坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年7月31日 大人と子どもの礼拝説教 「不必要な部分はない」

聖書 コリントの信徒への手紙(一)12章12〜27節
説教者 山岡 創牧師

12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。



      「不必要な部分はない」

             〜 キリストの体という共同体 〜

 教会というところは、色々な人が集まって来ます。つながり、属しています。男の人と女の人がいます。小さな子どももいれば、お年寄りの方もいます。ちなみに坂戸いずみ教会では、いちばん小さな子どもは2歳のK.Tちゃんで、最もお年を取っている方は、先日95歳になったM.Tさんです。会社で働いている人もいれば、学校で学んでいる学生もいます。家事労働をしたりして家にいる人もいます。健康な人もいれば病を抱えている人もいます。障がいを負っている人もいます。そのために、病院に入院していたり、施設に入所している人もいます。日本人もいれば、外国人もいます。みんな、好きなことや得意なことが違います。性格も違います。
 そんなふうに、色々な人が集まり、つながり、属している教会のことを、パウロさんは、人の体のようだ、と言って、教会を「キリストの体」(27節)にたとえました。人間の体には血が通っています。キリストの体には、キリストの霊と愛が通っています。そのキリストの体の「部分」、一人ひとりはその部分だとパウロは言うのです。ある人は手、ある人は足。ある人は目、ある人は耳。さて、私たちは坂戸いずみ教会というキリストの体のどの部分でしょうか?(私などはお腹の脂肪かも知れません)
 ともかく、一人ひとりがキリストの体の部分です。そして、要らない部分なんてない。一人ひとりが体に必要だ、というのがパウロさんの考えです。そのとおりです。こんなふうに考えると分かりやすい。ちょっとグロい話ですが、“ここは要らない”と言って、体の一部を切って捨てたらどうなりますか?そこから血が流れ出て、体そのものが死んでしまうでしょう。どの部分も捨てられないのです。教会というキリストの体も、「お前は要らない」(21節)と言って、だれかを切り捨ててしまったら、そこから、キリストの霊と愛が流れ出てしまって、教会は死んでしまうでしょう。
 教会はキリストの体、一人ひとりはその部分、皆、体に必要な一部です。

 ところが、この手紙の宛先(あてさき)であるコリント教会では、“できない人は要らない”“役に立たない人は要らない”という考えが人々を支配していました。教会の中で、あること(異言)ができる人が優れていて、それができない人は劣っているという見方がありました。そして、劣っている人は教会の役に立たず、要らないという考えになっていきました。人は何かができないとだめなのでしょうか?何かの役に立たなければ教会にいてはいけないのでしょうか?
 先日7月26日に、神奈川県の相模原市で、痛ましい事件が起こりました。障がいを負っている人たちが入所し、生活している施設〈津久井やまゆり園〉で、この施設の元職員だった人に、入所者19名が寝ている間に刺されて殺害される事件が起こりました。今、事情や理由が取り調べられている途中ですが、犯人は、“知的障がい者や重複障がい者は一人で生きることができず、税金で養ってもらっていて、社会的に不要な存在だから、安楽死させるべきだ”という考えを持っていたそうです。これも、何かができないから役に立たず、要らない、という考え方(価値観)の一つです。そして恐ろしいのは、インターネット上で、この考えに同意する、心ない書き込みがかなりある、ということです。この考え方は、人の命の価値を、“できるか、できないか”という角度から一方的に見ているだけのものです。しかし、もちろん人の価値は、できるかできないか、ということでは決まりません。

 どんなことでも角度を変えて見る、色々な角度から見ることが重要です。そうすることによって、今までは見えなかった大切なものが見えたりします。
 私は、高麗川(こまがわ)の向こう側で畑を借りて、家庭菜園で野菜を作っています。今、キュウリがとてもよく穫(と)れます。昨日も14本も収穫できました。でも、時々、大きくなっているキュウリを見落とすことがあります。注意して見たつもりでも、葉っぱの陰に隠れていて見えないことがあるのです。そうなると、大きくなり過ぎて、種ばかりのキュウリになってしまいます。この前、そういう大きくなりすぎたキュウリを見つけました。1回目に捜した時と違う角度から2回目を見ることが大事です。
インゲン豆もそうです。ちゃんと探したつもりでも葉っぱに隠れていて見えないことがよくあります。同じ場所を反対側からも見ると、隠れていたちょうど良く育ったインゲン豆が見つかったりします。
 違う角度、別の視点から見ると、見落としていたものが見えます。大切なことに気づかされ、ハッとすることがあります。人を見る時も、色々な角度、視点から見なければ、一人ひとりの大切な価値は分からないものです。
 神さまを信じ、イエス・キリストに愛されていることを信じる私たちにとって、最も大切な視点は、神さまと同じ、イエス・キリストと同じ角度から一人ひとりの人を見る、ということです。今日の聖書の中に、神さまの見る角度、イエス様の視点はこうだよ、と書かれています。
「‥目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。‥‥‥神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分は互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊(とうと)ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(21〜26節)。
 これが、私たち一人ひとりに対する神さまの視点、キリストのお考えです。それは、人を“行為”ではなく、“存在”として大切に見ているということです。

 今、ブームを呼んでいるアドラー心理学。その著書『嫌われる勇気』の中で、哲人と青年のこんな会話があります。人を存在として見る、ということが分かりやすく書かれています。
哲人 あなたはいま、他者のことを「行為」のレベルで見ています。つまり、その人が「なにをしたか」という次元です。たしかにその観点から考えると、寝たきりのご老人は周囲に世話をかけるだけで、何の役にも立っていないように映るかもしれません。そこで他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「何をしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。
青年 存在に声をかける? いったいなんのお話ですか?
哲人 存在のレベルで考えるなら、我々は「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です。
青年 いやいや、御冗談もほどほどにしていただきたいですね。‥‥
哲人 たとえば、あなたのお母さまが交通事故に遭われたとしましょう。意識不明の重体で、命さえ危ぶまれる状態だと。このとき、あなたはお母さまが「何をしたか」など考えません。生きていただけで嬉しい、今日の命がつながってくれただけで嬉しい、と感じるはずです。
青年 もっ、もちろんですとも!
哲人 存在のレベルで感謝するとは、そういうことです。危篤(きとく)状態のお母さまは‥‥生きているということそれだけで、あなたやご家族の心を支え、役に立っている。
(『嫌われる勇気』209〜210頁)
 人の価値を、存在という点で見るならば、だれもが大切であり、だれもが周りの役に立っているのです。それが神の愛であり、聖書的な見方です。
 もちろん、私たちはきれい事だけでは生きられません。自分の家族や親族等と共に生きていくために苦労し、疲れ果て、マイナスなことを考えてしまうことだってあります。否、教会だって、一緒にやっていこうとする時、そう感じることがあるでしょう。
 けれども、教会はキリストの体です。そして、社会もまたキリストの体のように見ることがとても大切でしょう。お互いを、キリストに愛される大切な存在として見て、互いに受け入れ、愛し合う教会を、これからも共に目指していきましょう。

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