。時間泥棒に盗まれた時間を人間に取り返してくれた女の子の不思議な物語です。とある大都会に、時間貯蓄銀行という不思議な銀行ができました。その銀行の営業マンたちは、灰色のスーツを着て、普段は人に見えないように、見つからないように行動します。陰で一人ひとりを調べ上げて、ここぞ!という時に、その人の前に現れます。そして、その人の一生の時間を計算して見せ、その中で“あなたは、この時間も、あの時間もこんなに無駄にしている”と指摘し、“その無駄が原因で成功できないんだ”と分析します。そして、“これから先の人生、同じように無駄にするであろう時間を、時間貯蓄銀行に貯蓄して、その時間を将来、有意義に使いませんか”と持ちかけるのです。すっかりその気にさせられた人々は、時間貯蓄銀行と契約を結び、口座を開きます。そして、時間を無駄にせず節約して貯蓄しようと、効率重視でせかせかと働き始めるのです。そのうち彼らは時間節約銀行のことを忘れてしまいます。けれども、時間を無駄にしないようにという意識は残っている。便利な物が生み出され、給料は増え、物質的には豊かになっていきます。けれども、彼らは“忙しい。時間がない”が口癖となり、絶えずイライラするようになります。家族と過ごしたり、友だちとおしゃべりしたり、何かを楽しむ時間を、“時間の節約”という名の下に失っていくのです。
 そんな友人たちの生活をモモが救い、彼らに時間を取り戻すのですが、最初にモモが大都会の郊外にある廃墟(はいきょ)となったコロシアムに住み始めて間もない頃、近所の多くの人々が絶えず、モモに会いにやって来ました。モモに自分の話や問題や愚痴(ぐち)を聞いてもらうためです。モモは何もしゃべりません。答えもしません。ただジーッと注意深く聞いているだけです。けれども、話した人は、それだけでスッキリしたり、整理がついたり、自分なりの答えが見つかったりして、感謝して帰って行くのです。
 私はこの童話を改めて読み返しながら、モモは人の話をじっくりと聞くという形で、人のために自分の時間を使っている、人に仕えていると思いました。
 私は、人のために自分の時間を使っているだろうか。心から使っているだろうか。喜びとしているだろうか。人のために自分の時間を使うことを惜しむ自分がいます。右手で電話を持ち人と話をしながら、左手でパソコンを打っている自分がいます。“忙しい。時間がない!”と叫んでいる自分がいます。言い訳をしている自分がいます。時間貯蓄銀行と契約した人と同じです。そういう自分に、主イエスによって向き合わされる。それはむしろ幸せなことだと思います。


 人に仕える者となりたい。人のために自分の時間を心から使える人になりたい。それがきっと、結果的に自分の豊かさになり、幸せになると信じるのです。では、何から始めたら良いのでしょうか。
 カトリックのシスターである渡辺和子さんが、若いころ、アメリカの修道院で修業をしていたとき、先輩のシスターからこんな注意をいただいて、ハッとしたと言います。渡辺さんがテーブルに夕食のお皿を並べていた。何も考えずに無心に並べていると、先輩から“あなたは時間を無駄にしている”と言われた。そして、“どうせお皿を並べるのなら、夕食の際にその席に座るであろう人のことを思い浮かべて、祈りを込めて並べてごらんなさい”と教えられたというのです。
 私たちクリスチャンが、人のために時間を使う第一歩は、その人のことを思い浮かべ祈ることではないでしょうか。短くても人のために祈り時間を持つことではないでしょうか。そう思いました。そして、その祈りの心を、夕食の準備とか、掃除や洗濯、仕事や学校での勉強にも込めていく。簡単ではないかも知れませんが、その意識が大切だと思うのです。
「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(29〜30節)
 主イエスのこの言葉を聞いたとき、弟子たちはどう思ったでしょうか。偉くなって、人を支配し、思うままに権力を振るえると思ったでしょうか。もちろん、主イエスはそんなことを弟子たちに約束されたのではありません。この約束の裏に込められた主イエスの願いを知るためには、弟子たちは、いや私たちは、主イエスが十字架にお架(か)かりになる姿を見つめ、私たちに仕えてくださる愛の心を思いながら、私たちも人のために自分の命を捨てることを、人のために自分の時間を使って仕えることを実践し、学ぶ必要があるでしょう。言わばその生活こそが、神の国の「食事の席」です。仕えることこそ私たちの「王座」であり、喜びです。

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