坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年10月9日 礼拝説教 「神は愛だからです」

聖書 ヨハネの手紙(一)4章7〜12節
説教者 山岡創牧師

4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。


      「神は愛だからです」

 皆さんの方から見て、礼拝堂正面の右側の壁をご覧ください。そこには、今年の4月から、坂戸いずみ教会の願いが掲げられています。〈キリストの愛とともに歩もう〉。この願いの基になった聖書の言葉が、そこに書かれているように、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というヨハネによる福音書13章34節の御(み)言葉です。これは、主イエス・キリストが、弟子たちと共にした最後の晩餐(ばんさん)の席で、遺言のように弟子たちに遺(つかわ)された言葉です。イエス・キリストが父と呼ぶ神を信じる者に、新たに与えられた、唯一の掟です。
そして、今日読んだヨハネの手紙(一)の箇所は、このイエス・キリストの言葉と深く結び付いています。「互いに愛し合いましょう」(7節)とヨハネは呼びかけます。12節までの短い文章の中に、互いに愛し合う、という言葉が3回も出て来ます。その中の11節の言葉、
「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)
は、ヨハネによる福音書13章のイエス・キリストの言葉を、まさに言い直したものです。神に愛されたのだから、神の御子(みこ)イエス・キリストに愛されたように、私たちは互いに愛し合う。それが、キリスト教を信じる者の信仰と生活のすべてだと言ってもよいのです。私たちの信仰と生活は、この聖書の言葉に集約されています。

 「互いに愛し合いましょう」。ヨハネは、教会の信徒たちに、そして今日の私たちに呼びかけます。改めて考えてみたいのは、互いに愛し合う“愛”とは、どんな愛か?ということです。これは、私たちが元々持っている愛ではありません。確かに私たちは、本能的な愛を持っていたり、“良い人”であろうとして、自分の徳としての人を愛することもできます。キリスト教信仰を持っていなければ、人を愛し、互いに愛し合うことができないというわけではありません。
 けれども、ヨハネが、「互いに愛し合いましょう」と勧(すす)める時、その愛の源泉となるのは、神がわたしたちを愛してくださった、という恵みです。この恵みを知らずに、私たちが、「互いに愛し合いましょう」という御言葉に従うことは不可能です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(10節)
 ヨハネが語りかけているように、何よりもまず“神が”わたしたちを愛してくださったという恵みを信じることから、私たちの愛は始まります。
 この愛を、だれよりも強く感じたのは、主イエスの弟子たちでした。彼らが“良い弟子”であったから、主イエスは彼らを愛されたのではありません。彼らは、だれが一番弟子になるか、イエス様が王様になった時、だれが一番出世するか。そんなことばかりを考えて、お互いの腹を探り合い、足を引っ張り合っていたような節(ふし)があります。そんな弟子たちを、主イエスは忍耐強く教え、導き、愛し抜かれたのです。ご自分の命を捨ててまで、愛し抜かれたのです。
 弟子たちは最初、その愛に気づきませんでした。主の気持、その御心(みこころ)など思わず、いつの間にか、自分の願望を優先させていました。
 けれども、そういう生き方が打ち砕かれる時が来ました。主イエスの十字架刑です。主が捕らえられ、十字架に架けられた時、ユダは裏切り、敵の手引をしました。弟子たちは散り散りに逃げました。後で様子を見に行ったペトロは、周りの人たちから問い詰められて、主イエスを知らない、関係ない、と3度も言ってしまいました。たとえ死ぬことになっても最後までついて行く、と弟子たちは皆、最後の晩餐の席で口々に言ったのです。その舌の根も乾かないうちに、彼らは主イエスを捨てました。
 ペトロはその後、激しく泣いたといいます。それは、自分勝手な行動をし、見栄を張り、その実、我が身かわいさから主を捨てることしかできなかった自分の不甲斐(ふがい)なさをと痛感した者の号泣(ごうきゅう)だったのでしょう。言い換えれば、“自分には愛がない”ということを知った人間の流す涙です。他の弟子たちも皆、同じように泣いたに違いありません。
 “自分には愛がない”。私たちもまた、人生のどこかで、理屈抜きに“愛のない自分”を思い知らされることがあります。自分が損をしないように、痛まないようにと考え、自分を弁護し、正当化し、相手のことを思いやらない行動をとっている、そんな愛のない自分を思い知らされることがあります。それは、聖書的に言えば、自分が“罪人”であることを知る、ということです。
 マザー・テレサは、“最大の罪は、愛と憐れみを持たないことです”と語りました。それは、普段、私たちは自分に鈍く、自分の姿に気づきません。しかし何かの折に、自分は愛のない罪人であることを知ります。けれども、そういう自分に気づいて初めて、私たちは神の愛を知るのです。神の豊かな愛を受け入れる謙遜な器(うつわ)が、私たちの内に生み出されるのです。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」という恵みを受け入れる信仰の器が生まれるのです。

 愛のない罪人の弟子たちを、そして私たちを、神さまは最初から愛してくださっていました。その愛を、神さまは、独り子イエス・キリストを通してお示しになったのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(9〜10節)。
イエスという方がこの世におられた。神の国を宣べ伝えた。十字架に架けられ、処刑された。これらの出来事は事実です。そして、この出来事の中に何を発見するかで、私たちの生き方が変わってきます。主イエスに関わった弟子たちをはじめとする人々は、そこに神の愛を見たのです。特に、主イエスの十字架刑に、命を捨ててまで、自分たちをかばい、罪を免れさせようとする主の愛を見たのです。そして、主イエスを神の独り子と信じ、神がご自分の独り子を“人間”にして、この世にお遣わしくださったその思いの中に、愛を見たのです。
この愛を、弟子たちは、十字架刑の後に復活したイエス・キリストとの出会いと、その語りかけによって知るに至りました。そして、この愛を信じる熱い思いから、やがて、主イエスの十字架刑は、ただの処刑ではなく、全世界の人間の「罪を償ういけにえ」であると信じる信仰が生まれたのです。
このように、神は御子イエス・キリストを通して、ご自分の愛をお示しになりました。その神の愛が、あなたにも注がれているのだと、聖書は私たちに伝えるのです。愛のない者を愛する神の愛が、罪人を赦す神の愛が、あなたがたにも注がれている。あなたがたの心にあふれるようになる。さあ、私たちと共に、主イエス・キリストを通して示された神の愛を信じよう、とヨハネは呼びかけるのです。そして、この神の愛を受け入れ、感動し、感謝し、この神の愛が私たちの心の器からあふれ出すとき、私たちは互いに愛し合うことができるようになるのです。だから、ヨハネは語りかけます。
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。

 神に愛された者は、神の愛が心の器からあふれ出し、互いに愛し合うようになります。そして、「互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(12節)とヨハネは言うのです。「いまだかつて神を見た者はいません」(12節)。神は、私たちの目には見えないのです。けれども、愛があるところに神はおられる。互いに愛し合う私たちの内に、神はおられる、と私たちは信じるのです。
 その最たる場所が教会である。互いに愛し合い、目に見えない神がおられる場所は、教会である、教会というイエス・キリストを信じる交わりである、と私たちは信じます。
 『こころの友』9月号に、神奈川県の橋本教会の会員である和泉貴士さんというクリスチャンの証しがありました。日本では1998年以来、自殺者が3万人を超えているとのことですが、和泉さんも、2006年に母親を自殺で亡くされたそうです。祖母を看取(みと)った後、母親は睡眠薬とアルコールに頼るようになり、自ら命を絶った。和泉さんが30歳の時でした。司法試験のために勉強や家事に追われ、“心にふたをしている状態でした”と和泉さんは振り返っています。
 その後、弁護士となった和泉さんは、自死遺族の分かち合いの会に参加するようになった経験から、人とつながり、悲しみを語り合えるようになることの大切さを思い、自死遺族支援弁護団を立ち上げました。大変な状況の中、助けを求めに来た遺族と対話し、寄り添うことの大切さを思ったからだそうです。
 そんな和泉さんは、2013年のクリスマスに洗礼を受けました。大きな家族のような教会の中で、人が人とつながる大切さを体験しながら、“母にもこのような居場所があったら”と和泉さんは強く感じている、とのことです。
 人が人と愛によってつながること、それが人間関係の基本でしょう。そして、教会は私たちにとって“互いに愛し合う居場所”にほかなりません。悲しみに打ち沈む時も、苦しみに悩む時も、大きな失敗をした時も、人間関係につまずいた時も、辛い病を抱えている時も、死の不安を感じる時も、どんな時にも、私たちには、“神に愛されている”と感じられる場所があるのです。神に愛されていることを信じる者が、互いに愛し合うことを通して、神の愛を感じることのできる場所が教会です。神の愛が全うされる場所です。
 いつでも理想的な交わりを保てるわけではありません。クリスチャンである私たち自身が、愛に傷つくことがあります。対立し、争い合うこともあります。けれども、自分が神さまに愛されていること、と同時に、対立する相手も神さまに愛されていることを思う時、自分を正当化し、人を責める自分に気づかされ、悔い改めが生まれます。赦(ゆる)しと和解が生まれます。そのような教会の人間関係、互いに愛し合う人と人の内に、神はとどまってくださり、神の愛が全うされるのです。
命がけの愛で愛されている私たちです。この恵みを信じて、互いに愛し合う愛を追い求めていきましょう。


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