坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年3月6日 受難節第4主日・礼拝説教「正しい良心を願い求める」

説教者 ペトロの手紙(一)3章17〜22節
説教者 山岡 創牧師

3:17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
3:21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。


      「正しい良心を願い求める」

 2月10日・灰の水曜日と呼ばれる日から、私たちは〈受難節レント〉と呼ばれる期間を歩んでいます。それは一言で言うなら、イエス・キリストの“苦しみ”を思い、心に刻む期間だということです。今日読んだ聖書の御(み)言葉にもありました。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」(18節)。
 イエス・キリストは、罪のために苦しんだのです。裁きと罰をお受けになったのです。十字架に架けられ、苦しみ、死なれたのです。
 けれども、それはご自分の罪のためではありません。キリストは「正しい方」だったのですから、ご自分に罪はなかったのです。では、だれの罪のために苦しむことになったのでしょうか?「正しくない者たち」の罪のためです。キリストは、正しくない者たちの罪を背負って、身代わりとなって十字架に架かり、犠牲となられたのです。
 イエス・キリストをねたむ人々がいました。独善的に非難する人々がいました。偽証して陥れ、十字架に架けた人々がいました。裏切り、見捨てた人々がいました。そのような人々の罪をすべて背負って、十字架の上で“罪の清算”をしてくださったのです。
 そのように、イエス・キリストが苦しまれたのは何のためでしょうか?
「あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)とペトロの手紙は語ります。「正しくない者たち」を、を神のもとへと導くためにキリストは十字架の上で苦しまれたのです。
 けれども、「正しくない者たち」、罪にまみれた人々が「あなたがた」と呼ばれていることを見落としてはなりません。「あなたがた」とはだれでしょうか?ペトロがこの手紙を書き送っている教会の人々です。教会の人々も「正しくない者たち」だった、罪人だった。けれども、イエス・キリストの苦しみによって、キリストが罪を背負い、身代わりとなって十字架の上で犠牲となられたから、「あなたがた」も罪を赦(ゆる)され、神のもとへと導かれたのだ、とペトロは語りかけるのです。
 そして、ペトロの手紙は2千年後の現代においても語りかけます。「あなたがたを神のもとへ導くためです」と。「あなたがた」とはだれか?“わたしたち”のこと、“わたし”のことです。私たちのために、わたしのためにキリストは苦しまれたのだ。そのように心に刻むのが受難節レントという時です。

 「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。‥‥‥あなたがたを神のもとへ導くためです」。実は、この「あなたがた」という言葉、とても広い対象範囲を持っています。生きている人たちだけではありません。死んだ人も、その対象範囲に含まれているのです。18〜19節に、こう書かれています。
「キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。
 人は死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?当時の人々は、死んだ人の霊は陰府(よみ)に行くと考えていました。陰府というのは、当時の人々の世界観で言えば、地の底にある世界です。地の底に死んだ人の霊は捕らわれる。そう考えたのです。
 ところが、キリストも死んで陰府に行った。そして、陰府に捕らわれている人々に宣教してくださったのです。あなたがたは、この地の底から解放される。罪を赦されて、神のもとへと導かれる。私の苦しみによって示された神の救いを信じなさい、と。
 陰府に捕らわれていた霊たちとは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が待っておられたのに従わなかった者です」(20節)と書かれています。
 旧約聖書のはじめに創世記という書があります。その6章以下に、洪水とノアの物語が出て来ます。神さまは、天地を創造し、人をお造りになりましたが、人が悪いことばかりを心に思い計(はか)り、悪事と罪を重ねているので、神さまは人をお造りになったことを後悔し、洪水によって人を滅ぼそうとお考えになります。けれども、その中でノアだけは「神に従う無垢(むく)な人」(創世記6章9節)と認められ、箱舟を造るようにと神さまから命じられ、洪水から救われるのです。神さまに従わなかった人々は、洪水によって滅ぼされ、陰府に捕らわれることになりました。何だか罪を犯して牢獄に捕らわれるような感じです。これらの人々は、端的に言えば、神さまを信じて従わなかった人々を象徴しています。しかし、それらの人々のもとへ行って、イエス・キリストは、神はまだ待っておられると宣教されたのです。“救いのセカンド・チャンス”をもたらしてくださったのです。
 さて、私たちの日本はキリスト教国ではありません。クリスチャン人口は、総人口の1%か、それ以下だと言われています。家族の中で自分だけがクリスチャンという人も少なからずいます。そのような方が信仰の問題で悩むことの一つは、自分は信じて、洗礼を受けて、天国を約束されたけれど、信じていない自分の家族はどうなるのか?ということです。
 加藤常昭先生という隠退牧師の方がおられます。この先生が、ペトロの手紙の説教集の中で、次のような経験を書いておられました。石川県金沢の教会に赴任(ふにん)しておられた時のことです。一人の学生が洗礼を受けたのですが、最初、彼は洗礼をためらったといいます。それは、彼の両親が仏教徒として既に死んでしまっていたからです。自分にとってたいへん良い両親だった。その二人とも、陰府の世界に捕らわれているのに、自分一人だけが天国に行くことはできない、と悩んだのです。
 その悩みに対する答えが、今日の御言葉にあると思います。イエス・キリストは捕らわれていた人々のところへ行って、宣教してくださった。もう一度、信じて救われるチャンをくださったのです。もちろん、仏教や他の宗教を信じている方々の死生観からすれば、自分たちまでそのような捉え方でくくられるのは受け入れられないことではあるでしょう。私たちも、他宗教の方々の信仰を否定するつもりで、そう言うのではありません。けれども、聖書の御言葉に教えられ、イエス・キリストを信じる私たちは、そのようにすべての人に救いのチャンスがあると信じることで希望と慰めを得るのです。
 イエス・キリストは、死んで陰府に行き、「復活によって」(21節)、「天に上って神の右に」(22節)に行かれることで、あなたがたに、私たちに救いの希望と慰(なぐさ)めをもたらしてくださいました。19節で「行って」と訳されている言葉、また22節で「上って」と訳されている言葉は同じギリシア語です。この言葉は元来、“道が通じる”という意味だそうです。イエス・キリストによって道が通じたのです。
 俗(ぞく)っぽい話になりますが、私はふと、昨年の2月に新潟県の小出教会の保育園でお手伝いした雪かきのことを思い起こしました。今年は融雪パイプが屋根の上に設置され、暖冬でもあったので、お手伝いの必要はなく伺いませんでしたが、昨年は青年たちと6人で行きました。保育園の平らな屋根の上には2m近い雪が積もっていました。もちろん、2日間では雪を全部降ろすことはできません。雪庇(せっぴ)と呼ばれる、雪が屋根から庇のようになっている部分だけを降ろします。それが突然下に落ちると危険だからです。その際、ちょっと遊び心で、屋根のこちら側から向こう側へと移動する道を作るのに、一部、トンネルを掘りました。こちら側と向こう側から掘り進め、通じた時は何だか妙な達成感があって、嬉しかったのを覚えています。
 道が通じる。それは嬉しいことです。イエス・キリストは、神のもとへ、今まで断絶していた二つの世界の間に道を通じさせてくださいました。
陰府という捕らわれの世界から、天国へ、神のもとへ、救いの道が、喜びの道が通じたのです。

 この道を通って神のもとへ導くために、天の国へと入れるために、イエス・キリストは、「洗礼」というしるしを定めてくださいました。
 聖書の巻末にある用語解説では、洗礼とは、身を水に浸す儀式で、罪からの清めとキリストと一致する新しい生活に入るしるしだと説明されています。当時の洗礼式は、私たちの教会のように、牧師がその手で受洗者の頭に水をつける形ではなく、全身、水の中に漬(つ)かるという形で行われていました。今も、礼拝堂にお風呂ぐらいのプールがあって、そのように洗礼式をする教会もあります。
 当時の人々は、全身を水に浸(ひた)す様子を見ることで、「肉の汚れを取り除くこと」(21節)と洗礼を捉(とら)える人もいたようです。体の汚れを洗い落とすという象徴によって、内なる汚れ、心の罪を取り除くことだと考えたのです。それが間違いだというわけではありません。けれども、ペトロは21節で、こう語っています。
「洗礼とは、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることです」
 洗礼を受けて、信仰生活を始めた方からしばしば聞く経験談ですが、洗礼を受けて、イエス・キリストの愛と罪の赦しに浴したからと言って、自分の心から、生活から罪が全く消えてなくなるわけではない。自分が正しいと独善的になる。人を憎み、ねたむ。利己的になり、愛を失う。人の悪口を言う。争う。傷つける。分かっていても、完全に払しょくすることなどできない。私たちの心と生活は、まさにそうです。罪人です。しかし、だからこそ、私たちは洗礼によって、「神に正しい良心を願い求める」道を歩き始めるのです。
 私たちと共に教会生活を歩んで来たI.Mさんが、2月29日に天に召されました。3月2日に、ここで告別式を行いました。礼拝に、祈り会に熱心に出席され、信仰の恵みを求めながら、深く味わいながら歩まれたクリスチャンだったと思います。
 Iさんは“デモクリ”という言葉をよく口にされました。“何、お前、それデモ、クリスチャンなのかよ”と周りの人から言われても、“私はこれデモ、クリスチャンです”と証しする信仰に生きたのです。決して開き直っているわけではありません。ご自分が仕事において、人間関係において、多くの失敗をし、周りの人を傷つけ、迷惑をかけて来たことを、よく知っているのです。そのことを思い出すと、夜も眠れない日がしばしばあるとお話してくださいました。だから、そういう自分を思うと、私はクリスチャンです、とはとても言えない。けれども、自分の失敗と自我の欠点を、すべてイエス様におゆだねして、“こんな私ですが、よろしくお願いします”とイエス・キリストにゆだねたのです。私たちには、分かっていてもできないこと、直せないことがあります。どうしようもないこと、取り返しのつかないことがあります。後悔して、落ち込む以外にないことがあります。でも、それをイエス様にお預けする。イエス様は、私たちの失敗と罪を背負って、私たちの犠牲となって十字架に架かり、罪滅ぼしのために身代りに死んでくださった。その恵みに、自分のすべてをおゆだねする。だから、井上さんは、自分が立派なクリスチャンだから、これでもクリスチャンと誇っているのではありません。むしろ、自我と失敗をたくさん抱えた罪人の自分が、イエス・キリストの十字架による神の愛と赦しによって、愛され、赦され、生かされて生きているから、そのことを感謝して、謙虚な思いで、“これデモ、クリスチャン”と証ししたのです。
 私は、この思いこそ「正しい良心」ではないかと思うのです。罪を取り除き、消し去ることはできないけれど、その罪を悔いながら、キリストの愛と赦しを求めて生きる心です。洗礼とは、この心、この信仰に生きる道に入門すること、始めることなのです。
 もちろん、今、キリストを信じて洗礼を受けなくとも、キリストは陰府にまで宣教してくださいましたから、死後のセカンド・チャンスはあります。けれども、もし今、キリストの愛と赦しが心に感じられるのなら、キリストが天に続く道、救いの道へと自分を招いてくださっていると思うなら、今が、神さまの用意してくださったチャンスではないでしょうか。
 私は、今こうして生きている時にも、また死んでからも、一人でも多く、キリストの救いの恵みを感じて、救いの道を上り始める人が起こされることを祈っています。


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