坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年8月21日 大人と子どもの礼拝 「イエスさまはわたしのために」

            「お知らせ」

 今週は、山岡牧師 夏季休暇のため山岡牧師の説教はございません。
山岡先生とご家族皆さまの夏のバカンスが神さまの見守りの中、実り豊かなものとなりますようお祈りください。今週の説教は野澤幸宏神学生にご奉仕していただきます。

聖書 ヨハネによる福音書19章28〜30節
説教者 野澤 幸宏神学生

19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。


      「イエスさまはわたしのために」

山岡牧師の夏期休暇の際、神さまのみ言葉を取り次ぐ機会を与えていただいた恵みを、神さまと教会の皆さんに感謝します。毎年恒例になりつつありますが、今年で三年目になります。
しかし、今年は、去年までとは大きく違う事があります。なんでしょうか?お腹のふくらみがへこんだ?それもあるかも知れませんが、今年は神学生としてこの講壇に立たせて頂いている、ということです。昨年10月の信徒証し礼拝で、牧師として神さまにお仕えする道を歩みたい、献身して神学校で学びたい、という事をお話しましたが、皆さまも知っての通り、勉強嫌いで不真面目な私のようなものでも受け入れてくださる神学校があり、無事にこの4月から神学生としての歩みをスタートしています。その、奇特な神学校は、東京の目白にある日本聖書神学校というところです。いわゆる夜学、昼間働いて夜勉強する形をとっています。私はいま、その神学校の敷地内にある寮で生活しています。  
朝は大宮まで通って、日中は以前から働いている高齢者デイサービス施設で高齢の方に仕える働きをし、夜は学校に戻って講義を受ける、という生活です。そして、日曜日は今までと同じく、この教会でいろんなご奉仕をさせてもらっています。
ご想像の通り、結構大変です。牧師になるためには、必ずギリシャ語の単位を取らなければいけません。新約聖書がもともとギリシャ語で書かれているからです。しかし、先ほども言いましたが、私は徹底的に勉強嫌いですから、これがしんどい!中高生の頃、英語でさえ挫折(ざせつ)した私が、もっと複雑に変化するギリシャ語を勉強するのは本当に大変です。来年以降は、旧約聖書の言葉、ヘブル語も勉強しなければなりません、、、皆さん、私が無事に単位を取れるよう、どうかお祈りください。
 とはいえ、楽しい歩みでもあります。学んでいることのひとつひとつは、知りたいこと、興味があること、今まで知っていたこともより深めていくことです。将来なんの役に立つのか分からないまま、やらされている感があった中学や高校の時の勉強とはその点が違います。そして、学び以上に、寮生活の恵みはとても大きいです。都心にありながら、周りには意外と緑も多く、蔦(つた)の絡(から)まる寮の建物には、いろんな生き物が住んでいたりもします。先輩たちと掃除など協力し合い、物品を分かち合って生活する事もとても恵みですが、平日毎朝7時から行われる祈り会は、毎日聖書を一章ずつ読み、聖書以外の副読本やテキストは使わず、み言葉から各自が受け取った事を分かち合い、終わりに互いに祈り合います。デボーション祈り会と言えば、大人の皆さんにはイメージしやすいでしょうか。
 その毎日は、言わば、私の大好きな教会のキャンプが毎日続いているようなもの、幸せな日々です。

 さて、話は変わりますが、今月11日から13日にかけて、こちらも毎年恒例の、埼玉地区中学KKS青年キャンプが行われました。今お話しした、私の大好きなキャンプです。今年は、イエスさまの受難、十字架の死、そして復活を劇にして疑似体験する、という内容でした。ここ三年ほど、このキャンプは聖書の物語を劇にして体験するという方法で行っています。これまでは同じ聖書の箇所を中学生、高校生、青年でそれぞれ違った切り口で表現していましたが、今年は「イエスさまは誰のために」というテーマの下、中学生は、イスカリオテのユダの裏切りでイエスさまが捕まり、ペトロがイエスさまを知らないと言う場面を、高校生は、ピラトの裁判と十字架刑の場面を、青年は復活の場面をと、三つのグループであたかも組曲のように一つの繋(つな)がった物語を作るという形で行いました。私は、高校生のグループのリーダーを担当しました。
エスさまの十字架の上での七つの言葉にスポットを当て、十字架の上のシーンを中心に劇を作っていきました。わたしたちの教会からの参加者では、Y.Hちゃんがイエスさまから母マリアを託される弟子ヨハネの役を、そして、Y.Mくんが、重要なイエスさまの役を演じてくれました。段ボールで作った身長より大きな十字架を背負い、兵士役に鞭打たれながら、礼拝堂の中央を歩きます。正面で、二人の犯罪人と共に十字架にかかります。
そして、七つの言葉を語ります。
十字架に釘づけられて、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
悔い改める犯罪人に対して、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
見上げる母マリアに対して、
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」
その傍(かたわ)らの弟子ヨハネに対して、
「見なさい。あなたの母です」
苦しい息の中で、
「わたしは乾く」
酸(す)いぶどう酒を飲まされて、
「成し遂げられた」
そして、
「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」
と叫んで頭を垂れます。
それは、お芝居です。しかし、それを見ていて、私の心に突き刺さってくるものがありました。この苦しみが、この痛みが、この死が、今の私を生かしているのだ、と。
自分が今、神学校で本当に恵まれた学びと交わりの日々を過ごし、幸せを実感して生きていられるのは、この方の、この犠牲があったおかげだ、と。
 2000年前、遠いイスラエルの地で起こった出来事が、現代を生きるこのわたしの日常と、理屈抜きに繋がっていると唐突に実感したのです。
中学生、高校生、青年の、それぞれの場面の劇が終わりました。それは表現の味は違えども、ひとつに繋がった礼拝のような劇になりました。発表の時間の最後に、賛美歌を一曲歌いました。皆さんともこれから歌う、讃美歌21の290番「おどり出る姿で」です。この賛美の4節を歌いながら、私は涙が落ちるのを止められませんでした。

「暗い雲が光をとざし 神のみ子が釘づけられて
悪がちからをふるうなかも、みわざはすすんだ」

何の罪もない神のみ子であるイエスさまが、釘づけられた。それは、この私が罪から救われて幸せに生きるためだ。その大いなる犠牲が、愛が、心に突き刺さってきました。
キャンプのテーマ「イエスさまは誰のために」の問いが思い起こされます。他ならぬ、この「わたし」のためです。世界中のすべての人たち、余すところなくそのひとりひとりのためです。イエスさまが、命をかけて愛されたひとりひとり、イエスさまの愛に応えて、互いに愛し合って生きていきたいと願います。



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