坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年11月15日 礼拝説教 「恐れではなく、畏れて生きる」

聖書 ペトロの手紙(一)1章17〜21節
説教者 山岡創牧師

1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


  「恐れではなく、畏れて生きる」

 今日読んだ聖書の御(み)言葉の最初の17節に、「‥その方を畏(おそ)れて生活しなさい」とありました。「その方」とは、言うまでもなくイエス・キリストが“父”と呼ぶ神ですが、この御言葉から今日の説教題を〈恐れではなく、畏れて生きる〉としました。
 私たちは、日常生活において“畏れる”という言葉を、まず使うことがありません。ある意味で死語です。そこで、この言葉を辞書で調べてみましたが、“尊敬の思いが生じて、慎んだ態度になること”とありました。だから、神さまを信じるということは、神さまに対して尊敬の思いを持ち、慎んだ態度を取ることです。神さまに対する意識が、私たちの生活の中で態度となり、言葉となり、行動となって現われて来るということです。神を畏れて生きる。この生き方を、今日の聖書の御言葉がどのように語っているか、その内容に耳を傾けてみましょう。

 まず、私たちが信じている神、畏れるべき神は、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」(17節)であると言われています。この言葉から私は、イエス・キリストがなさった〈すべての民族を裁く〉という話を思い起こします(マタイ25章31節〜)。トルストイの有名な小説〈靴屋のマルチン〉の題材となった聖書箇所です。
 「人の子」と呼ばれるイエス・キリストが栄光の座に就き、父なる神に代わって、すべての国民を裁くという話です。その裁きの基準にあるのは、「最も小さい者の一人」に対して取った行いです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言って、キリストは一方の人々に、天の国と永遠の命を与えると言います。けれども、そう言われた人々は、何のことだかさっぱり覚えがない。そこで、いつそんなことをあなたにしましたか?とキリストに問い返します。すると、キリストは、直接ご自分にしてくれたことでなくとも、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えます。同じようなやり取りがあって、最も小さい者の一人に対してこのような行いをしなかった人々は、「永遠の火に入れ」と言われるのです。そのように、人はそれぞれ、他人に対して思いやりのある行いをしたか、それとも思いやりのない行いをしたかによって裁かれ、天国と地獄に選り分けられるという話です。「公平に」ということは“顔が利かない”ということです。自分が地上で持っていた権力も名誉も地位も、また「金や銀」(18節)といった財産も、その裁きには何も利かないのです。ただ、その人の“愛の行い”だけが基準になる。
 ある意味で、恐ろしい話です。もし私たちが、このキリストの話を受け止め、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」を本気で信じるならば、神さまを恐ろしい方だと感じることでしょう。そして、私たちの態度は慎んだものになるに違いありません。単に現実的な、常識的な判断、あるいは自分本位な判断で、目の前にいる人に対する態度を決めるのではなく、神さまが求めている態度はどんな態度だろうか?行いだろうか?と考えて決めるようになるに違いありません。この話を本気で受け止めている人は、自分の目の前にいる人が、もしも「わたしにしてくれた」と言われるイエス・キリストだったら?‥‥と考えたことがあるはずです。
このことを最も意識して、実践した人の一人が、インドのスラム街で貧しい人々のために働いたマザー・テレサです。マザーは、スラム街の一人ひとりをイエス・キリストと見なして仕えました。だれもがマザー・テレサのようになれるとは思いません。大切なことは、少しでもそういう意識を持って生活するということです。イエス様だと思って、目の前の人と接することです。それが、“神を畏れて生きる”ということに他なりません。

 さて、神さまを「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」と信じるならば、自分の行いはどうか?と考えて、それを裁く神さまに対して、いわゆる“恐れ”の気持が生じるとお話しました。けれども、今日の聖書の御言葉が私たちに語りかけていることは、それだけではありません。公平に裁かれる神を、「あなたがたは‥‥『父』と呼びかけている」(17節)。だから、「その方を畏れて生活しなさい」と言われているのです。
 イエス・キリストは、神さまを「父」と呼びました。そして、イエス・キリストを信じる者にも、神さまを「父」と呼びなさい、呼んでいいのだよ、と教えてくださいました。日本語で「父」と訳すと、ちょっと固いイメージになりますが、イエス・キリストが神さまに向かって“アッバ”と呼びかけていたアラム語は、“お父ちゃん”といったニュアンスで、小さい子どもが、信頼と親しみを込めて呼びかけるような言葉です。だから、「父」という言葉によって抱くイメージは人それぞれ違いますが、イエス・キリストが神さまを「父」と呼ぶときには、信頼と親しみとを表わしているのです。平たく言えば、この神さまは、私たちのことを子どものように愛してくださる方だ、ということです。
 この神の愛が確かに示された出来事は、何よりもイエス・キリストの十字架でした。18節に、「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖(あがな)われたのは、金や銀のような朽ち果てるものによらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」とありました。「キリストの尊い血」が十字架の上で流されました。あなたがたをむなしい生活から救い出すためです。「むなしい生活」とは、一言で言うなら、神さまを信じないで、朽ち果てるようなものを頼りにして、自己本位に生活しているということです。そういう「むなしい生活」を、聖書は“罪”と言います。罪を清めるには血が必要というのが、聖書の考えです。ユダヤ人は、自分の罪を清めるのに、動物を犠牲にして神さまに献げました。その血によって罪を清めたのです。けれども、イエス・キリストを信じる者は、キリストが十字架に架けられて処刑された出来事を、自分たちの罪を清め、むなしい生活から救い出すために、キリストがその命を献げ、その血を流してくださった救いの出来事だと信じました。
 この十字架の出来事を、神さま目線で見れば、それは、父である神さまが、ご自分の独り子イエス・キリストを、私たちの救いのために犠牲にされたということになります。ご自分の一人息子の命を献げてまでして、私たちの救いを考え、実現してくださったのです。イエス・キリストの代わりに、私たち一人ひとりを“我が子”としてくださったのです。この神さまの愛に対する信頼と親しみを込めて、私たちは神さまを「父」と呼ぶのです。確かに、公平に裁かれる方としての神は恐るべき方です。けれども、その恐るべき方は、同時に、私たちの「父」です。信頼と親しみを込めて“お父ちゃん”と呼んで良い方、愛すべき方です。私たち一人ひとりを愛してくださる方です。
 だから、私たちは自分に安心して生活していいのです。自分の行いを省みる必要はあるでしょう。しかし、その行いが一々どうかとチェックして、自身無げにビクビクと恐れる必要はないのです。自分と人の行いを比べる必要はないのです。比べて、自分の方が劣っている、これでは神さまは私を救ってくださらない、と落ち込み、恐れる必要はないのです。神さまは、私ひとりをちゃんと見ていてくださいます。私ひとりを我が子として信頼し、愛してくださっています。だから、父としての神の愛を信じて、安心して生活する。それが、もう一つの“神を畏れて生きる”ということに他なりません。

 神を畏れて生きる。畏れるべき神。この神さま像から、私はふと、小学校5、6年の時の担任の先生のことを思い起こしました。当時27、28歳の男の先生でした。“歯をくいしばれ!”私たち生徒が何か悪さをすると、そう言ってビンタが飛んで来ました。廊下に立たせるなんてことは言わずもがな、正座の罰もありましたし、時には竹刀の棒で叩かれることもありました。5年生の時に、私は4,5人のクラスメートからいじめを受けたことがありましたが、それが発覚するや、その5人は、床に割り箸を敷いて、その上に正座させられていました。現代の学校教育では考えられないことです。今だったら一発で教育委員会にかけられ、謹慎(きんしん)、懲戒免職(ちょうかいめんしょく)ということになるでしょう。怖い先生でした。
 ところが、生徒たちは皆、この先生が大好きなのです。それは、その一方でこの先生が生徒思いの優しい先生だったからです。休み時間や放課後、私たち生徒と運動をしたり、カード・ゲームをしたりして、よく遊んでくれました。夜の学校に集まって、肝試(きもだめ)しもやりました。給食の時間に、近くの肉屋さんに、“コロッケを買って来い”とよくお使いに出されまして、そのおこぼれをしばしばいただきました。これも、現代の学校教育では考えられないことです。そんなふうに私たちと親しく付き合いながら、子どもの良いところも悪いところも、よく見てくれている先生でした。だから、体罰を受けても皆、この先生を信頼していました。例外もあったかと思いますが、ほとんどの生徒が、もちろん私も、この先生を信頼し、親しみを感じていました。“自分はこの先生に愛されている。愛されているから、悪いことをしたら罰されるのだ”。そう信じて納得(なっとく)していました。
 人を公平に裁く、「父」なる神さまって、こんな感じなのかな、と思い浮かべました。畏れて生きるって、神さまとこんなふうに関わって生きることかな、と思いました。

 最後の21節に、「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」とあります。
行いに応じて公平に裁く神は、何も私たちを地獄に落としたいがために裁くのではありません。神さまは、私たち一人ひとりを愛しておられます。悪いことをすれば、反省し、改めるために罰を与えます。それは、私たちを、人として正しい道に、大きな愛に、そして天の国に導きたいからです。だから、私は、世の終わり、人の命の終わりに行われるという神の最後の裁きも、自分の罪に気づかせ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と悔い改めさせるために、神さまがなさる“愛の裁き”だと私は信じているのです。なぜなら、もう既にイエス・キリストが、十字架の上で命を献げ、血を流し、私たちを救い出す道を切り開いてくださっているからです。この神の愛に、私たちの信仰と希望はかかっています。だからこそ、信じて、畏れをもって生活しましょう。


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