坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年3月22日 受難節第5主日・大人と子どもの礼拝説教 「本当に神の子だった」

聖書  マルコによる福音書15章33〜41節
説教者 山岡創牧師

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

 
          「本当に神の子だった」

 イエス様は十字架に架(か)けられました。イエス様の教えとやり方が気に入らない、という人々によって、濡れ衣の罪を着せられ、有罪と裁かれ、十字架に架けられました。朝の9時に架けられ、12時には空が真っ暗になりました。そして、3時になるとイエス様は大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34節)。
 これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)という意味です。イエス様は、十字架に架けられて、こんなに苦しく、辛(つら)い目に会うなんて、自分は神さまに見捨てられた、と感じたのでしょうか。


 皆さんは、神さまに見捨てられた、と感じたことがあるでしょうか?
エス様は、神さまのことを“父よ”と、“お父さん”と呼んでいました。だから、信頼していた親に見捨てられたような、ショックな気持でしょう。親に見捨てられた。そんなつらい経験をする人もいます。親でなくても、信頼していた相手から見捨てられたかのような経験をすることはあるでしょう。友だちに見捨てられた。恋人に見捨てられた。信頼していた上司に見捨てられた。そんな経験をすることがあるかも知れません。立ち直れないような気持になったり、心に大きな傷を負います。
 イエス様も、神さまに見捨てられた、と感じたのです。日本人流に言えば、“もう神も仏もあるものか!”という気持です。こんなに信じていたのに、信頼していたのに、祈っていたのに、どうして神さまは、こんなに苦しいことに、こんなに悲しいことに遭(あ)わせるのか。どうして何とかしてくださらないのか。もう信じられない。そんな気持です。
 ある牧師先生がいました。37年前、6歳の息子を交通事故で亡くしました。“お父さん、遊びに行って来るよ”と言って出掛けた息子は、そのまま帰らぬ人となりました。なぜ止めなかったのか、なぜ一緒に行かなかったのか、悔(く)やんでも悔やみきれない気持だったそうです。
 事故から2年間ぐらいは、息子が亡くなった道を通ることができなかったといいます。夜中に往来(おうらい)の激しい国道にさまよい出ては、“神さま、めまいがしてよろめいて、車に巻き込まれて死んだことにしてくれませんか”と祈ったといいます。牧師でありながら死を願う日々だったといいます。
 そして同時に、この牧師先生は、牧師でありながら、神さまが事故で息子を奪ったと感じ、“もうあなたのことを信じられません”と、神さまに反抗して生きようか、神さまを否定して生きようかと考えたこともあったそうです。
 私は、この先生の気持が分かる気がします。私も、同じような経験をしたら、やはり同じような気持になるのではないかと思います。牧師なのに、と思われるかも知れません。でも、牧師も100%完璧な信仰を持っているわけではありません。弱い人間です。弱い人間だから、苦しみや悲しみに会うと、“神さま、どうしてですか”と叫びたくなる。神さまに反抗し、否定したくなる。それでも、弱い人間だから、神さまにすがりたいのです。神さまを信頼したいのです。
 この牧師先生は、そんな悲しみの中で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とオリーブ山で祈られたイエス様に出会ったといいます。もちろん、知っていた言葉です。でも、息子を失って、悲しくて死にたくなるような気持を味わったとき、初めてこのイエス様の言葉が、心に響いたのです。悲しみのあまり死ぬほどの気持を味わわれたイエス様が、自分の悲しみを受け止めてくださらないはずがない。そう思えたとき、心が癒(いや)されたといいます。『信徒の友』3月号(特集)に掲載(けいさい)された話です。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。こう叫ばれたイエス様、見捨てられたかのような悲しみを味わわれたイエス様。だからこそ、見捨てられたと感じるような私たちの苦しみ、悲しみを分かってくださり、受け止めてくださいます。そばに寄り添うように、心の中に、一緒にいてくれます。


 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様。けれども、この言葉には大どんでん返しがあります。旧約聖書の中に詩編(しへん)という書があります。その詩編22編(852頁)の最初に、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という全く同じ言葉があります。だから、イエス様は、十字架の上で、詩編22編を歌おうとしたのだと思われます。そして、この22編は、悲しみと嘆(なげ)きの言葉から、神さまは助けを求める叫びを聞いてくださり、恵みを与えてくださるという信頼の言葉で終わります。だから、イエス様は、詩編22編を歌うことで、十字架に架けられたことは、神さまに見捨てられたと思うほどの苦しみ、悲しみだけれど、でも神さまは必ず叫びを聞き、助けてくださる、救ってくださると信頼を表わそうとしたのだと思います。
 そして、その信頼のとおりに、イエス様は、十字架の死から復活されました。十字架の苦しみから復活することで、“あなたたちも苦しみ、悲しみの傷が癒され、立ち上がれるんだよ。信じなさい”と呼びかけておられるのです。
 先ほど紹介した牧師先生は、息子さんの小学校入学祝いに買った遺品(いひん)の聖書をめくっていたら、「夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立っておられた」(ヨハネ21章4節、新改訳聖書)という御(み)言葉に赤の線が引いてあるのが目に飛び込んで来たといいます。復活したイエス様が、悲しみに沈む弟子たちにお会いになる場面です。そのとき、亡くした息子さんが“お父さんの大好きなイエス様は夜明けに岸辺に立って、お父さんを迎えてくれるんだよ”と語りかけてくれている気がしたそうです。そして、そのときから“息子の分まで生かしていただこう”という決心がついたといいます。悲しみが消えるわけではありません。でも、悲しみを負って、息子の分も生かしていただこうと決心されたのだと思います。


 十字架の苦しみと悲しみを味わい、私たちの苦しみと悲しみを受け止めてくださるイエス様。十字架の死から復活して、私たちの苦しみ、悲しみにも慰(なぐさ)めと希望を与えてくださるイエス様。このイエス様と心で出会えた時、私たちは「本当にこの人は神の子だった」(39節)と信じて告白することができるようになるのです。


記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P
 http://sakadoizumi.holy.jp/