坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年3月27日 復活祭イースター礼拝説教「おはよう」

聖書  マタイによる福音書28章1〜10節
説教者 山岡 創牧師

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


      「おはよう」
                (大人)
 おはようございます、と主イエスは婦人たちに言われました。「おはよう」(9節)、日本語に訳せば、ごく普通の朝の挨拶(あいさつ)です。けれども、主イエスが言われた「おはよう」は、ただの挨拶ではありません。私は今日まで、この聖書の箇所を何回となく読み、説教も1度ならずしたと思います。しかし、今回、主イエスが言われた「おはよう」の意味を初めて知りました。それは“復活の挨拶”なのです。

 弟子たちのもとへ走って向かう二人の婦人、マグダラのマリアともう一人のマリアに、主イエスは、その行く手に立っていて、「おはよう」と言われました。二人は墓から弟子たちのもとへ向かう途中でした。それは、主イエスが葬(ほうむ)られた墓でした。
 先週の礼拝で、直前の27章、十字架刑に処せられた主イエスが、息を引き取る場面の聖書箇所から御(み)言葉を聞きました。ご自分を陥(おとしい)れた人々に対して、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せ」(Ⅰペトロ2章23節)して、黙(もく)して十字架にお架(か)かりになった主イエスの死は、「自らその身にわたしたちの罪を担(にな)って」(同24節)くださった、罪の贖(あがな)いの死であると聖書は語ります。けれども、主イエスの死が、ただ単に、失敗と敗北の惨(みじ)めな処刑の死ではなく、私たちの罪を贖う死、すべての人の罪を赦(ゆる)し、愛するための“神の死”であったと言えるのは、主イエスが復活したからです。
 十字架の上で死なれた後、主イエスはアリマタヤのヨセフという人の手によって墓に葬られました。金曜日の夕方のことです。夕暮から「安息日」(1節)と呼ばれる土曜日が始まります。神を礼拝すること以外、何の労働もしてはならない日です。その日が終わって、「週の初めの日」(1節)、つまり日曜日の明け方に、二人の婦人は墓に行きました。すると、地震が起こり、横穴式の墓の入口に蓋(ふた)をしていた大きな石が転がり、その上に天使が座っていた、というのです。天使は二人に告げました。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5〜6節)。
 私たちは、愛する人の死を経験します。今まで共に過ごした家族、お付き合いして来た親しい人がこの世からいなくなるのは、悲しく寂しいことです。その失った人を、私たちは墓に葬ります。そして、折々に墓参りをし、その墓の前に立つでしょう。私も越生にある教会墓地を訪れ、その墓の前に立ちます。教会を共に造り、教会生活を共にして来た多くの人を偲(しの)びます。
 しかし、墓の前に立つとき、私たちが心耳を澄まして聴くべき神の言葉は、あの天使の言葉ではないでしょうか。「恐れることはない。‥‥あの方はここにはおられない。‥‥復活なさったのだ」。
 墓は、失った愛する人を偲(しの)ぶ記念の場所です。けれども、その場所で私たちが心すべきことは、そこに愛する人はいないということです。そこで、私たちは天を見上げるのです。天を見上げて、亡くなった愛する人が、主イエスの復活にあやかって復活し、天の御国において永遠の命に生きていることを信じるのです。
 私たちはともすれば、人の死はすべての終わり、滅びだと考えます。もう会えないと考えます。何の希望も持てず、恐れを抱きます。だから、思考が後ろ向きになります。生き方が後ろ向きになります。マグダラのマリアともう一人のマリアも私たちと同じだったでしょう。
けれども、そこで私たちに語りかけられていることは、「恐れることはない。‥‥復活なさったのだ」という神の言葉です。死はすべての終わりではない、滅びではない。死を突き抜ける命がある。死から始まる新しい命がある。永遠の命の世界がある。この希望を聖書は語ります。主イエスの復活とこの希望がなかったら、弟子たちはとっくに散り散りバラバラになり、後の歴史に教会とキリスト教信仰は存在しなかったでしょう。
 ある人が“復活祭の疑い”ということを言ったそうです。復活なんて本当にあるのか?という疑いを私たちは抱きます。けれども、そっちの疑いではありません。そうではなくて、死は本当に滅びなのか?という疑いです。死は終わりだ、滅びだと思っていた恐れの確信が揺(ゆ)らぎ始めるのです。聖書が語る復活の希望を信じることによって、私たちの恐れは揺らぎ始めます。その時、私たちの人生の向きが変わり始めます。私たちの墓に向かう足は180度ターンします。希望のない、死へと向かう後ろ向きの姿勢は、命の希望を信じて生きる前向きの姿勢に、顔を上げて天を見上げる姿勢に変えられるのです。その人生転換がまた、一つの復活なのだと言うことができます。

 この信仰の希望を象徴的に言い表しているのが、「おはよう」という復活した主イエスの挨拶です。私は今まで、この挨拶に特に注意を払いませんでした。しかし今回、黙想をしていて、ふと、元々の原語はどういう言葉だろうか?“平和があるように”という意味のシャロームという言葉だろうか?そんな関心が湧いて来ました。それで調べてみたところ、シャロームではありませんでした。これはギリシア語で“喜ぶ”という意味の動詞の命令形(カイレテ)が使われていました。つまり、“喜べ”“喜びなさい”という意味の言葉が使われているのです。何を喜ぶのか?主イエスの復活です。主イエスにもう一度お会いできたことです。そして、主イエスの復活に支えられた私たちの復活の約束です。この喜びを人生の基調、土台とすることが信仰なのです。そうすれば、悲しみの中にも慰めがある。恐れの中にも平安がある。失敗や挫折(ざせつ)の中にも立ち上げる勇気が湧く。それが、180度、神の方に向きを変えた、神を信じ、神と共に生きる生き方です。
 その喜びを告げる意味が、「おはよう」という言葉に込められています。日本語としては何の変哲もない挨拶です。けれども、これは朝の挨拶です。“朝が来た!”と朝を告げる清々(すがすが)しい挨拶です。この「おはよう」という挨拶には、復活の朝が来た、主イエスの復活によってあなたにも人生の朝が来た!という祝福が込められていると思うのです。
 NHKの連続テレビ小説〈あさが来た〉が今週いよいよ終わりを迎えます。人生七転(ななころ)び八起(やお)き(九転び十起き)、そういう人生の朝、夜明けをテーマにしたドラマだったと言えます。主人公の白岡あさも人生の晩年を迎えました。姉の夫・天王寺屋惣兵衛は3日ぐらい前の回で死を迎えました。あさの夫・新次郎にも、何となく死の兆(きざ)しが見え始めました。“今週、新次郎さん、亡くなるのかな?”と思いながら、もしもそうなった時、白岡あさは、どんなふうに夫の死と向かい合うのだろうか?そんな想像を思い巡らしています。ご存知の方もいると思いますが、白岡あさは晩年、洗礼を受けてクリスチャンになった人です。日本初の女子大学・日ノ出女子大学を共に創設した牧師・成澤泉から洗礼を受けたのかも知れません。そんなシーンはドラマでは出て来ないでしょうが、現実の白岡あさは、晩年には、人の死の向こうにある命の夜明け、命の朝を信じたくて、洗礼を受けたのかも知れません。
 「おはよう」。私たちは何気なくこの挨拶を交(か)わします。けれども、私は今度から、教会で朝、皆さんをお迎えするとき、祝福の思いを込めて「おはよう」と挨拶したいと思います。“あなたの人生にも復活の朝(希望)が備えられています。さあ、喜んで復活の主イエス・キリストを共に礼拝(れいはい)しましょう”という思いを込めて挨拶をしたいと思います。暗い人生の夜から復活の朝を迎える。何度でも迎える。それが私たちの信仰です。

   復活祭イースター礼拝説教(子ども)マタイによる福音書28章1〜10節
                 「おはよう」

 イースター、おめでとうございます。最近、街中でも“イースター”という言葉を見聞きするようになりました。お店の商品に、イースター○○といった言葉が付いています。でも、イースターおめでとう、と挨拶(あいさつ)する人は、お店や街中にはいないでしょう。と言うのは、イースターの意味を知っている人がほとんどいないし、知っていても信じてはいないからです。日本の人々は、色々なお祭りや記念日の名前だけを借りて、何でも商売と結びつけてしまうところがあります。バレンタイン・デーなどは、その最たるものですね。
 イースターというのは、私たちの罪を負って十字架で死んだイエス・キリストが、死から復活されたことを祝う復活祭(ふっかつさい)です。そして、イエス・キリストの復活によって、私たちも死から復活できると信じて、喜びを共にするお祭りです。だから、おめでとう、と挨拶するのです。

 けれども、聖書の中にもイエス・キリストの復活を疑い、笑う人がいたように、私たちの中にも、イエス・キリストが復活したことを疑って信じない人がいるのではないかと思います。“イエス・キリストが復活したなんて、あり得ない”。普通に考えれば、それが当然です。でも、復活って“生き返る”こととはちょっと違います。生き返ったかのように聖書は書いていますが、40日後には、イエス様は天国へと昇って行かれたからです。でも、その間に、確かに弟子たちや婦人たちを励ました。そうでなかったら、弟子たちはイエス様が死んだ後、絶望してバラバラになり、その後の歴史に教会もキリスト教信仰も生まれなかったはずです。命をかける人もいなかったはずです。でも、イエス様の教会は今日まで続いています。そこには、復活という言葉で表わされている“何か”があるのです。
 私たちは、復活したイエス様とどこでお会いすることができるのでしょうか?今日の聖書の中では、ガリラヤへ行け、そこでお会いできる、という言葉が2回繰り返されています。ガリラヤとはどんな場所なのでしょうか?
話は変わりますが、最近〈ちはやぶる〉という少女マンガが映画化されました。百人一首を使った競技かるたを題材にしたマンガです。少女マンガですが、どちらかと言えばスポ根マンガです。主人公の高校生・綾瀬千早を中心に、その仲間たちが、競技かるたで日本一を目指します。一生懸命っていいなあ、と思わせる、努力と友情と涙のマンガです。その中で、主人公の千早が6年生の時に、綿谷新という競技かるたの天才と出会って、競技かるたの楽しさ、友だちと楽しく、がんばるすばらしさを知るシーンが最初にあります。しかし、家庭の事情で新は東京から富山に転向してしまう。千早は、新との約束を思い、競技かるたを続けるのですが、時々、新とこんなふうにかるたをしたなあ、言葉を交わしたなあ、と6年生の時の思い出が脳裏(のうり)によみがえります。その度に、千早の中でモチベーションが上がる。まるで、そこにいない新が千早の中で生きていて、千早を突き動かしているようです。
話を戻しますが、ガリラヤとは、イエス様の故郷であり、弟子たちの故郷です。でも、単に故郷だから、と言うわけではありません。そこは、イエス様と弟子たちが、生き生きと神の国の教えを宣(の)べ伝え、活動した場所です。ガリラヤには、そこにも、ここにも、イエス様と共に、楽しく、生き生きと生きた記憶が刻まれているのです。そのガリラヤの地に行って、歩き、思い浮かべたら、イエス様の姿がよみがえってくる。イエス様の言葉が聞こえてくる。イエス様が聖霊(せいれい)となって、弟子たちの心に働き、モチベーションが上がる。喜びと救いを宣べ伝えようとの勇気が湧いて来る。まるでイエス様が弟子たちの中で生きていて、弟子たちを突き動かすのです。

 復活とは、そんなふうに、私たちの内側に、イエス様の言葉が響き、イエス様の愛が心を熱くし、周りの人のために、家族のために、友だちのために、イエス様が私たちを突き動かすような熱い体験なのです。その信仰はいつの日か、イエス様が昇って行った天国へと通じています。この世の命を終えたとき、天国で新しい命が、永遠の命が始まる希望へとつながっています。



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