坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年2月1日 礼拝説教 「キリストに見つめられる」

聖書   ルカによる福音書22章54〜62節
説教者 山岡創牧師
 
22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。
22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。

          「キリストに見つめられる」
 主イエスは捕らえられました。弟子たちと最後の晩餐(ばんさん)を済ませ、いつものようにオリーブ山に行って祈っているときに、イスカリオテのユダの手引きでやって来た祭司長、神殿守衛長、長老たちによって捕らえられました。そして、彼らは、主イエスを「引いて行き、大祭司の家に連れて入り」(54節)ました。そこで夜明けを待つためです。夜が明けたら、彼らは最高法院を開こうとしていました。ユダヤ人の政治と宗教の最高の議会です。日本で言えば、国会と最高裁判所が一つになったようなものです。彼らは、主イエスに汚名と濡れ衣を着せて裁こうとしていました。彼らの政治と宗教を批判し、今までにはなかったような新しい行動を取り、しかも民衆に人気のある主イエスが邪魔だったからです。


 さて、大祭司の家に連れて行かれた主イエスに、弟子の筆頭であるペトロは「遠く離れて従った」(54節)と記されています。彼は、主イエスが連れて行かれた大祭司の家の中庭に入り込みました。主イエスがどうされるのかが心配だったのでしょう。けれども、“自分は主イエスの弟子だ”と名乗り出ようとはしない。暗闇の中で、弟子だと分からないように、多くの人々、下役、女中たちの中に紛れ込んでいる。その微妙な態度が「遠く離れて従った」という言葉に、象徴的に表わされています。弟子であっても、クリスチャンであっても、自分が傷つかない、痛まない距離感、損をしない従い方です。
 けれども、その中途半端な主イエスとの距離感が問われる時が来ました。ある女中が、焚(た)き火に照らし出されたペトロの顔を見て、「この人も一緒にいました」(56節)と言い出したのです。ペトロはドキッとしたに違いありません。うまくごまかして、紛れ込んでいた自分の正体がばれそうになったのです。思わずペトロは、「わたしはあの人を知らない」(57節)と打ち消しました。怖かったからでしょう。自分も主イエスの一味として裁かれ、処刑されるかも知れないと思うと、恐ろしかったからです。そんな問答が更に2度続きました。その度にペトロは、「いや、そうではない」(58節)、「あなたの言うことは分からない」(60節)と打ち消します。ペトロはなおもごまかし、暗闇に溶け込み、人々の中に紛れ込もうとします。
 けれども、その時、鶏(にわとり)が鳴きました。ペトロはその鳴き声にハッとします。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(61節)と言われた主イエスの言葉を思い出したからです。
 ペトロはこの言葉を、最後の晩餐の席上で、主イエスから言われました。主イエスは、“サタンがあなたがたの信仰をふるい(篩)にかける。まるでふるいにかけられ、試されているかのような信仰の試練に出会う。あなたは信仰を失いそうになる”と言われました。その試練がまさに、大祭司の家の中庭での尋問でした。ペトロは、主イエスのその言葉を打ち消して、「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22章33節)と豪語しました。その時、主イエスが言われたのが、あの言葉です。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。主イエスは、ペトロの“弱さ”を見通しておられたのです。
 それにしても、ペトロは、最初に、あるいは2回目に、主イエスを知らないと打ち消したとき、この言葉を思い起こさなかったのでしょうか。チラッと頭の片隅をよぎりはしたかも知れません。けれども、ほとんど気に留めもしなかったのでしょう。恐れと不安でそれどころではなかったのでしょう。
 言わばペトロはこの時、目の前の“人”を見ています。女中の言葉を恐れ、下役たちの目を気にし、目の前の人々を怖がって、自分をごまかしています。ところが、鶏の鳴き声によって、人目を気にし、恐れていた自分の意識を、別の方に、主イエスの方に向けさせられたのです。鶏の鳴き声に、ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に‥」と言われた主イエスの言葉をハッと思い出したに違いありません。そして、最後の晩餐の場面が、その時、自分にそう言われた主イエスのお顔が、まなざしが思い出されたに違いありません。つまり、鶏が鳴いたとき、ペトロの前に主イエスが現れ、主イエスのまなざしに見つめられたような思いになったのだと言うことができます。人の目ではなく、主イエスの目、まなざしに注意を向けさせられたのです。
 今、NHKで、吉田松陰(の妹・文)の生涯を描いた〈花燃ゆ〉という大河ドラマが放送されています。その第一話で、松陰が妹・文に言った“書物は人じゃ”という言葉がとても印象に残りました。幕末の、まだ鎖国政策が敷かれていた時代、自由に書物を読むことはできませんでした。しかし、松陰は外国から日本を守る思いに燃えて、様々な書物を読みあさります。そして、書物に描かれているその人の考えや思想、情熱を知ることは、その人自身に出会うことだ。時代を超え、国を超えて、その人に会うことができる、と文に話すのです。私は、この言葉から“聖書はイエスじゃ”と思いました。聖書を通して、主イエスの言葉に教えられ、感動することは、主イエスご自身に出会うことなのです。
 ペトロは、鶏の鳴き声に「今日、鶏が鳴く前に‥」と言われた主イエスの言葉を思い起こしました。その時、ペトロは主イエスと出会ったのです。そこにいないはずの主イエスの前に立たされたのです。主イエスに見つめられたのです。
「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61節)。私は、この言葉を不思議に思っていました。主イエスは大祭司の家の中に捕らわれているはずです。一方、ペトロは中庭にいます。居る場所が違うのです。それなのに、どうして主イエスが振り向いてペトロを見つめることができたのだろうか、と不思議に思っていました。
しかし、それは、現実に、本当に、主イエスに見つめられたということではないのかも知れません。ペトロが主イエスの言葉を思い出し、それを言われた時の主イエスの、自分を見つめるまなざしを思い出した、ということなのかも知れません。
主イエスに見つめられたペトロは、主イエスとの関係を打ち消した自分、主イエスを裏切った自分、主イエスを捨てて逃げた自分を思い、「外に出て激しく泣いた」(62節)といいます。
 江戸時代に、〈絵踏み〉というキリシタンを発見する方法がありました。禁じられていたキリスト教の信者を見つけ出すために、役人が村々を回って、イエス・キリストの顔が描かれている絵(板)を一人ひとりに踏ませるのです。キリシタンでない者はもちろん、何の気もなく踏めます。けれども、キリシタンであった者は、そう簡単には踏めない。そんなのは、ただの絵じゃないか、本当のキリストではない、という訳にはいかない。役人の前で、形の上でだけキリストの絵を踏んだって、心の中で信じている信仰に変わりはないんだ、という訳にはいかない。一度でも、本気でイエス・キリストを信じた者には、自分はイエス・キリストを捨てて、裏切っているという気持がどこかに生じるのです。そして、踏むことに迷いが生じます。葛藤(かっとう)が起こるのです。
 ペトロも、主イエスの言葉を思い起こし、主イエスのまなざしを思い浮かべたとき、自分が主イエスを捨てたことを、裏切ったことを、激しく後悔したに違いありません。


 ところで、江戸時代に、九州にやって来たポルトガルの宣教師ロドリゴの苦悩を描いた『沈黙』という遠藤周作氏の小説があります。キチジロウという信者が、踏み絵を踏み、仲間を役人に売ってしまいます。彼も決して進んでやったわけではありません。ロドリゴも役人から信仰を捨てるように迫られます。自分が拷問(ごうもん)されて、ではありません。他の信者たちが拷問されている。もう信仰を捨てている。でも赦されない。お前が信仰を捨てたら、信者たちを赦してやろうと、ロドリゴは迫られるのです。そして苦悩の末に、彼は遂にキリストの顔を踏みます。信仰を捨てるのです。
 その後、ロドリゴは放心したように、生ける屍(しかばね)のように過ごしていました。その彼に、踏み絵のイエス・キリストが、こう語りかけるのです。
  踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日までわたしの顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だが、その足の痛さだけで充分だ。私はお前たちのその足の痛さと苦しみを分かち合う。そのために私はいるのだから。(『沈黙』240頁)
振り向いて、ペトロを見つめられた主イエスのまなざしも、この言葉と同じように、主イエスの憐れみを、赦しを、愛を表していたのではないでしょうか。主イエスは決して、ご自分を裏切り、見捨てるペトロを、恨(うら)みと呪(のろ)いのまなざしで見つめていたのではないと思います。主イエスは、ペトロをはじめ弟子たちが、信仰を試され、信仰を失いそうになることを知っておられました。鶏が鳴く前に3度、ご自分を知らないとペトロが言うことを知っておられました。だからこそ、主イエスは最後の晩餐の席上で、ペトロにこう言われたのです。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22章32節)。
 降り向いてペトロを見つめた主イエスのまなざしは、恨みや呪いではなく、この祈りのまなざし、赦しのまなざし、励ましのまなざしだったはずです。愛と憐れみのまなざしだったはずです。ペトロは「遠く離れて従った」と最初にありましたが、まだ遠く離れていた息子を見つけ、憐れに思って走り寄り、首を抱いて接吻した〈放蕩息子(ほうとうむすこ)〉の父親のまなざしと同じだったと思います。


 けれども、この時はまだ、ペトロは、主イエスのまなざしに込められた祈りに、赦しに、憐れみに、胸がいっぱいで気づくことができませんでした。自分の罪を知ったペトロが、この主イエスの愛に気づくのは、主イエスが十字架に架けられて死に、復活してペトロの前に現われてくださった時です。復活した主イエスから、赦しと派遣の言葉をいただいた時です。
 私たちは、主イエスにどんな従い方をしているのでしょうか。しかし、どんな従い方をしていようとも、主イエスは私たち一人ひとりを愛と祈りのまなざしで見ていてくださいます。主イエスはこの愛と祈りを、最後の晩餐の聖餐に既に込めておられました。この後、私たちは聖餐をいただきますが、そのたびに私たちは主イエスの愛と祈りを思い起こし、味わうのです。弱さのゆえに人を、神を裏切り、見捨ててしまうような罪を持った私たちを、主イエスは今日も、愛して送り出してくださいます。あなたの兄弟姉妹を力づけてやりなさい、と送り出してくださいます。


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