坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年10月4日 礼拝説教 「選ばれた人たちへ」

聖書 ペトロの手紙(一)1章1〜2節
説教者 山岡創牧師
1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。


     「選ばれた人たちへ」

 今日から、礼拝(れいはい)において、ペトロの手紙(一)を通して、神さまの語りかけを聞くことにします。
 ペトロという名前は、ここにいる多くの方が聞いたことがある、知っていることと思います。主イエス・キリストの12人の弟子の一人、しかも弟子たちの筆頭(ひっとう)と目されていた人物です。エルサレムに最初の教会が生まれたとき、教会のリーダーとして働いた人です。
 そのペトロが、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」(1節)書いたのが、この手紙です。
 今、カタカナで出て来た5つの地域は、ローマ帝国の5つ(4つ)の州の名前です。今のトルコの地域に当たります。1世紀後半の当時、この地域に、教会が幾つもあったのです。それらの教会のクリスチャンたちは、ローマ帝国の迫害にあって、とても苦労しました。そのような教会とクリスチャンたちを励ますために、ペトロはこの手紙を書き送ったのです。


 ペトロは、これらの地域にある教会の人々を、「各地に離散して仮住まいをしている選らばれた人たち」と呼びました。
 当時、「離散して仮住まいをしている」と言えば、まずユダヤ人のことが考えられます。ユダヤ人の故郷と言えば、神の約束の地であるカナンであり、神殿のある都エルサレムでした。今、木曜日の聖書と祈りの会で創世記を学んでいますが、ユダヤ人のルーツであるアブラハムという人物を、神さまは“祝福の源”としてお選びになりました。アブラハムに、あなたとあなたの子孫にカナンの土地を与えると約束されました。そして、アブラハムの子孫たちは、やがて約束の地を占領し、イスラエル王国を建てたのです。けれども、その後、ユダヤ人は大国との戦争に何度も敗れ、カナンの地を追われました。その度に彼らは、故郷の地を熱望し、帰って行ったのです。けれども、帰れないユダヤ人もいました。それが、離散して仮住まいしているユダヤ人です。この手紙が書かれた当時も、ローマ帝国との戦いに敗れ、多くのユダヤ人がカナンの地から追われました。その戦いでエルサレムの神殿も破壊されましたが、それでも彼らの“魂の故郷”はカナンの地であり、エルサレムでした。
カナンの地はパレスチナとも呼ばれます。現代において、パレスチナ人とユダヤ人の間に、パレスチナ問題と呼ばれる深刻な領土争いがありますが、その根本には、今お話したように、ユダヤ人がパレスチナを魂の故郷と慕(した)う熱烈な思いがあるのです。
けれども、「離散して仮住まいをしている」という言葉には、もう一つ更に深い意味があります。それは、単にユダヤ人がパレスチナの地とエルサレムを魂の故郷として熱望するということではなく、イエス・キリストによる選びと救いを信じたクリスチャンが、天の国を魂の故郷として、この世で仮住まいをしている、という意味です。
昨日、7月に亡くなられたれいはいれいれA.Sさんの納骨式を、越生町の地産霊園にある教会墓地で行いました。新井知子さんをはじめ、15名ほどのご遺族の方々が集まり、壮四郎さんのご遺骨を墓に納めました。坂戸いずみ教会の墓地の墓碑には、次の聖書の言葉が刻まれています。「わたしたちの国籍は天にある」。これは、以前に使っていた口語訳聖書のピリピ人への手紙3章20節の言葉で、新共同訳聖書では、「わたしたちの本国は天にある」と訳されています。墓碑を前にして、改めて昨日、この御(み)言葉を心に留めました。
クリスチャンとは何か?自分の国籍を、信仰によって、洗礼を受けることによって、この世から天の国へと移籍した人のことです。本国を天の国とした人のことです。やがては天の国へ帰ることを希望として生きている人のことです。だから、この世での生活は仮住まいです。もちろん、仮住まいだからと言って、この世での生活や仕事、人間関係はどうでもいいと、いい加減な生き方をし、投げ出すような考えを持つことではありません。“郷(ごう)に入(い)っては郷に従え”、この世に従う生き方があります。けれども、良い意味で、この世のものにこだわらない。縛られない。自分の心を天に置くのです。天の国に属する人間の考え方で、価値観でこの世を生きるのです。簡単に言えば、“イエス様ならどうするか?イエス様なら何と言うか?”を考えながら、それに従って生きるのです。一言で言うなら、“愛”に生きるのです。神を愛し、人を愛し、互いに愛し合う生き方を、この世において実践するのです。それが、天を故郷とし、この世で仮住まいする者に生き方です。
ペトロたちが宣べ伝えたイエス・キリストによる救いを、最初に信じたのはエルサレムのユダヤ人たちでした。ユダヤ人クリスチャンたちによる教会がエルサレムに生まれました。けれども、やがてエルサレム教会は、イエス・キリストを信じないユダヤ人たちに迫害され、多くのクリスチャンがエルサレムから追われました。けれども、追われたクリスチャンたちは、離散した先で、既にそこに住んでいたユダヤ人たちに、キリストの救いを伝えました。それによって、各地に教会が生まれたのです。エルサレムを魂の故郷とするのではなく、天の国を故郷とする人々が生まれたのです。
けれども、イエス・キリストを信じたのは各地に離散しているユダヤ人だけではありませんでした。その地の原住民である異邦人の中からも、イエス・キリストを信じる人々が起こされました。彼らは、ユダヤ人クリスチャンと共に、各地に教会を生み出し、共に礼拝を守ったのです。
 そういう意味で、「選ばれた人たち」というのは、もはやユダヤ人だけのことではなくなりました。かつてはアブラハムが選ばれ、その血筋であるユダヤ人が「選ばれた人たち」と考えられていました。けれども、もはや血筋で選ばれるのではなくなったのです。2節に「“霊”によって聖なる者とされ」とありますが、つまり血筋によってではなく、霊によって選ばれる、ということです。神の霊によってイエス・キリストによる救いを信じる心を与えられた者が、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、「選ばれた人たち」と呼ばれるのです。


 今日の聖書箇所には、わずか2節の短い文章の中に、“選ばれる”という言葉が2回出て来ました。選ぶ、という言葉は、新約聖書の原語であるギリシア語では、元々“引き抜く”という意味なのだそうです。引き抜くと言えば、例えば、ある会社から有能な人材を自分の会社に引き抜くとか、プロ選手を、あるチームから別のチームへ引き抜くといったことを思い浮かべます。けれども、引き抜くということには、もっと大切な意味があります。
 シルバー・ウィークに、中学生、高校生、青年によるサムエル・ナイトを行いました。ロビーの写真をご覧になったかと思いますが、今回はワーク中心のプログラムで、特に教会堂内のワックスがけと、外の草むしりを行いました。その作業の中で、特に草むしりをするメンバーに私が願ったのは、草を根っこから引き抜く、ということでした。地面の上の茎や葉をむしっただけでは、またすぐに根っこから雑草が生えて来るからです。かなり深くて太い根っこもあったでしょうから、大変だったと思います。私は高麗(こま)川の向こう側で10坪の家庭菜園を借りていますが、農作業の半分は草むしりです。そのとき、やはり雑草を根っこから引き抜くことを心がけます。
 私たちが神さまに選ばれるということは、この世から根こそぎ引き抜かれて、天の国に植え替えられるということなのです。この世に私たちの根っこが残っていると、そこからまた、この世の生き方や価値観が生えて来て、悩んだり、迷ったり、そっちの方がよく見えたりするのです。私たちの信仰生活は、ある意味で、この世に心の根っこを残しているが故に、生えて来る“雑草”との戦いだと言ってもよいでしょう。
 この手紙を書いているペトロ自身がそうでした。ペトロはガリラヤ湖の漁師でしたが、主イエスに弟子として召され、網を捨て、舟を捨てて主イエスに従ったのです。言わば、故郷を捨てて主イエスに従ったのです。けれども、すべてを捨てたと思っていたのが、まだ根っこを残していました。と言うのも、やがて主イエスが反対する宗教指導者たちに捕らえられ、十字架に架けられたとき、弟子たちは、主イエスを見捨て、ペトロは主イエスとの師弟関係を否定してまで逃げたのです。そして、ガリラヤに帰り、再び漁師を始めました。もちろん、もやもやした迷いはあったに違いありません。
 そこに、復活した主イエス・キリストが現れて、ペトロを赦(ゆる)し、もう一度弟子として、いや、今度はキリストの使者であり「使徒」(1節)として召してくださったのです。言わば、ペトロはそのとき、残っていた根っこを引き抜かれたのです。この世という地面につながる太い根っこは引き抜かれました。けれども、その後のペトロにも、この世の考えや利害得失に生きるか、キリストの御(み)心に従って生きるかの戦いはありました。けれども、ペトロの最後は、ローマで迫害され、逆さ十字架の刑で処刑されて、その生涯をとじたという伝説があります。使徒として、クリスチャンとして生き抜いたのです。


 そのような自分の信仰の生涯を、ペトロは振り返るたびに、「父である神があらかじめ立てられたご計画」(2節)だったと感じたに違いありません。自分のような取るに足りない人間が、どうして神さまに選ばれ、救われたのか?神さまのご計画としか言いようがない。主イエスを見捨て、挫折(ざせつ)したことさえも、主イエス・キリストの恵みを深く知るための神さまのご計画だったと感じたに違いありません。
 神さまのご計画とは、私たちにとって最初から明らかなものではありません。神さまを信じて、神さまの御心を思い、祈りながら生きる歩みの中で、振り返ってみたとき、“あぁ、これがきっと神さまのご計画だったのだ”と納得されるものです。
 私たちも、神さまに救いへと招かれています。主イエス・キリストが、十字架の上で血を流し、命を捨てて、私たちの罪を償ってくださった。私たちが新しい命に生きるために命を捨て、復活してくださった。その命を注いでいただくために、神さまによって選ばれます。この世から引き抜かれます。この恵みを心に刻み、信仰の道を歩んでいきましょう。


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