坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年9月11日 礼拝説教 「神はわたしたちの心よりも大きい」

聖書 ヨハネの手紙(一)3章19〜24節
説教者 山岡創牧師

3:19 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、
3:20 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
3:21 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、
3:22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
3:24 神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。


      「神はわたしたちの心よりも大きい」

 私たちは、主イエス・キリストが“父”と呼ぶ神を信じて、毎週の礼拝を守っています。あるいは、信じたいと願って求道の生活を続けています。そのように、私たちが神さまを信じることで得たいと願っているものは何でしょうか?‥‥‥得たいと願っているもの、その一つは「安心」ではないでしょうか。そして、ヨハネは私たちに、こう語りかけています。
「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前(みまえ)で安心できます」(19節)。
安心して生きていきたい。これは、クリスチャンに限らず、すべての人が願い求めていることだと言っても過言(かごん)ではないでしょう。けれども、その安心を、お金に求めるのではなく、健康に求めるのでもなく、家族や友人とのつながりに求めるのでもなく、神さまに願い求めている。それが、主イエス・キリストとその父なる神を信じる私たちの特徴だと言って良いでしょう。そして、そういう信仰による安心があるとヨハネは言うのです。

 けれども、信仰生活あるいは求道生活をしながら、私たちは不安を感じることがあるのではないでしょうか。それは、「心に責められること」(20節)を感じている時です。それは聖書の教え、神さまの御心(みこころ)に適わない何かを自分の生活の中に感じている時です。例えば、隣人を愛することができず、人と衝突し、傷つけているなぁと感じていたり、俗(ぞく)っぽく生きていて祈りが足りない、神さまを求める真剣さが足りないと感じていたり、日曜日には礼拝を守るけれど、普段の生活は全く信仰的ではないとそのギャップを感じるような時です。それは、私たちにとって心の責めとなります。
 そのように「心に責められること」があると、私たちは、“これでいいのだろうか?”と自分に疑問を感じます。その思いは、“私は神さまに愛されているのだろうか?”“良しとされているのだろうか?”“私は神さまに救われているのだろうか?”といった不安につながることがあります。
 自分を省みて、“これでいいのだろうか?”と感じる内省(ないせい)の感覚。私は、その感覚は信仰にとって大切だと思っています。聖書の御(み)言葉の効能の一つは、私たちをハッとさせるところにあります。御言葉によって自分を見つめ直し、自分の問題に気づかせていただく。そこから神さまへの悔い改めと人に対する愛が始まるからです。けれども“これでいいのか?”という思いから自分を責めて、“これでは私は神さまに認めていただけない”と不安を感じる必要はないのです。ヨハネはこう言います。
「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも」(19〜20節)。
 心に責められることがあっても、私たちは安心できる、とヨハネは言います。どうしてでしょう?それは、「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(20節)。神さまは、私たちのすべてをご存じです。私たちの生活を知り、私たちの思いと悩みを知り、私たちの心の責めも知っておられる。その上で、私たちのすべてを丸ごと包んで、赦(ゆる)し、愛してくださっている。受け入れてくださっている。それが神さまという方である。だから安心していい、とヨハネは言うのです。

 神さまは私たちの心よりも大きい。このことから、私はルカによる福音書15章にある〈放蕩息子のたとえ〉を思い起こしました。ある父親に二人の息子がいて、その弟の方が父親に、財産の生前贈与を求めました。父親は黙って財産を渡します。すると弟息子は、もらった財産をすべて金に換えて遠くに旅立ちます。そして、放蕩三昧(ほうとうざんまい)の生活をして楽しく暮らしていました。ところが、湯水のように金を使ったのがたたり、またその地方に飢饉(ききん)も起こって、彼は転落人生を歩みます。ユダヤ人でありながら豚の世話をする羽目になり、豚のえさで空腹を満たしたいと思うほどに落ちぶれます。その時、彼はハッと我に返るのです。自分は天に対しても父親に対しても罪を犯したと心に責めを覚えます。しかし、彼は自分を責めるだけで終わりませんでした。恥を忍んで父親のもとに帰ろう。そして、自分は罪を犯した、もはや息子の資格はありません、雇い人の一人にしてください、と頼んでみよう。そう思って、彼は父親のもとに帰って行きます。
 さて、その後どうなったでしょう?まだ遠く離れていたのに、父親は弟息子を見つけ、そのボロボロの身なりに憐れを覚え、飛び出してきます。そして、“よく帰って来た”とばかりに息子を抱きしめ、接吻(せっぷん)します。息子は言います。“お父さん、自分は罪お犯した。もはや息子と呼ばれる資格は‥‥”。けれども、父親はすべてを言わせず、“息子が帰って来た。さあ、最上の着物を着せ、指輪をはめ、お祝いのパーティーを開こう”と召し使いたちに命じるのです。
 父親は、息子の行いも、心の責めも、悔い改めの思いも、すべてを包んで大きかった。息子に惨(みじ)めな思いをさせず、すべてを包み、赦す“愛”に満ちあふれていた。この父親の姿を通して、主イエスは、父なる神とはこういう方なのだと語りかけているのです。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じ」とは、まさにこういうことでしょう。
 これが私たちだったら、私たちが父親の立場だったらどうしたでしょうか?“お前、どのツラ(面)下げて帰って来たんだ。もう我が家の敷居はまたがせないぞ”と怒るかも知れません。そこまで言わなくても、小言(こごと)の一つ二つぐらいは言うかも知れない。思い知らせてやりたいとネチネチと絡(から)むかも知れない。もし息子の立場だったら、そういう父親の態度を予想し、覚悟して帰ったでしょう。
 それは、極めてありそうな人間関係、人の心の思いです。そして、そのようなきわめて人間的な目で、私たちは神さまのことも見ています。神さまもそういう方だろうと思っているところがあります。だから、心に責められるところがあると、安心できず、不安になるのです。
 けれども、それは神さまを小さくしています。私たち人間の物差しで神さまを計って、小さいと誤解しています。“蟹(かに)は自分の甲羅(こうら)に合わせて穴を掘る”と申しますが、私たちも自分の信仰という甲羅に合わせて、神さまの大きさを勝手に決めているところがありはしないでしょうか。そうではありません。神はわたしたちの心よりも大きいのです。たとえ私たちの心に責められるようなことがあろうとも、すべてをご存じで、私たちをすっぽりと包んで受け入れ、愛してくださるほど大きいのです。

 そういう意味で、神さまは“太っ腹”です。その大きさ、太っ腹さをはっきりと表している出来事があります。それは、父なる神さまが、ご自分の独り子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪を償(つぐな)い、赦すために、十字架の上で、その命を犠牲になさったという出来事です。他人を救うために、自分の息子を犠牲にするなんて、私たちが考えてもできることではありません。それを父なる神さまは、私たちのためにしてくださったのです。
 この出来事の意味が、直前の16節に書かれています。
「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(16節)。
 イエス・キリストの十字架の出来事。これは、“あなたたちを愛しているよ!”と言われる神さまの大きな愛の証拠です。神さまの大きさ、神さまの太っ腹な愛の証明です。

この大きな愛があるから、私たちは、心に責めを感じないで済むのです。心に責めを感じることがあっても、こんな自分でも神さまに赦されている、神さまに愛されていると思い直すことができるのです。21節に、「心に責められることがなければ、わたしたちは神の御前(みまえ)で確信を持つことができ」とありますが、心に責められることがない、というのは、私たち自身に、やましいこととか、問題や、失敗がなく、熱心に、完璧に信仰生活を歩んでいるから、心に責められることがない、と言うのではありません。私たちは、聖書の御言葉に従えないことがあります。人を愛せないことがあります。失敗もします。やましさも感じます。日曜日と平日のギャップも感じます。心に責められるところが色々あります。それが、私たちの生活、信仰生活の現実でしょう。
けれども、それらすべてをご存じで、すべてを包む神さまの愛は大きいから、その大きな愛がイエス・キリストの十字架の出来事によって証明されているから、安心できるのです。こんな自分でも、赦され、受け入れられ、愛されていると信じることができるのです。それが、心に責められることがない、ということです。

私たち一人ひとりは、神さまに愛されている。愛される存在である。これが聖書の語る「真理」(19節)です。そして、神さまに愛されている安心感は、私たちの信仰を「確信」へと変えます。どんな時にも、たとえ心に責められることがあろうとも、私は愛されている。愛されて、ここにある。その確信に立たせます。その確信がある時、私たちが願う祈りは「何でもかなえられます」(22節)とヨハネは語ります。
 “本当にそんなことがあるんだろうか?”と私たちは、疑いの思いを持つでしょう。確かに、私たちの願いが、確信するだけで何でもかなえられるならば、こんなに都合の良いことはありません。しかし、もちろんそんなに“うまい話”ではありません。
 カトリックのシスター・渡辺和子さんは、その著書の中でこんなふうに書いています。
  天の父は、人間が願ったことをそのまま叶えることをもって、ご自分の、その人に対する愛のあかしとはなさらないようなのです。なぜと言って、私たちはいつも“欲しいもの”を願っているからであり、神が私たちに叶えてくださるのは、“必要なもの”だからだと思います。(『愛することは許されること』107頁)
 決して、うまい話ではありません。けれども、必要なものは与えられると神さまを信じて、私たちは1歩踏み出すこと、何か具体的な課題が与えられた時に、信仰によって決断し、1歩踏み出すことが大切ではないでしょうか。何か目に見える保証があるわけではありませんが、1歩踏み出さなければ分からないこともあります。そして、踏み出してみた時に、神さまは願いを叶えてくださることを経験するのではないでしょうか。
 私たちの心、私たちの信仰よりも、はるかに大きな神さまを信じて、安心と確信を抱いて歩んでいきましょう。


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