坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年6月14日 礼拝説教 〜 悔い改めと赦し(2)「命を私物化する」

聖書  創世記3章1〜13節
説教者 山岡創牧師

◆蛇の誘惑
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

                  「命を私物化する」

 今日は、〈悔い改めと赦し〉について2回目の説教です。
主なる神よ、あなたが命を授(さず)けてくださったのに、わたしたちは命を私(わたくし)し、自己中心に振る舞いました。
 悔い改めへと招く呼びかけに応えて、私たちはまず最初に、自分の罪をこのように告白します。私たちは、命を私している、と。
 “命を私する、ってどういうこと?”と、まず言葉そのものの意味が分からない、という方もいるかも知れません。“私する”という言葉は、日常生活ではほとんど使わない言葉だからです。
 今日の説教題で“私物化”という言葉を使いましたが、“命を私する”とは、“命を私物化する”ということです。つまり、命を“自分のもの”にする。本来、自分のものではないのに、自分の所有物にしてしまう、ということです。
 自分のものではない、つまり他人のものを自分のものにすることは“盗み”です。盗みが良からぬことだということぐらい、だれにだって分かります。では、私たちは誰から命を盗んで自分のものにするのでしょうか?‥‥主なる神さまから、です。聖書の教えによれば、命は本来、主なる神のものです。それを、主なる神が私たちに授けてくださるのです。
 授かったのなら、もらったということだから、もはや自分のものではないか。私物化とか盗みにはならないし、どうしようと自分の自由ではないか、と考える人もいるかも知れません。ある意味で、確かにそうかも知れません。
 けれども、命はやがて失われるものです。聖書的に言えば、命とは、いつかやがて神さまにお返しするものです。そう考えると、所有ということについては自分の自由にはならないわけですから、やはり自分のものだとは言えない気がします。神さまから期限付きで借りている、貸し与えられていると言った方がいいかも知れません。
 それにしても、命が自分のものだとか、自分のものでないとか、そんなこと考えたことも、意識したこともなかったという方が少なからずいらっしゃるのではないかと思います。それが悪い、とは言いません。良い悪いの問題ではないからです。罪と言うと、私たちは悪いものと考えがちです。言葉からして、良いか悪いかという善悪の価値観で考えようとします。けれども、聖書が語る罪とうのは、悪いことと言うよりも、本来のことから外れている、あるべきところから逸(そ)れている状態のことを指しています。そのことにハッと気づいて、“これはまずい、何とかしなければ”と考える。その気づきと、生き方の方向転換を、聖書は“悔い改め”と言うのです。
 考えたことも意識したこともないかも知れません。けれども、何気に生きている自分の生き方が、命を私物化し、自分のものにしているかのような生き方になってしまっていることが少なからずあるのではないでしょうか。その外れた生き方、逸れた命の状態にハッと気づくとき、私たちは悔い改めを志すのです。

 さて、命を私するような生き方、それはどのような生き方でしょうか?それは、命が授けられたものであることを忘れた生き方、命が主なる神さまによって造られ、貸し与えられたものであることを見失った生き方です。もう少し具体的に言うと、命に対する感謝を忘れて、命があること、生きていることが当然という意識で生きている状態です。不満や文句ばかりが先立って、命そのものに対する“ありがとう”の心を失っている時です。
 今日は創世記3章の、アダムとエヴァが神さまのご命令に従わず、自分の欲望に従って木の実を食べ、ご命令に背く物語を読みました。これに先立つ1〜2章に、神さまが天地を造られた物語が描かれています。その天地創造の御業(みわざ)の中で、最初の人アダムとエヴァも造られるわけです。いくつかの視点、角度から、人の創造について記(しる)されています。人は神にかたどって創造されたこと。人は、土の塵(ちり)で造られ、神さまがその鼻に命の息を吹き入れることによって生きる者となったこと。男のあばら骨から女が造らたれことなどです。色んなことを考えさせられますが、そこに共通しているのは、神さまが人をお造りになり、命をお授けになったということです。
 これが私たちの命です。その意味では、私たちは、神さまの御(み)心によって命をいただいたのです。そして、この命はやがていつかお返しする命です。いつお返しするかは分からない。今日明日のことかも知れません。だから、今日生きているということは当たり前のことではないのです。今日の命がある。それは、ありがとうと感謝していただくべきものでしょう。そして、この感謝が自分の生き方の根っこになります。感謝という根っこがあるかないかによって生き方が変わって来ます。

 神さまによって命を授けられていることへの感謝という根っこがないと、私たちの生き方はどう変わるのでしょう?“私が”“私が”と、自分が命の中心にのさばり出て来ます。“神さまが”命を授けてくださったということ、そして“神さまが”私の命を生かしてくださっていることを忘れ、“私が生きている”という自己中心な生き方になって来ます。自己中心というのは、自分のことばかりを考えて、周りの人の気持や利益を考えずに行動することですが、その根本原因は、自分の命は神さまから授けられたものであるという神さまとの関係を見失っていることにあります。周りの人のことを考えて生きるために、では自己中心ではなく他者中心に生きればよいかと言えば、そうではありません。それでは、ともすれば自分を失う、自分を愛することが疎(おろそ)かになります。命は本来、神さまのものであり、神さまに授けられたものなのですから、自己中心でもなく、他者中心でもなく、神中心に生きようと志すところに、自分を活かし、人も活かす、自分を愛し、人も愛する生き方が見えて来ます。ところが、“私が”“私が”と、自分の損得や願望を中心に押し立て、傲慢(ごうまん)になり、謙遜さを失うと、神さまの御心にも背き、人にも迷惑をかけたり、傷つけたりすることになります。まさに命を私した生き方です。
 アダムとエヴァは、エデンの園で、へびに誘惑されて、禁じられていた木の実を食べてしまいます。余談ですが、善悪を知る木の実を食べたのに、どうして善悪ではなく、自分が裸であることに気づく破目になったのか、不思議に思われる方もおられるでしょう。二人は、善悪に目が開けたのだと私は思います。しかし、善悪が何かを知ったことによって、自分自身の善悪も見えることになってしまったのでしょう。そうなると、自分の善よりも、自分の悪ばかりが見えて気になりだした。しかも、今まで自分の悪を隠しもせず、神さまの目にさらしていたことを知り、恐ろしくなったのです。それが、「自分たちが裸であることを知った」(7節)ということの意味だと私は思います。
 それはさて置き、アダムとエヴァは禁じられた木の実を食べてしまいました。それは、命は本来、神さまのものであり、授けられたものであるということを見失った人間の姿です。“神さまが”「園(その)の中央にある木の果実だけは食べてはいけない」(3節)と定められたのです。命じられたのです。その命令は、神さまが人の命の所有者であり、主権者であることを表しているのです。けれども、二人は、その神さまを敬(うやま)い、謙遜に神さまのご命令を中心に立てることをせず、“私が”あの木の実を食べてみたい、という欲望、願望を押し立て、それに従いました。その結果、彼らは、神さまとの関係を壊し、延(ひ)いては人との関係も壊してしまうのです。人は、互いに愛し合い助け合うために造られたはずなのに、相手に責任を転嫁し、傷つける者になってしまったのです。
 ここに、命の生き方の問題として責任転嫁ということが出て来ます。命は授けられたものだとお話して来ましたが、こんな人生なら授からない方が良かった、神さま、どうしてこんな人生を私に授けたの?!と言いたくなるような、思わずにはおられないことがあります。その人の苦しさ、辛さは、その人でなければ分かりません。
 ただ、そのように感じる時に、気をつけたいのは、その苦しさ、辛さ、不幸の原因を人のせいにするという態度です。人のせいにし、社会のせいにし、究極的には神さまのせいにする。もちろん、原因が全くそこにないわけではないと思います。けれども、それが自分に授けられた命なのだと、苦しみながらも受け止めて行く覚悟をしなければ、苦しみと不幸は連鎖し増幅するばかりではないかと思うのです。苦しみにもきっと意味があるはず、神さまはこの苦しみは無駄には終わらせないと、命の主である神を信じるならば、私たちの生き方は変わっていくでしょう。

 命の主である神さまによって授けられた命を、感謝して、謙遜に、どのように生きていくか。それは私たちの人生の大きな宿題です。
 聖路加国際病院の理事長であり、名誉院長である日野原重明氏という方がおられます。現在104歳になります。この日野原先生が、10数年ほど前からでしょうか、小学校で〈いのちの授業〉というのをなさっています。日野原先生は子どもたちに、“いのちってなんでしょう? そう、生きているということですね。では生きているとは、どういうことだと思いますか?そして、いのちはどこにあると思いますか?”と問いかけながら、持って来た聴診器を取り出し、二人組にしてお互いの心臓の音を聞かせます。先生自身の心臓の音も聞かせ、違いに気づかせます。そして、再び最初にした“命はどこにあるのか”という質問に戻ります。子どもたちから色々な答えが出ます。みんなの答えを聞いた後で、日野原先生は、“命はきみたちが持っている時間だよ”と話し始めます。
 心臓は大切ですが、いのちそのものではありません。いのちを動かすためのモーターです。心臓が止まったら、人間は死んでしまい、つかえる時間もなくなるのです。いまきみたちは、どのようにでもつかえる時間をもっている。時間をつかうことは、命をつかうことです。‥‥‥これから生きていく時間。それが、きみたちのいのちなのですよ。
(『いのちのおはなし』講談社
 今まで聞いたこともないような、びっくりするようなお話を聞いて、子どもたちは自分の命の使い方を、すなわち生き方を考え始めるのです。
 私たちは、今までの命の時間をどのように使ってきたか。そして、これからの命の時間をどのように生きていくか。神さまを信じるクリスチャンとして考える必要があります。命を私せず、感謝して、謙遜に、神さまの御心を大切にしながら生きていきたいと願います。


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