坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年7月17日 礼拝説教 「わたしたちは神の子」

聖書 ヨハネの手紙(一)2章28節〜3章3節
説教者 山岡 創牧師

2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずで
す。

3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。


      「わたしたちは神の子」

 「さて、子たちよ、御子(みこ)のうちにいつもとどまりなさい」(28節)。
 ヨハネは、自分の教会の信徒たちに語りかけます。「とどまりなさい」と。どこにとどまるのでしょう?「御子のうちに」です。
「御子」とは、神の独り子であるイエス・キリストのことです。では、イエス・キリストのうちにとどまるとは、どうすることでしょうか?私はふと、子どもの頃の遊びを思い出しました。例えば、“鬼ごっこする人、この指、止まれ!”とだれかが言います。すると、周りにいる子どもたちがワラワラと寄って来て、その指に止まります。鬼が決められ、鬼ごっこが始まります。
イエス・キリストのうちにとどまるとはイエスの指に止まることではないか。“神の国ごっこする者、この指、止まれ!”と呼びかけるイエスの指に止まり、イエスと一緒に遊ぶことではないか。そんなイメージを想像しました。
とどまるとは、ヨハネの手紙の言葉で言うならば、「初めから聞いていた」(24節)信仰を、いつも自分の内に持ち続ける、ということです。ペトロをはじめとする使徒たちから受け継がれてきた信仰に、つまり、父なる神は独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになって、私たちを、命本来の“生きる喜び”に復帰させてくださった。イエス・キリストは、十字架の上で命をお捨てになるほどに、私たちを愛してくださった。その愛によって、自分を見失っていた(=罪)私たちが、“生きる喜び”に立ち帰ることができた。愛と喜びに生きる「神の子」(1節)としていただいた。そこに神の愛が示されている。と言うのが、今も受け継がれているキリスト教の信仰です。この信仰を持ち続けること、そして異なる信仰、間違った信仰を抱いて「反キリスト」となり、教会を去ることのないように、教会にとどまり続けること、それが御子イエス・キリストのうちにとどまる、ということでしょう。
 先ほどお話したイメージでもう一度言うならば、教会で、“神の国ごっこ”を、本気でしよう、しなさい、ということです。
 どうして私たちは“神の国ごっこ”なんて、するのでしょうか?それは、イエス・キリストが示す神の国、愛に満ちあふれた国こそ、私たちの理想であり、目標だからです。喜びの国、幸せの国、救いの国だからです。そして、本物の神の国がいつか来るからです。その時に備えて、言わば私たちは神の国のシュミレーションを今、しているのです。

 今日の聖書箇所で、「御子の現われるとき」「御子の来られる時」(28節)と繰り返し語られています。御子が現れるときが、神の国の来る時です。これは、直前の18節で「終わりの時が来ています」と書かれていることと同じ意味です。御子イエス・キリストがもうすぐやって来る、と期待しているのです。聖書の教え、キリスト教の信仰には、父なる神さまによって天から地上に遣わされたイエス・キリストが、十字架にかかり、復活し、天にお帰りになって、時来たらばもう一度、この世にやって来られる、という信仰があります。その時、イエス・キリストはこの世を愛によって造りかえ、愛によって支配し、愛に満ちあふれた神の国が実現するという信仰です。この信仰からすれば、私たちは今、イエス・キリストが天にお帰りになっている時を歩んでいることになります。つまり、イエス・キリストがいない、不在なのです。私たち現代のクリスチャンは今、ある意味で、イエス・キリスト不在の時を歩んでいる。それが“教会”というものなのです。
 話は変わりますが、日本基督教団出版局が出版している『信徒の友』という月刊誌があります。その7月号の特集のタイトルは〈無牧(むぼく)〉でした。教会に牧師がいないという状況です。現在、日本基督教団の教会数は全国で約1700です。その中で、無牧の教会が約13%、220ぐらいあるとのことです。地方の教区によっては20%を超える教区がいくつかあります。岡山県、鳥取県の教会によって構成されている東中国教区は35%の教会が無牧だということです。ちなみに、私たちの埼玉地区が属する関東教区は14%です。埼玉地区だけなら1桁のパーセントでしょう。
 教会が無牧になる主な原因は、教会が牧師の生活を経済的に支えることが難しくなっていることです。教会員の人数が減って来て、年金生活の方が増えて来ましたし、経済困窮の日本社会では、献金によって牧師の生活を支えることは容易なことではありません。けれども、経済的な理由だけが無牧の原因ではありません。大きな教会が無牧になることもあります。埼玉地区でも今年度、教会員100名を超える一つの教会が無牧になっています。だれでも良いというわけにはいきません。自分たちの教会にマッチする牧師を見つけることは、決して簡単なことではないのです。
 そのような教会の無牧の現状を報告しながら、しかし〈無牧ならではの経験〉ということも書かれていました。
  無牧を経験することで初めて教会員が身に染みて知ることがあります。礼拝をどう守るか。説教者をどうするか。週報作成、教会員求道者への配慮‥‥。無牧になって初めて教会の働きの内実を知るのです。時には教会員が交代で講壇に立たなければなりません。聖書の御(み)言葉に聴き説教することの厳しさと奥深い慰めを味わい知ることになります。教会の肢(えだ)として教会員おのおのが切実にキリストから託された荷を担うのです。そうやって教会そのものの原点に立っているのだと思います。
無牧の時とは、一つの面では、大変だけれども、教会・信徒が育つとき、だと言うのです。牧師がいない間、教会員たちは懸命に教会を守ろうとするでしょう。荒れ果ててしまったら、大変だからと言って教会員が何人も去ってしまったら、次の牧師は来ないでしょう。だから、牧師が来るまで、教会員は懸命に教会を守ろうとします。礼拝を、伝道を、関係者への配慮の働きを保とうとします。そして、新しい牧師を迎えた時は、何にも増して喜びを感じるに違いありません。
 私たちが、「御子が現れるとき」、イエス・キリストが来られる時を待ち望む、ということは、ある面で無牧の教会が牧師を待ち望む状態と似たようなものではないだろうか?そう思いました。私たちは、イエス・キリストがもう一度来られることを信じ、待ち望む信仰がよく分からない、ピンッと来ないところがありますが、無牧を経験すると、その信仰が実感としてイメージできるようになるかも知れません。教会を守るために懸命に苦労して来た。その苦労が報われる。後は、新しい牧師に任せて、ホッと安心して、教会生活をすることができる。実は、イエス・キリストを迎えるということも、そういうことなのではないか。今は無牧ならぬ“無イエス”の時です。救いの恵みを伝える伝道の使命を託された、キリストの体と呼ばれる教会を、イエス・キリストが来る時まで、私たちは懸命に守るのです。牧師はプロフェッショナルですから、教会を守るという意識が最も強いでしょう。けれども、もちろん牧師だけではなりません。役員が教会を守ろうと労苦する。教会員が教会を守ろうと努力する。いや、求道者や関係者も教会を守ろうと協力する。イエス・キリストが来られるときまで、みんなで労苦し、努力し、協力する。そういった“教会愛”の強い教会は、きっと良い教会でしょう。キリストに喜ばれる良い教会になるでしょう。

 イエス・キリストが現れるときまで、来られるときまで、私たちは教会を守ります。そのために、私たちはどうしたらよいのでしょうか?最初にイメージとしてお話したことで言うならば、私たちは“神の国ごっこ”をすればよいのです。イエス・キリスト抜きで、神の国ごっこをするのです。もちろん具体的には、礼拝であったり、役員会であたり、休んでいる人への訪問や週報発送であったり、お掃除であったり、様々な奉仕活動であったりします。けれども、その本質は、言ってみれば“神の国ごっこ”なのです。
 教会は、神の国のモデルだと言われます。神の愛に満ちあふれた喜びの国、幸せの国、救いの国のモデルだと言われます。つまり、私たち教会は、神の国って、こういうところだろうというイメージを表現するのです。神の国そのものではありません。神の国をまねるのです。“神の国ごっこ”と言っているのは、そういうことです。
 3章3節に、「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」とあります。つまり、御子イエス・キリストをまねる、ということです。それが“神の国ごっこ”です。では、イエス・キリストをまねて、自分も清くなるというのはどうすることか?道徳的に、倫理的に、立派な、聖人君子のような人間になる、ということではありません。新約聖書の中で、それを目指したのはファリサイ派と呼ばれる人々でした。彼らはイエス・キリストと対立し、最後にキリストを十字架にかけた人々です。
清くなるというのは、自分の心を愛で満たす、ということだと私は思います。だから、「互いに愛し合いなさい」とこの手紙でも繰り返し言われるのです。ヨハネによる福音書という書がありますが、その中で、イエス・キリストが弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(13章34節、15章12節)とお命じになりました。その言葉を受け止めて、ヨハネの手紙でも、「互いに愛し合いなさい」と言われます。人を愛するということ、互いに愛し合うということが、キリストのように清くなるということであり、それが“神の国ごっこ”のルール、つまり掟です。けれども、“無イエス”ですから、愛することの最大の指導者が目の前にはいませんから、うまくいかないことも、失敗することもあるでしょう。それでも、私たちは、本気で、懸命に、涙を流しながら、神の国ごっこをするのです。イエス・キリストが来る時まで「互いに愛し合う」のです。

 ロシアの文豪トルストイが描いた『愛のあるところに神あり』という小説があります。日本の教会では『靴屋のマルチン』というタイトルでよく知られています。妻と一人息子を亡くし、寂しさから荒(すさ)んだ生活を送っていた靴職人マルチンが、友人の勧めにより毎晩聖書を読み始めます。次第に聖書の言葉が浸み入るようになり、心が落ち着いていきます。そんなある日、“マルチン、明日あなたのところに行くよ”というイエス・キリストの声を、彼は心に聞くのです。翌日、マルチンは部屋を掃除し、お茶と料理を用意してイエス・キリストを待ちます。仕事をしながら窓の外を気にしていた彼は、雪の中で雪かきをしていた老人にお茶を振る舞い、行きずりの若い母親と赤ちゃんを迎えて料理とコートを与え、更に、リンゴを盗んだ少年とリンゴ売りの老女の間を取り持ち、仲直りをさせます。日が暮れて、結局イエス・キリストは来ませんでした。けれども、その夜、聖書を読んでいたマルチンに、再びイエス・キリストの声が聞こえてきます。“今日わたしはあなたのところに行ったよ”。そして、老人の、母親と赤ちゃんの、少年と老女の幻が浮かび上がります。人の姿でおいでになったイエス・キリストを、マルチンは愛したのです。
 イエス・キリストはいつ、どんな姿形でおいでになるか分かりません。けれども、いつ来ても良いように、私たちは人を愛し続けます。行動で、言葉で、態度で、祈りで愛し続けます。失敗してもまた明日、気を取り直して愛し続けます。互いに愛し合い続けます。“神の国ごっこ”を続けます。それがつまり、御子イエス・キリストのうちに、いつもとどまることなのだと私は思います。


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