坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年7月3日 礼拝説教「欲の生活から愛の生活へ」

聖書 ヨハネの手紙(一)2章7〜17節
説教者 山岡 創牧師

2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。
2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
2:9 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
2:10 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
2:11 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
2:12 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。
2:13 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
2:14 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。



      「欲の生活から愛の生活へ」

 先週、我が家では“温故知新(おんこちしん)”という言葉をしばしば耳にしました。中学3年生の三女が、国語の授業で習ってきたようで、先週末にあった期末テストで、本人は必ず問題に出ると言っていましたが、本当に出たようで、ヤマが当たったと友だちにも喜ばれたようです。古きを温めて、新しきを知る、という四字熟語、昔のこと、古いものをたずね求め、学び、考えて、そこから、現在にも通じる新しい知識、思想を得る、という意味です。
 ヨハネの手紙(一)の今日の箇所の冒頭に書かれていることは、まさに温故知新だ、と言って良いでしょう。
「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています」(7〜8節)。
 「掟」という言葉は、現代ではまず聞くことのない、使うことのない言葉です。簡単に言えば、集団や組織の決め事、ルールのことです。が、単にルールと言う以上に強い意味を持っています。その集団が最も大切にしているもの、それを破れば、その集団が意味を持たなくなってしまうと言っても良いぐらい、その集団、組織のアイデンティティーに関わるもの、それが掟です。つまり、今日の聖書の話で言えば、教会が教会であるためのルール、教会にとって最も大切なルールです。
 実は、今日の聖書箇所では、その「掟」が何なのか、はっきりと書かれてはいません。ユダヤ人にとって「掟」と言えば、十戒を代表とする律法のことでした。旧約聖書に書かれている内容です。主イエスも、律法に深く根ざして生きた方です。けれども、温故知新、主イエスはまさに、既に聞き知っていた古い律法の中に、新しい意味を見出しました。そして、弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」(ヨハネ福音書13章34節)と言って、こう命じられました。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同34節)。
 主イエスが、古い律法の中から汲み取ったエッセンス、最も重要な内容はこれだったのです。
 この手紙を書いたヨハネは、主イエスが言われたこの掟をもとに、今日のところを書いていると考えられます。この手紙を読み進むと、3章11節、4章7節あたりに、互いに愛し合うということが重要な教えとして出て来ます。主イエスが命じた新しい掟は、ヨハネの時代には、時間的には古いものになっていました。主イエスの時から50年以上が経っていたからです。けれども、ヨハネは、既に聞いたことのある主イエスの掟を、「新しい掟として」書いていると言います。それは、この掟が古びて時代遅れになるものではなく、温故知新、現代において、そして自分自身の生活の中で、常に新しく捉え直し、受け取るべきものだからです。

 さて、ヨハネが言う「新しい掟」が何であるかは分かりました。神の愛の下に、キリストの愛の下に、互いに愛し合う、ということです。
 けれども、今日の聖書箇所の内容は、互いに愛し合うという新しい掟が展開されるわけではありません。むしろ、この掟に反する生き方が二つ、今日の箇所に記されています。一つは、「兄弟を憎む」ということ、もう一つは、「世を愛する」ということです。
 まず「兄弟を憎む」という生き方から考えてみましょう。「兄弟」というのは、単に血のつながった兄弟、肉親のことを指しているのではありません。主イエスが、「神の御(み)心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3章35節)と言われたように、神さまを信じる信仰を同じくする人を「兄弟」と呼びます。教会の仲間たちです。更に主イエスは、山上の説教において、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイ5章46節)と言って、父なる神が善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるように、あなたがたも、自分を愛してくれない者、敵さえも愛しなさい、と教えています。ですから、愛すべき「兄弟」というのは、信仰の友、教会の仲間に限らず、更に広い人間関係に適用されることになります。
 さて、そう考えたとき、兄弟を憎むとはどういうことでしょうか。だれかとけんかをしていたり、仲違いをしていたりする状態が、兄弟を憎むということであるならば、これは分かりやすいのです。けれども、表面的には相手との関係を取り繕(つくろ)っていても、心の中で憎んでいたら、それは兄弟を憎んでいることになるのでしょう。スマフォのライン・グループで、だれかを除者(のけもの)にしたり、除者にした人の悪口をみんなで言う“○○さん嫌い同盟”なんてラインをやったら、これは明らかに兄弟を憎んでいるということでしょう。嫁・姑の関係でどちらかが意地悪をしていたり、会社の上司が部下に嫌がらせをしていたり、憎しみとは違うようで、でもそういったことも憎しみの一種のような気がします。ここで言う憎しみとは、愛するということの反対だと考えれば分かりやすいと思います。その行為、その態度、その行いに、相手のことを考え、思いやる愛のない状態です。
 新しい掟に立ち、兄弟を憎むことから兄弟を愛する者に変わることが求められています。救いと幸せがそこにあるからです。けれども、自分の方が和解しようと願っても、相手がそう思っていなかったら、仲違いの関係は解決することができません。大切なことは、仲違いが解決できたという結果ではありません。もちろん、それに越したことはありませんが、大切なのは、和解のために意志を持ち続けること、裏返して言えば、けんかし、仲違いをしている状態が当然だと思わないこと、“相手が悪いんだ”と決めつけず、自分の問題をよく見つめ直し、それを恥じている気持です。その気持と意志があるなら、たとえすぐには関係を改善できなくても、憎む者から愛する者への一歩を、私たちは踏み出しているのです。その意志と気持が、悔い改めと呼ばれるものなのかも知れません。

さて、互いに愛し合うという掟に反するもう一つの生き方は、「世を愛する」ということです。それは、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(16節)を求めて生きるということです。「世にあるもの」を求め、愛して生きることは、父なる神を愛していないことだとヨハネは言います。それは、互いに愛し合うことの基にある、神の愛を忘れた生き方です。
最近、「世を愛する」生き方をして、世間を騒がせた人がいました。舛添要一・前東京都知事です。公用車を使って、湯河原の別荘に何度も通ったこと、また政治資金を家族旅行代や多額の美術品購入に使ったことが問題として取り上げられました。最初は、強気な発言をしていましたが、世間の注目が大きくなってきて、風当たりが強くなると、言うことが変わって来ました。第三者としての弁護士に調査させることになりましたが、問題になった幾つかの点で、違法ではないが不適切な使い方であると指摘されました。そのことで道義的な責任を追及され、事実関係の公表を求められても、決して明らかにはしませんでした。そして、何とかして都知事の地位にしがみつこうとしました。都知事の給与を全額返上してでも、都知事を続けさせてほしいと訴えました。けれども、辞任が決まると、給与の全額返上はもちろん取り下げ、更に夏のボーナス380万円と退職金2,200万円は受け取るようです。当然の権利と言えば、そうかも知れませんが、不適切に使用した政治資金の分ぐらいは返したのだろうか、結局何も分からないまま終わってしまった、という釈然としないものが残りました。
何かやむを得ない事情でもあったのかどうか、それは分かりませんが、「世にあるもの」を色々と愛したと思えます。最初はそうではなかったかも知れませんが、政治資金を家族旅行や美術品購入等に当ててしまったのは、政治家としての「おごり」でしょうし、金銭に対する「欲」が大きく絡(から)んでいます。また、地位や名誉、権力にしがみつこうとする「欲」も感じられます。欲のために、神を愛し、兄弟を愛することを忘れた人の姿、生き方です。
けれども、私たちは、この姿を他人事と考えてはならないでしょう。たとえ大きな権力を扱うような高い地位になくとも、大きなお金を動かす立場になくとも、私たち一人ひとりが置かれた場所、置かれた境遇と立場において、「肉の欲」「目の欲」「生活のおごり」という誘惑はあるものです。
神学校を卒業する時、“酒、金、女には気をつけろ”と言われました。一歩間違えて、その欲に溺れる時、牧師は失敗すると教えられました。牧師に限らず当たり前のことです。でも、その当たり前のことに、私たちは、まるで魔が差したかのように失敗することがあるのです。主イエスが荒れ野で悪魔に誘惑される話は、ここにいる多くの方がご存じでしょう。断食修業をして空腹になられた主イエスが、石をパンに変えてみろと言われ、高い塔の上から飛び降りて、神が助けてくださるかどうか試してみよと唆(そそのか)され、最後に悪魔を拝めば、この世の国々とその栄華、権力と富をすべてお前にやろうと、誘惑される話です。あれは、おとぎ話ではなく、主イエスだけの心の問題と葛藤(かっとう)でもなく、私たち一人ひとりの生活に起こり得る物語なのです。その場面で、主イエスのように、「退け、サタン」(マタイ4章10節)と、自分の内側にある欲に向かって言えるかどうか、それは私たち一人ひとりの現実的な課題なのです。

 神の愛を知り、神を愛し、互いに愛し合うという掟に生きるところに、救いがあり、幸せがある。それが見えているなら、私たちは「光の中」を歩んでいます。けれども、この掟に生きることは、容易なことではありません。それができない自分の姿を一度ならず見させられます。それもまた「光の中」にいるということです。
 神に愛されていることを忘れずに進みましょう。主イエス・キリストの十字架によって示された神の深い愛によって、神を愛せず、人を愛することができない自分が赦(ゆる)されていることを感謝して歩みましょう。その愛に開き直るのではなく、神の愛と赦しを信じるからこそ、人を憎まぬ一歩を、この世を愛さぬ一歩を踏み出す勇気と祈りをもって進みましょう。


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