坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2015年12月20日 待降節第4主日クリスマス礼拝説教「救い主を迎えるために」

聖書 ルカ福音書2章1〜20節
説教者 山岡 創牧師

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


     「救い主を迎えるために」
              (子供)
先週の礼(れいはい)拝は、聖劇礼拝でした。この教会で初めて、普段の礼拝に、イエス・キリストの誕生劇を組み合わせた形で礼拝を守りました。中学高校生、そして青年が、バザーの後、短い期間で熱心に練習し、当日はいちばん上手に演じてくれました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。
天使の力強い賛美がとても印象に残り、今も心に響いて来ます。
 天には栄光、地には平和。これを実現するために、神のひとり子イエス・キリストは、この世に来てくださいました。乳飲み子として生まれてくださいました。けれども、イエス・キリストは、家の中、部屋の中ではなく、どうやら家畜小屋で生まれ、「飼い葉桶」(7節)に寝かされました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)と書かれています。住民登録のためにベツレヘムに旅をしてきた人が、他にもいっぱいいたからです。

 ところで、川越市聖公会という教団の川越教会があります。蔦(つた)の絡(から)んだレンガ造りの教会を見たことのある人もいるでしょう。その教会に初雁幼稚園という付属幼稚園があり、私の妻が務めています。一昨日の金曜日、初雁幼稚園のクリスマス礼拝が行われました。それは、園児たちがイエス・キリストの聖誕劇を演じることが中心の礼拝です。
 実は、40年以上昔、私も初雁幼稚園の園児でした。そして、イエス・キリストの聖誕劇を演じました。その時の私の役は宿屋でした。3人いる宿屋のうちの一人で、ヨセフとマリアに、“泊まるところはないよ”と断る宿屋でした。懐かしい思い出です。
 聖誕劇にまつわる、こんな話があります。アメリカの小さな町の小学校に、ウォリーという少年が通っていました。小学校2年生、本当だったら4年生なのですが、みんなについて行くのが難しい子どもでした。ちょっと障がいがあったのかもしれません。でも、体は大きくて、みんなの人気者でした。 
さて、クリスマス・シーズンが来て、学校では恒例の聖誕劇が行われました。ウォリーは宿屋の役でした。ヨセフとマリアを迎えて、ウォリーは言いました。
“なんのご用かね?”
 “泊まるところをさがしているのです”
 “どこかほかをさがしな。宿屋はいっぱいだよ”
 “あのう、他を探したのですが、どこもだめだったのです。遠くからやって来てくたびれているのですが”
 “あんたたちに部屋はないよ。宿はいっぱいだよ”
 “やさしい宿屋のご主人、どうかお願いします。これはわたしの妻マリアです。おなかに赤ちゃんがいるので休ませなくてはなりません。きっとどこか隅に彼女を休ませる場所が‥‥。とても疲れていますから”
観客のみんなが、どうしたのだろう?と思うほど、長い沈黙が流れた後で、ウォリーは、
 “いや、あっちへ行きなさい”
と言いました。ヨセフとマリアは悲しそうに去って行きます。と、その瞬間、
 “ヨセフ、行かないで!マリアを連れて戻っておいで。ぼくの部屋に来ていいよ”
涙をためて二人を見送っていたウォリーが、大声で、明るい笑顔で叫んだのです。
 聖誕劇が台無しになったという人もいたかも知れません。けれども、ずっとずっと多くの人が、これまで見たどんな聖誕劇よりもすばらしい、いちばんのクリスマスだと思い、語り草になっているということです。(『天使が歌う夜に』〈宿屋はいっぱいでした〉より)

 ヨセフとマリアが泊まる場所、それは、私たちがイエス・キリストをお迎えする場所、私たちの内側にある“心の部屋”を表わしています。その部屋は、人の痛み苦しみを知り、思いやる愛によって、心の中に生まれるのでしょう。イエス・キリストは、私たちの痛み苦しみを知り、寄り添ってくださるために来てくださいます。イエス・キリストが来てくださる時、私たちの心にも愛が宿ります。自分が愛されて嬉しい愛、そして人を愛するやさしい愛です。


             「救い主を迎えるために」

        (大人)ルカによる福音書2章1〜20節

 救い主イエス・キリストがお生まれになった夜、羊飼いたちが野宿(にじゅく)していた野原を、「主の栄光」(9節)が照らしました。主なる神の栄光を、地上において「平和」という形で表わす神の子、救い主が生まれになったのです。けれども、「主の栄光」を背負ったお方は、地上においては「飼い葉桶」(7節)に寝かされました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)と、その理由が記されています。

 「飼い葉桶に寝かせた」という言葉は古来、イエス・キリストが馬小屋、家畜小屋に生まれたと想像させてきました。その想像は間違ってはいないと思います。その際、私たちは、宿屋の建物の脇に付いている家畜小屋を想像するでしょう。けれども、そのような家畜小屋ではなかったかも知れません。
 ユダヤ地方では、郊外の洞窟(どうくつ)を家畜小屋にすることが少なからずありました。ヨセフとマリアには、街中には泊まる場所がなく、途方に暮れて、トボトボと郊外までやって来たのかも知れません。すると、洞窟に羊たちを入れて、その入口で番をしながら野宿していた羊飼いたちを見つけた。事情を話し、洞窟の家畜小屋で休ませてもらった。その夜、マリアに陣痛(じんつう)が起こり、イエス・キリストが生まれ、飼い葉桶に寝かされることになったのかも知れません。そう考えると、いちばん最初に羊飼いたちが、イエスキリストを探し当てたのもうなずけます。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。この言葉は、私たちに一つの問いを投げかけます。“あなたのもとには、イエス・キリストをお迎えし、泊める場所があるか?”。それは、空間的な場所、部屋の問題ではなく、霊的な問題、心のあり方として問われるのです。“あなたの内側は、イエス・キリストをお迎えし、お泊(と)めするのにふさわしく整えられているか?イエス・キリストによって示された父なる神の御(み)心と救いを受け入れるのにふさわしく整えられているか?”そのように問われると、私たちは、自分の内側はそうではないかも知れないと思ったりするわけです。
 では、どのようにしてイエス・キリストをお迎えする“心の場所”を準備し、整えるか。お客さまを迎える場合、私たちは部屋の掃除をします。そのように、救い主をお迎えするには心をきれいにしておけば良い。そう考えて、私たちは、“善い行い”という掃除機で心をきれいにしようとするかも知れません。悪いこと、罪の行いはしない。善行を積むことによって心を清める。そう考える人々が聖書の時代にもいました。ファリサイ派と呼ばれた人々です。
 けれども、主イエスは、彼らについて次のような譬(たと)えをお話になりました。人の内側に住んでいた汚れた霊が、その人から出て行く。そして、休む場所を探すが見つからない。そこで、仕方なく元の人のところに戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。これはいい!と再び入り込み、自分一人じゃもったいないと、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て住み込んだ。そのためにその人の状態は前よりも悪くなった、という話です(ルカ11章24〜26節)。
 どうしてそのようになってしまったのか。自分の力で、自分の行いで、自分の内側を掃除し、整え、清めることによって、心に神を宿らせることができると考えたからです。善い行い自体は悪いことではありません。行えたら良い。けれども、その行いによって自分は清く、正しく、立派に生きていると思い上がり、自分には罪も悪もないと思い込み、罪人としての謙遜と祈り、罪の悔い改めを忘れると、そこには神は宿りません。空き家になります。思い上がりと自己正当化という悪霊が住み着くのです。

 自分の力で、善い行いで、心を清め、イエス・キリストのために場所を用意するという考え方は正しいようで、実は大きな間違いなのです。しかし、ともすれば私たちはこの間違いに陥(おちい)ります。そうではなくて、むしろ自分は罪人であるとの思い、そして「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)との祈りこそ、私たちの内側に必要なことではなでしょうか。
 イギリスのオスカー・ワイルドという作家が著わした『わがままな大男』という物語があります。子どもたちが学校帰りに立ち寄って遊ぶ、すてきな庭がありました。花が咲き、鳥がさえずり、秋には桃の木に実がなりました。その家の主人は長い間、留守にしていました。ところが、7年ぶりに主人の大男が帰って来ると、遊んでいた子どもたちを追い出して、庭の周りに高い塀をめぐらしました。やがて冬が終わり、春が来ました。けれども、大男の庭だけは冬のままでした。雪と霜だけが喜んで、その庭に住み着きました。そして、二人は北風と霰(あられ)も呼んで来ました。どうしてこの庭にだけ春が来ないのか、大男には分かりませんでした。そんなある日、大男は久しぶりに小鳥のさえずりを聞きます。かぐわしい木々と草花の薫(かお)りをかぎます。ついに春が来たと庭に出てみると、そこには塀に空いた穴から入り込んだ子どもたちが遊んでいました。その光景を見た大男は、自分が今までしてきたことが悪かったと悟(さと)り、こう言います。“なんてわしはわがままだったろう。今やっとわかった、春がここにやってこなかったわけが。あのかわいそうな子を木のてっぺんにあげてやろう。それにあの塀もこわしてしまおう。そうすればわしの庭がずっといつでも子どもたちの遊び場になるんだ”。そう言って、大男は木に登れず泣いている男の子を抱き上げ、木に乗せてやります。塀も取り払います。かくて大男の庭は、再び子どもたちの遊ぶ庭となりました。けれども、大男が木に乗せてあげた男の子は、それ以来一度も来ませんでした。やがて時は流れ、大男も年を取りました。ある日、大男は庭に、あの男の子が一人で来ているのを見つけます。そばに寄って行くと、男の子は言いました。“おまえはいつかわたしを庭で遊ばしてくれたね。今日はおまえを、わたしの庭へいっしょに連れて行ってあげよう。天国という庭へ”。
 自分はわがままだった、悪かったと罪を認め、悔い改めた大男の心に春が来ました。そして、人を愛する開かれた心に、イエス・キリストが来てくださったのです。
 イエス・キリストが「泊まる場所」は、自分の力と行いを正当化し、誇ることによってではなく、自分の罪を認め、悔い改め、祈る心に生まれます。打ち砕かれ、悔いる心にこそ、主イエス・キリストは来てくださる。宿ってくださる。赦(ゆる)してくださる。愛してくださるのです。その喜びと感謝を抱いて、主イエス・キリストを宿し、救いの信仰を宿して、ここから歩んでいきましょう。


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