坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年5月31日  大人と子どもの礼拝説教 「良いことをしたくなる」

聖書  マタイによる福音書26章6〜13節
説教者 山岡創牧師

26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

         
  「良いことをしたくなる」

 中学生ぐらいになると、女の子はそろそろお化粧が気になり始める子もいることと思います。ルージュ、ファンデーション、アイシャドー、マスカラ‥‥‥私は、女性のお化粧のことはほとんど何も分かりませんけれど、とても印象に残っていることがあります。それは、女性とすれ違った時の香りです。道ですれ違った時に、とても良い香りがする人がいます。壁で囲まれた部屋でもないのに、しばらくその香りが残ります。香りの力って、すごいなあと思います。

 今日読んだ聖書の中で、一人の女性がイエス様の頭に香油を注ぎかけた、と書かれていました。香油の香りで、イエス様のいる部屋はいっぱいになったことと思います。香油は、礼拝で神さまにおささげする香りとして使われます。身だしなみとして、良い香りがするように化粧品のように頭や体に塗ることもあったでしょう。亡くなった人の体に塗って、保存するためにも使われたようです。
 この女性は、たぶんイエス様が良い香りがするように、お化粧ではないけれど、イエス様の身だしなみを整えて差し上げようとしたのだと思います。日本でも昔々は、現代のように簡単に髪を洗える時代ではありませんでしたから、女性が髪に香(こう)を炊(た)き込めることをしていたようです。それと同じようなことが、聖書の時代にもなされていたのではないでしょうか。
 けれども、周りにいた人たちや弟子たちにとっては、この女性のしたことはサプライズな出来事だったようです。突然の、訳の分からないハプニングだったようです。どうしてこの女性は、イエス様に香油を注ぎかけたのでしょうか?
 その理由は何も書かれていません。けれども、この女性には、イエス様にそうして差し上げたい何らかの理由があったはずです。その香油はとても高いものだったようです。そんな高いものを惜しげもなく、この女性はイエス様に注ぎ、献げました。それはきっと、イエス様に救われたからです。自分の悩みや苦しみをイエス様に解決していただき、心を癒(いや)していただいたからです。その感謝の気持が、香油を注ぐというプレゼントになったのです。いわゆる“恩返し”です。
 私たちも、本当にこの人にはお世話になった、助けていただいたと感じている人がいたら、その人のために何かしたいと思うでしょう。その人のために「良いこと」をしたくなるでしょう。その気持が例えば、心を込めてプレゼントを贈る、といった行為になったりします。この女性も、そういう気持でしたのだと思います。香油を注ぐという行為が、今の自分がイエス様にできる最高の「良いこと」だったのでしょう。

 ところが、そばでそれを見ていた弟子たちは怒り始めました。どうしてでしょう?  それは、無駄遣いだと思ったからです。
「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って貧しい人々に施すことができたのに」。
(8〜9節)
 ユダヤ人社会には貧しい人々がたくさんいました。病気や障がいのために働けない人々がいました。夫を失った女性、親を失った子どもにも仕事はありませんでした。働きたくても仕事がない人もいたでしょう。そういう人たちを見捨てず、そういう人たちが食べていけるように、自分の持っている物の中からお金や食べ物を施(ほどこ)しなさいと、神さまは律法(りっぽう)を通してお命じになりました。だから、貧しい人々にお金を与えることは、「良いこと」として、弟子たちも心がけていたのです。
 ところが、この女性はとても高い香油をすべてイエス様に注ぎかけてしまった。もったいない。何と無駄なことを。この香油は300デナリオンもする高価なものだったようです。300デナリオンという金額は、300の家族が一日三食ご飯を食べられる金額だそうです。日本のお金にしたら300万円ぐらいでしょうか。だから、この香油を売って貧しい人々に施せば良かったのに。イエス様に注いだら、それっきりで終わりではないか。無駄遣いではないか。そんなことをするのは、イエス様も喜びはしないだろう。弟子たちはそのように思ったのです。
 確かに、弟子たちの言うことも、もっともです。けれども、イエス様は、弟子たちの考えに“その通りだ”とは言いませんでした。この女性を困らせてはいけない。「わたしに良いことをしてくれたのだ(から)」と言って、弟子たちをたしなめました。
 確かに、弟子たちのように考えるなら、イエス様に香油を注ぎかけるのは無駄遣いでしょう。けれども、私たち人間が気持を表すのは決して計算ではありません。無駄かどうかを考えて、計算して、気持を形に表すことなどありません。気持はほとばしるものです。あふれ出るものです。それは得てして無駄なことが多いものです。愚かに見えることもしばしばです。けれども、あの人のために、この人のために、だれかのために、見返りを考えずにするからこそ、それは「良いこと」なのではないでしょうか。大好きな友だち(親友)に、無駄かどうかと考えて計算で接する人はいないでしょう。愛する恋人に計算で付き合う人はないでしょう。愛する家族と、計算しながら生活する人はいないでしょう。愛は計算しないのです。愛とは無駄遣いするものです。そういう意味で、弟子たちが言うことは正しいのかも知れないけれど、どこかに計算の匂いがします。

 無駄遣いだと言うならば、この世で最も無駄な行為をしてくださったのは、イエス様ではないでしょうか。まず「重い皮膚病の人シモンの家」(6節)にいるということ自体が、一つの無駄です。重い皮膚病の人は汚れた者だから近づいてはいけないというのが、ユダヤ人の掟(おきて)であり、社会の常識でした。それを破ってシモンの家で食事を一緒にすることは、周りの人々から、掟破りだ、非常識だと非難され、白い目で見られる行為でした。それこそ計算に合いません。けれども、イエス様は計算に合わない、見返りのない無駄をしてでも、心に痛み負っている人に寄り添おうとしたのです。そういう心できっと、かの女性にもイエス様は接し、言葉をおかけになったに違いありません。
 そして、イエス様はそのご生涯の最後に、十字架にお架(か)かりになりました。何の罪もない方が、十字架にかかる理由などないのに、多くの人々の罪を負って身代わりとなり、自分の命を捨てて、すべての人の罪を償(つぐな)われたのです。これほどの無駄遣い、無駄があるでしょうか?けれども、それほどの“命の無駄遣い”をイエス様は“愛”の心で果たしてくださったのです。それによって私たちも罪を赦され、神さまから愛される者とされた。
 このイエス様の愛の無駄遣いに、私たちも心を込めて応える。そこに、小さいかも知れないけれど、細いかも知れないけれど、私たちの信仰と愛の道(人生)が始まります。


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