坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年9月25日 大人と子どもの礼拝説教 「神を利用してはいけない」

聖書 出エジプト記20章7節
説教者 山岡創牧師

20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 隣人に関して偽証してはならない。
20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」


      「神を利用してはいけない」

 今、子どもチャペルの礼拝では、モーセの十戒を聖書で読み、その説教を聞いています。モーセさんは、エジプト脱出の指導者です。今から3千年以上も昔、イスラエルの人々はエジプトの国で奴隷をさせられていました。ピラミッドを作ったり、スフィンクスを作ったり、そのために大きな、重い石を運ばされ、疲れて運べないと、鞭で打たれていました。とても苦しくて、イスラエルの人々は叫びました。“神さま、助けてください!”その叫びを聞いた神さまが、モーセさんを送ってくださったのです。モーセに導かれて海を渡り、エジプトを脱出したイスラエルの人々は、神さまの約束の土地カナンを目指して進みました。その途中で、シナイ山という山に立ち寄ります。その山で、モーセさんが、神さまから受け取った10個の戒め、“‥‥してはならない”という10個の命令が十戒です。でも、10個の戒めの土台となる、大切な恵みがあります。それは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)です。この恵みを元に、十戒は命じられているのです。
 今日は、この十戒の中で、第3の戒めである「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(7節)を一緒に考えてみたいと思います。

 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。この戒めの意味が分かりにくいと思います。「みだりに」というのは、“虚(むな)しく”とか、“間違えて”という意味を持っています。“やたらに”“何でもかんでも”と考えても良いでしょう。「唱える」とは、“口に出して言う”ということです。つまり、この戒めは、やたらに神さまの名前を出すな、何でもかんでも、神さまの名前を出して、自分のために神さまを利用するな、ということです。私たちが、神さまの名前を出して下手なことをすれば、神さまの名誉(栄光)に関わるのです。
 そんなことを考えておりましたら、私はふと、〈水戸黄門〉という時代劇を思い起こしました。子どもたちや青年は知らないかも知れませんね。江戸時代、水戸藩に徳川光圀(みつくに)という副将軍がいました。幕府の将軍の次に偉い人です。この徳川光圀が、助さんと角さんという家来を連れて、日本全国を旅して周るというドラマです。日本全国、行く先々に悪い奴がいます。その悪い奴らに苦しめられている人々を、水戸光圀が助けるのですが、悪い奴らとの対決シーンで、家来の角さんが“静まれ、静まれ!この紋所(もんどころ)が目に入らぬか!”と言って、必ず懐(ふところ)から出すものがあります。それは、徳川家の葵(あおい)の紋どころ、マークが彫られた印籠(いんろう)です。それは、今でいう免許証かパスポートのようなもので、徳川幕府の副将軍・水戸光圀であることを証明する身分証明書です。副将軍だから偉いのです。逆らえば、徳川幕府の力で罰されます。だから、悪い奴らも、これはやばいと地面に座って頭を下げます。そうやって光圀さまは苦しめられ、困っている人を助けます。
 けれども、もし角さんが、その印籠を出して、副将軍・徳川光圀の名前を悪いことに利用したとしたらどうでしょう?例えば、茶店(ちゃみせ)で団子(だんご)を食べて、店員から代金を請求された時、“この紋所が目に入らぬか!”と印籠を出して、天下の副将軍様の家来から、団子の金を取るとは何事ぞ!ただにせい!と脅したとしたら、どうでしょう?角さんのせいで、副将軍・徳川光圀公の名前は評判が悪くなる、みんなから、“あれは権力を利用した悪いやつだ”と思われるようになってしまうでしょう。
 つまり、そういうことが、名前をみだりに唱える、ということです。自分のために、自分が得をするために、名前の力を利用する、ということです。

 現代でも、そんなふうに、自分のために神さまを利用する、利用して悪いことに使うということが起こります。例えば、テロ事件です。今、イスラム国という組織が世界中でテロ事件を起こしています。彼らはイスラム教徒であり、アッラーの神を信じています。アッラーの力を世界に示すために、彼らはテロを起こします。そうすることがアッラーの願いなのだと言って、彼らは、テロを正しい戦いだと正当化します。けれども、そのためにイスラム教は誤解され、悪い宗教だと世界中で思われてしまいます。そんなことをするイスラム教徒はごく一部ですから、そんなことはしない多くのイスラム教徒は困っています。でも、テロ事件はキリスト教徒だって起こします。どんな宗教だって、自分の目的を達するために、神さまの名前を利用したら、それは「主の名をみだりに唱える」ことになるのです。
 そのように、私たちは、一つ間違えば、自分のために神さまの名前を使って利用するようなことをしてしまいます。自分が得をするために、自分は正しいと正当化するために、神さまを利用します。聖書の御(み)言葉を出して、相手を裁くことがあるかも知れません。礼拝や集会を出汁(だし)にして、仕事や部活、勉強等、自分のすべきことをさぼるかも知れません。それはしてはいけないよ、と神さまは私たちを戒めているのです。

 どうせ神さまの名前を唱えるのなら、私たちは、神さまに喜ばれるように唱えるようにしたいと思うのです。とは言っても、まだ神さまの名前を唱えるということが、自分のこととしてピンッと来ないという人も少なくないでしょう。ところが、私たちのほとんどが、毎日のように、神さまの名前を唱えています。何だと思いますか?‥‥それは、祈りです。祈る時、私たちは祈りの最後に、“このお祈りを、主イエス・キリストの御名(みな)によって祈ります。アーメン”と結びます。つまり、私たちクリスチャンは、“主イエス・キリスト”という神さまの名前を、祈りにおいて、毎日のように唱えているのです。
 どうして私たちは、主イエス・キリストの名前を唱えて祈るのでしょう?それは、イエス様ご自身が、弟子たちに、そのように祈りなさいと言われたからです。ヨハネによる福音書を開くと、繰り返しそのことが言われています。例えば、ヨハネ16章23〜24節では、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われています。私たちが生活する社会でも、だれかの名前がとても大きな力を持つことがあります。その人の名前を出しただけで、相手の言葉や態度が変わることがあります。天の父なる神さまにお祈りする時、主イエス・キリストの名前を出すことによって、父なる神さまが聞き入れてくださるのです。
 その場合、キリストの名前をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか?何度も、何度も祈ることでしょうか?そうではありません。私たちは何度祈っても良いと思います。苦しい時、辛い時、悩みを抱えている時、悔い改めたい時、また嬉しいことや感謝がある時、何度祈っても祈り過ぎということはありません。「みだりに」とは回数、頻度(ひんど)の問題ではありません。神さまに対して、どのような姿勢で祈るか、ということです。
 ヨハネによる福音書15章で、主イエスは、ぶどうの木とその実のたとえ話をしながら、7節以下で弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」。
 主イエスは、ご自分につながりながら祈りなさい、と言われます。つながっているということは、イエス様の言葉が自分の内にあるということです。その言葉を通して、イエス様が何を喜ばれるか、その思いを知っているということです。
 そこで、「わたしの言葉」、主イエスの言葉ということで、真っ先に思い起こすのは、ヨハネによる福音書13章34節、あるいは15章12節の言葉です。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
愛をもって祈る。それが、主イエスの喜ばれる祈りでしょう。主イエス・キリストに愛されていることを感謝して、神さまへの愛をもって祈る。隣人を愛する愛をもって祈る。互いに愛し合う愛をもって祈る。それが、主イエス・キリストのお名前を唱える祈りの姿勢です。

 このように考えると、モーセの十戒でいちばん大切なことは、愛なのだ、愛を土台とし、愛に集約される戒めだと言ってよいでしょう。私たちも、愛の心をもって祈り、互いに愛し合うことで、ともに歩んでいきましょう。


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