坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年5月3日 礼拝説教 「聖書を悟らせるために」

聖書 ルカによる福音書24章44〜49節
説教者 山岡創牧師

24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 
          「聖書を悟らせるために」
 今日読んだ聖書箇所の45節に、「聖書を悟らせるために」と書かれていました。聖書を悟る、とは、どういうことでしょう?
“あなたは聖書を悟っていますか?”。もしそのように聞かれたら、私たちは、“はい、私は聖書を悟っています”とは答えられない。そう思うのではないでしょうか。だいたい、聖書にどんなことが書かれているのか、まだよく知らない。端から端まで、聖書を読んだことがない。そう思う人も少なからずいらっしゃるでしょう。
確かに、聖書を悟るためには、まず聖書にどんなことが書かれているかを知ることが第一歩でしょう。そのためには聖書を読む必要があります。ところが、聖書は読んでいて、おもしろいと言えるような書物では決してありません。我が家は今、東野圭吾という作家の推理小説にはまっていて、私も次女に勧められて2冊目を読んでいる途中です。ところが、聖書は推理小説を読むように、ワクワクしながら読めるような本ではありません。キリスト教作家であった三浦綾子さんは、初めて聖書を手にとって読んだとき、なんとうんざりする本か、もう少し人の心を捉えることから書けばいいのに、と思ったと著書の中に書いています。三浦さんが最初に読んだのが、マタイによる福音書1章の、人の名前ばかりが羅列(られつ)されている系図だったということもありますが、聖書は決して読んでいておもしろい書物ではないのです。
けれども、聖書を隅々まで読んで、聖書の内容をよく知らないと、聖書を悟ることができないかと言えば、そうでもないのです。もちろん、だからと言って聖書を読まなくていいよ、と言っているのではありません。クリスチャンとして、信仰を持って生きていこうと思うなら、やはり聖書は努力して読む必要があります。私は、クリスチャンは一生に一度は、聖書を最初から最後まで通読する努力をしたら良いと思っています。
 けれども、聖書を最初から最後まで読んで、その内容を知っていたら、聖書が悟れるかと言えば、そうではありません。どんなに聖書の内容について知っていても、知識を持っていても、それは悟るということとは違うからです。

 では、聖書を悟るとは、どういうことでしょうか?復活して弟子たちの前に現れた主イエス・キリストは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44節)と言われました。「モーセの律法と預言者の書と詩編」というのは、つまり「聖書」のことです。この時点では、まだ新約聖書はありませんから、厳密に言えば、旧約聖書のことです。この聖書の中に、全体に渡って、イエス・キリストについて「書いてある事柄」があります。どんな事柄・内容でしょうか?主イエスご自身が46節以下で語っています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。
 「メシア」とは、神さまから遣わされた救い主キリストのことです。イエス・キリストは、十字架で苦しみを受けて死に、復活し、そこから罪の赦しがすべての人々に宣べ伝えられる、というのが、旧約聖書の中に、主イエスについて「書かれている事柄」です。そして、この、イエス・キリストの十字架と復活と、それによって罪の赦しが実現したと信じること、それが聖書を悟る、ということに他なりません。

 だから、聖書を隅々まで読んで、その内容をすべて知らなくても、聖書が伝えようとしている大切な要点である、主イエス・キリストの十字架と復活と、それによって罪の赦しが実現したと信じるならば、私たちは、聖書を悟っていることになります。けれども、繰り返しますが、知識として知っていることと、悟ることとは違います。
悟るとは、十字架と復活と罪の赦しを“実感”しているということです。自分の人生において、生活の中で、人間関係において、実感しているということだと思います。実感するとは、自分がその出来事の当事者となることです。その出来事が“自分のために起こった”と感じることです。確かに、主イエス・キリストは、すべての人々の救いのために、十字架で罪を背負って死に、死から命へと復活し、罪の赦しを宣べ伝えてくださいます。けれども、その救いの恵みが他のだれのためでもない、“自分のためになされた”と信じること。“私(自分)”の罪のために、主イエスは犠牲となって十字架の上で死なれた。私が死から命へと立ち上がるために、復活された。私が罪を悔い改め、神さまに愛されていることに気づくために、神さまに愛されていることを感謝して生きるために、罪の赦しを宣べ伝えてくださった。そのように信じる、感じる、実感することが、聖書を悟るということです。
そのように聖書を悟るためには、しかし、私たちの心の目が開かれる必要があります。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(45節)と書かれているように、私たちの心の目が開かれて初めて、聖書を悟ることができるようになります。
厄介なことに、私たちは自分で、自分の心の目を開くことができません。私たちの心の目は、自分の経験やそこから培われた常識や人生観によって閉じられています。主イエスの十字架の恵みを、主イエスの復活を信じることができません。罪の赦しを、神の愛を信じることができません。その閉じられた心の目が開かれることを、自分の経験や常識や人生観が破られて、新しい世界に目が開かれることを待ち望まなければなりません。そのために、私たちは、聖書を読みながら、聖書の御(み)言葉を聞いて、それを心に蓄えながら信仰生活をします。そして、聖書を通して、主イエスの霊(力)が私たちの心に働いてくださり、心の目が開かれる時を待ち望むのです。これは、一種の修業です。やってみなければ分からない。もちろん、やってみても分かるとは限りませんが、やってみて初めて、分かること、悟れることがあるのです。“イエス様、私の心を開いてください。聖書を悟らせてください”と祈りながら、信仰生活をする。そして、その信仰生活の中で、聖書に書かれている恵みを悟らせていただく、実感させていただくのです。

 聖書に書かれている恵みを実感する。『信徒の友』5月号の特集の中に、刑務所で服役している受刑者に聖書を教え、更生へと導く教誨師(きょうかいし)の働きをしている、ある牧師先生が、こんなことを書かれていました。ある受刑者が、先生に、“先生、眠れないんです。どうしたらいいでしょうか”と悩みを打ち明けた。狭い部屋に6、7人という環境、そして色々考えだすと眠れないというのです。先生は、“神さまにお祈りしなさい”とお祈りの仕方を教えました。すると、1カ月後にその人と面談すると、“先生、眠れるようになりました”と目を輝かせて話しました。信仰に目覚めた彼は、20年も会っていない父親に会いたいと願うようになりました。しかし、居所が分からない。そこで、この願いも二人で祈ることにしました。すると、驚くべき不思議なことが起こりました。次に会ったときに、彼は“先生、父が会いに来てくれました”と言うのです。末期癌になった父親は、死ぬ前に息子に会いたいと、息子を捜して刑務所まで会いに来てくれたのです。そこで、今度は、父親が亡くなる前に出所できるようにと祈ることになりました。そして、その祈りも実現しました。その経験によって、彼はイエス様を信じる決心をするに至ったことが書かれていました。
 祈ったことが実現する。それを体験する。体験によって実感する。私は最近、そういう真っすぐで、単純な信仰って強いなあ、と思うことが少なからずあります。それは、神さまが自分の罪を赦し、和解し、愛してくださっていることを素直に実感することができた信仰体験だと思います。
 けれども、そんなに単純に、簡単にいかないこともしばしばあります。祈ったけれども、そのとおりにならない。苦しみ悲しみの中で信じて祈ったけれども、神さまは応えてくださらない。そういう経験の方が圧倒的に多いのではないかと思います。
 けれども、祈ったとおりにならなければ、神さまの恵みに心の目が開かれないかと言えば、そんなことはないのです。むしろ苦しみによって、それまでの人生観が打ち破られることが少なからずあります。
 私は、今日の聖書の御言葉を黙想しながら、星野富弘さんの詩を思い起こしていました。星野さんは、高校の体育教師でしたが、24歳の時、体育の授業中に器械体操での着地に失敗し、首の骨を折り、首から下が全く動かなくなってしまいました。やがて星野さんはクリスチャンになるのですが、その星野さんが、こんな詩を書いておられます。
  何のために生きているのだろう。何を喜びとしたらよいのだろう。
  これからどうなるのだろう。
  その時、私の横に、あなたが一枝の花を置いてくれた。
  力を抜いて、重みのままに咲いている、美しい花だった。(『鈴の鳴る道』より)
苦しみ悩みの中で、自分が神さまに赦(ゆる)され、愛されていることに心の目が開かれたことを表わしている詩だと思います。星野富弘さんは、それまでは見えなかった新しい世界、新しい人生観に、心の目が開かれたのです。星野さんが悟ったことは神の愛なのですが、それは言い換えれば、“自分の力で生きている”世界から、“神によって生かされている”世界を実感したということ。そして、自分の力を抜いて、神さまにお任せして、おゆだねして生きようという悟りだったと思います。
 私たちは、人生がうまくいく時も、反対に、どうにもならない時でも、すべてをひっくるめて自分を愛し、生かしてくださっている神の恵みを悟ることができるのです。

 そして、神の恵みを実感し、悟った時、私たちも「証人」(48節)となります。「これらのことの証人」、イエス・キリストの十字架と復活と、罪の赦しの宣教によって示された神の愛によって“私も生かされて生きています”と証しすることのできる証人とされます。小さな、小さな証人かも知れません。でも、「あらゆる国の人々に宣べ伝える」神の宣教の業に、自分も用いられるようになる。大きなことは言えなくても、身近で、家族や近所の知り合い、職場の同僚、学校の友人に、“あなたも神さまに愛されているよ”と実感を持って言えるようになる。そういう意義ある存在となるのです。
 自分の救いのために、そして周りの人々の救いのために、聖書を悟らせていただけるように、信仰生活を続けていきましょう。

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