坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年4月19日 礼拝説教 「触ってよく見なさい」

聖書  ルカによる福音書24章36〜43節
説教者 山岡創牧師

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


          「触ってよく見なさい」
 主イエスが復活された。それは弟子たちにとって、驚くべき、信じ難い出来事でした。それはそうだと思います。私たちだって、もしも亡くなった人が復活して、だれかの前に現れたと言われても、にわかには信じられないでしょう。その人の見間違い、人間違いと思うかも知れません。その人が精神的に混乱していて幻でも見たのだと思うかも知れません。いずれにせよ信じ難いことです。
 弟子たちは、現代から2千年も昔の、まだまだ科学技術など発達していない時代の人間だから、私たちよりも信じやすい、信じられる‥‥などと思ってはなりません。彼らとて同じです。一度死んだ人間が、復活して、目の前に現れるなどということは、経験のない、不合理な、非常識的な出来事だったのです。

 先週の礼拝で、エマオという村に向かう二人の弟子が、その道中で、復活した主イエスにお目にかかった聖書の箇所を読みました。そこで、二人の弟子は大急ぎで、まだエルサレムにいる弟子たちのもとに戻ります。すると、既にそこでも、主イエスが復活して現れたということが、ホットな話題になっていました。「本当に主は復活して、シモンに現われた」(24章34節)。シモンとはペトロのことです。そこに、二人の弟子たちも加わって、主イエスが自分たちにも現われて、聖書を説き明かし、パンを裂いて食事のホストをしてくださったと話しました。その場の空気は更に興奮を加え、盛り上がったに違いありません。
 けれども、それは、主イエスは確かに復活したと言って、盛り上がったのではないと思います。そんなに簡単に弟子たちが信じたのではありません。興奮と驚きと、そして疑いの入り混じった空気だったでしょう。半信半疑、否、まだ半分も信じられなかったかも知れません。今日の聖書箇所を読むと分かりますが、復活した主イエスが皆の前に現れたとき、既に主イエスにお目にかかったシモン・ペトロや二人の弟子でさえも、皆と一緒に「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)というのです。それぐらい、主イエスの復活は信じ難い出来事だったのです。
 では、その信じ難い主イエスの復活を、弟子たちに信じさせた要因はいったい何だったのでしょうか。それは、触ってよく見る、ということでした。触ってよく見ることで、弟子たちは主イエスが復活されたことを確かめたのです。

 “主イエスは復活された”“いや、そんなバカな”と大騒ぎしていた弟子たちのもとに、当の主イエスご自身が現れて、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(36節)と言われました。私はこの、真ん中に立った、ということに、とても意味があると感じています。それは、主イエスが、信仰と疑いの真ん中に立った、という意味だと思うからです。復活を信じる弟子たちの方に片寄って立ち、疑っている弟子たちを冷たい目で見た、ということではない。信じる者にも、疑う者にも等しい距離で立ち、一人ひとりの信仰も疑いも、すべて“それでよい”とお認めになって、受け入れられたということだと思うのです。一人ひとりに信仰の段階があるからです。信じられず、疑う時もあるからです。弟子たちがお互いに裁き合い、疑う者を切り捨てることのないようにするためです。お互いに受け入れ合えるようにするためです。そして、それが「平和」ということではないでしょうか。
 けれども、この時はまだ、すべての弟子たちが「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」というのです。先ほども申しましたが、シモン・ペトロや二人の弟子でさえも、その中に混じっていました。彼らも未だ、自分の経験したことが信じられず、半信半疑だったのです。
 そのような弟子たちに、復活した主イエスが言われました。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑い起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38〜39節)。
 「触ってよく見なさい」と主イエスは言われます。よく見て、触ったら、もはや疑いようがないからです。人間には、五感というものがあります。見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触るという五つの感覚です。例えば、赤ちゃんはまず、何でも口に持っていきます。口で味わって確かめることが、赤ちゃんにとって最もリアルだからです。私たちも、目に見えるものというのは、最もリアルな現実体験ではないでしょうか。主イエスはおそらく、ただ手と足を見せたのではありません。ご自分が十字架につけられたとき、釘を打たれた手の穴と足の穴をお見せになったのです。それだけで、弟子のトマスなどは、「わが主よ、わが神よ」と叫んで信じたと、ヨハネによる福音書20章28節に書かれています。けれども、自分の見ているものは現実ではなく、亡霊ではないか、幻ではないかと疑う者もいる。だから、主イエスは触ってみなさい、と言われるのです。触れたら、もはや疑いようがない。ある意味で、これ以上にリアルな体験はないからです。
 わたしたちは、信仰告白使徒信条で“からだのよみがえり‥‥を信じます”と告白します。ただの“よみがえり”ではない、からだのよみがえり(復活)です。今日の聖書箇所が、この信仰告白の根拠の一つになっているのではないかと私は思います。つまり、それは、復活した主イエスには体がある、だから触ることができる、それほどにリアルな復活なのだ、という信仰告白なのだと思います。
 主イエスは、恐れおののき、疑う弟子たちに、ご自分の手足を見せ、触らせてくださいました。それでも、弟子たちは「まだ信じられず、不思議が(る)」(41節)のです。喜びはある。でも、まだ信じられずに不思議がる。その弟子たちに、主イエスは魚を食べて見せました。味わうということを、主イエスご自身がしてくださったのです。既に弟子たちは主イエスの言葉を聞いています。そして主エスの手足を見、その体に触りました。その上、魚を食べる主イエスの姿を見ました。五感のうち四感まで、弟子たちに確かめさせてくださったのです。
 これでもか、これでもか、と復活を示してくださる主イエスを、なお疑ってしまう。それでも、主イエスは腹を立てず、見捨てずに、次の証拠を示してくださる。その姿から感じる主イエスの愛が、弟子たちにとっては最もリアルだったかも知れません。

 今日の聖書の箇所を黙想し、説教の準備をしながら、私は、自分の信仰がある意味でひっくり返されたような気がしました。と言うのは、弟子たちが、私たちが信じるために、主イエスがリアルな証拠を示してくださっているからです。見て、触って、その現実を確かめて、それで信じる。信仰とはそれで良いのだ、と言われているような気がしました。
 見ないのに信じる。一方では、それが信仰の世界です。主イエスも、弟子のトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)と言われています。信じたことが現実にはならない。その現実を見ることも触ることもできない。それでも信じて、希望を失わずに生きる。それが信仰です。
 けれども、他方で、私たち人間はそんなに強くはない。思うようにはいかない現実の苦しさ、悲しさに、落胆する。絶望する。あきらめ、投げ出したくなる。信じる心さえも失ってしまう。そういう私たちの弱さを、主イエス・キリストはよく分かっていてくださるのではないでしょうか。そして、見て、触って、味わって、それで信じるので良い、と言ってくださるのではないでしょうか。見て、触って、味わって、それでも疑いを起こす私たちに、なおも見せ、触らせ、味わわせてくださるのではないでしょうか。だからこそ、私たちは主イエスのもとに集まることができる。立派な信仰ではなく、不信仰な者を招いてくださる主イエスだからこそ、主イエスのもとに行くことができる。教会に行くことができる。そうだと思うのです。そしてそこで、見て、触って、味わって、主イエスの現実に触れた人は、信仰に目覚めていくのだと思います。

 東日本大震災の被害を体験された人の話の中に、一人の女性の次のような体験談がありました。地震が起こって、ライフ・ラインが止まってしまって、寒いのに体を温める暖房器具が何もない。そのとき、近所に住んでいる年配の男性が、これを使えと言って、石油ストーブを持って来てくれた。自分の家にも年老いた親がいて、大変だろうに、それを私のために分けてくれた。そのことがあってから、自分の力でやらなければ、生きなければと思って来た私の人生観は全く変えられてしまった、というような話でした。東日本大震災という未曽有の体験の中で、この女性にとっては、一人の人が、自分に石油ストーブを貸してくれたという出来事が、最もリアルだったのです。そのリアルな出来事が、地震以上に彼女の心を揺らし、彼女を変えてしまったのです。
 リアルな体験は人を変えます。私たちの信仰も、そういうリアルな体験があって初めて、信じられるようになるのだな、と思いました。エマオの村に向かった二人の弟子のように、礼拝(れいはい)で聖書の御(み)言葉の説教を聞く。その御言葉を信じたい、信じようと思う。でも、疑いがある。迷いもある。体験していないからです。だから、私たちは祈り求める必要があります。“神さま、聖書の御言葉にこうありました。だから、これこれこうしてください”と祈り求める。その祈り願いを神さまが聞いて、実生活の中で恵みを実現してくださった。それを見て、触って、体験する。そのリアルな体験があって初めて、私たちは、この世界に、私の人生に、神さまは生きて働いておられる、主イエス・キリストは復活して働いておられるということを信じられるようになっていくのでしょう。
 私に足りないもの、それは祈りです。神さまが生きて働いておられるリアルな出来事を、祈り求める思いだと知らされました。見ないのに信じる信仰も時には必要です。けれども、いつもいつも、そんな格好を付けたような、スマートな信仰でなくて良い。だいたい、そんな信仰でばかりではいられないのです。それなのに格好ばかりを付けたら嘘になる。信仰が苦しくなる。“神さま、見せてください、触らせてください”。その心で、主イエス・キリストの愛と恵みに触らせていただこうと思いました。


記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P
 http://sakadoizumi.holy.jp/