坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2016年11月6日 永眠者記念礼拝説教 「涙がぬぐわれる国」

聖書 ヨハネの黙示録7章9〜17節
説教者 山岡創牧師

7:9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、
7:10 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」
7:11 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、
7:12 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」


    「涙がぬぐわれる国」

11月第一日曜日は、教会の暦の上で〈聖徒の日〉と定められています。聖徒(せいと)とは、イエス・キリストによって清められ、天国に召された信徒のことを言います。今日読んだ聖書の言葉を借りて言うならば、「その衣を小羊の血で洗って白くした」(14節)人のことです。イエス・キリストがご自分の命を犠牲としたことによって罪を清められ、天国に入れられた者です。そのような聖徒を心に留め、記念する日として〈聖徒の日〉が定められました。
 元々、聖徒の日は11月1日だったようです。カトリック教会では1日に死者のためのミサを守るようです。余談ですが、その前日はハロウィンと呼ばれる日です。日本でもハロウィンが多くの人に知られるようになり、子どもたちにお菓子を配る行事が行われたり、東京のどこかに仮装した若者たちが集まったりしています。ところで、聖徒の日は英語でオール・セインツ・デイ(All Saints’ Day)と言いますが、別の言い方でハロウマス(Hallowmas)とも言われるそうです。ハロウィンと何か関係がありそうです。
中世ヨーロッパでは、ハロウィンには、煉獄(カトリックでは天国に入る前に煉獄という場所がある)にいる霊魂が一時的に解放され、地上に戻るという迷信があったそうです。日本で言うお盆に似ています。それら一時的に舞い戻る霊魂を慰めるために、レクイエムと呼ばれる死者のためのミサが、11月1日にカトリック教会で行われるようになったのかも知れません。
 宗教改革によってカトリック教会から別れたプロテスタント教会は、11月第1日曜日を聖徒の日と定め、記念礼拝を行うようになりました。坂戸いずみ教会でも毎年、この日に〈永眠者記念礼拝〉を行います。日本で言う“供養”とは、ちょっと違います。キリスト教信仰では、亡くなった人はすべて、神さまの手の中に抱かれて、安らかであると信じるので、亡くなった人の冥福(めいふく)のために私たちが何かしなければならない、という考え方はありません。この礼拝において、私たちは、天に召された人たちを思い起こし、記念すると共に、私たち自身も、天国を見上げて、慰めと希望を与えられるのです。

 そのような永眠者記念礼拝において、本日は、ヨハネの黙示録(もくしろく)7章の御(み)言葉を聞きました。紀元1世紀の終わり頃、ローマ帝国によってキリスト教は迫害されていました。現代のトルコの地域にあった7つの教会も迫害され、その指導者であった長老ヨハネも捕らえられ、地中海のパトモスという島にある牢獄に幽閉されていました。そのヨハネが、ある日の日曜日、牢獄で祈りをささげていた時でしょうか、幻の中で彼は天にある神の国に連れて行かれ、そこでこれから起こる神の計画を見せられます。そこでヨハネが見聞きしたことを書き記したのがヨハネの黙示録です。
 その幻の中で、ヨハネは、「開かれた門が天にある」(4章1節)のを見ます。そして、「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」(同1節)という声を聞きます。ヨハネが上って行くと、天には玉座があり、そこに、神さまが座っておられました。その玉座の周りには、24の座があって、そこには長老たちが座っており、玉座の神さまを礼拝していました。また、玉座の前には、4つの不思議な生き物がおり、やはり神さまを賛美していました。そして、天使たちが、玉座の神と長老と4つの生き物を囲むように立っていました(黙示録4章)。
 玉座の神は、その手に巻物を持っていました。巻物の中には、これから起こる神の計画が記されていました。その封印(ふういん)を解く者として、小羊と呼ばれるイエス・キリストが選ばれ、神さまの前に立っていました。キリストが、その巻物の封印を解いて、これから起こる神の計画をヨハネに見せてくださり、ヨハネはその光景を黙示録に記しました。

 今日読んだ聖書箇所には、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声で」(9節)叫んでいた、賛美していたと記されています。
 私はふと、テレビの報道番組で映される屋外ライブのシーンを連想しました。屋外ステージがあり、そこで彼らが歌い、パフォーマンスを行っている。そのステージの前には、何万人というファンが集まり、手を振り、飛びはね、一緒に歌っている。今日の聖書の場面をイメージするとしたら、そんな感じかな?と想像してみました。
 私は、ライブには一度も行ったことがないのですが、先日、乃木坂46のライブに行って来た我が家の子どもたちに聞くと、とても楽しかったと興奮しながら話してくれました。天国という場所は言わば、それ以上に、喜びと楽しみにあふれた“ライブ会場”、万どころではない、数え切れないほどの大群衆の賛美にあふれたライブ会場のようなものなのでしょう。
 人によっては、天国はもっと静かで、落ち着いた場所の方がいいなぁ、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。もちろん賛美にあふれたライブ会場というのは、天国の一面です。しかし、喜びにあふれるのは無理もありません。そこで歌う大群衆は、「大きな苦難を通って来た者」(14節)だからです。
先ほどもお話しましたが、当時は、ローマ帝国による迫害の時代でした。地中海周辺の広大な地域を支配するローマ帝国が、そこで暮らしているあらゆる種族、民族、言葉の違う民に、ローマ皇帝を神として礼拝するように強制したのです。イエス・キリストこそ我らの神とする教会とクリスチャンは、皇帝礼拝を受け入れず、抵抗しました。そのため迫害されました。集会は禁止され、クリスチャンは捕らえられ、投獄されました。処刑される者も出て来ました。それでも、逮捕を逃れたクリスチャンたちはキリスト礼拝を守り続けました。カタコンベと呼ばれる地下にある墓地で、夜中に、見つからないように礼拝を守ったのです。それこそ大声で賛美を歌うことなどできませんでした。小さな声で、しかしその声に心を込めて、命を懸けて、礼拝を守ったのです。
 そのような苦難を通って迎えられるところが、神の愛があふれる天の国でした。神さまに愛されていることを、神さまから与えられる新しい命に生かされていることをはっきりと味わうことのできる国でした。苦難の中で、今までどれだけ涙を流したか分からない。その涙がぬぐわれる国でした。だれを憚(はばか)る必要もない。感謝と喜びと賛美にあふれるのは当然のことです。
 長老ヨハネは、そのような天国のビジョンを、迫害という苦難の中にある教会の信徒たちに語りかけ、彼らを励ましたのです。

 この天国の信仰と希望を、教会は受け継いで来ました。その恵みは、今日の私たちにも語りかけられています。日本にもかつて、キリスト教迫害の時代がありました。太平洋戦争の時です。その迫害を身を持って体験された方が今も、少なからず生きておられます。現代は、そのような迫害という苦難の時代ではありません。けれども、迫害に限らず、様々な苦難が私たちの人生にはあります。そして、様々な苦難の中で、私たちが等しく味わう苦しみ悩みは、“死”という苦しみです。
 死を予感する時、私たちは、未知の体験への恐れと不安を感じ、絶望することがあります。また、死によってもたらされる愛する人との別れに、悲しみと寂しさを感じます。“こんなはずではなかった”“どうしてこんなことが?”と、自分の死にも、愛する人、親しい人の死にも納得がいかず、受け入れられないこともあります。死は、私たちの人生に立ちはだかる、高い“苦難の壁”です。その苦しみ悲しみの壁の前で、私たちは、いったいどれほどの涙を流すでしょうか。もはや涙は涸(か)れ尽くしたと思うほどに、泣いた人もおられるのではないでしょうか。
 この壁の前で途方に暮れ、うずくまり、涙を流す私たちに、聖書は、壁の向こう側にある世界を示してくれます。天国という、新しい命の世界を示してくださいます。神さまの前に、神さまの手の中で、私たちが新しい命に生かされる国、そしてそこで、愛する者と再会を遂げることのできる国です。その国は、賛美と感謝、喜びと楽しみにあふれています。この天国の福音(ふくいん)を信じて受け入れる人は、信仰による希望と慰めを抱くことができるようになります。もちろん、死の不安と悲しみが全くなくなるわけではありません。けれども、不安と悲しみの中にも、絶望することなく希望によって支えられ、慰められて生きていくことができるようになります。

 この天国に入ることができるのは、だれでしょうか?今日の聖書箇所に描かれているのは、「その衣を小羊の血で洗って白くした」人たちです。小羊とは、犠牲のシンボルで、イエス・キリストを指しています。イエス・キリストが、十字架にかかり、ご自分の命を犠牲にして、“この私”の罪を身代わりとなって償い、清めてくださったこと。神と人の間にある罪の壁を取り払い、断絶していた神さまとの交わりを回復してくださったこと。それを信じるのが白い衣を身に着けた人です。いわゆるクリスチャンと呼ばれる人を指しています。では、そうでない人は、天国に入ることはできないのでしょうか?
 以前に、“自分はイエス・キリストを信じているからいいけれど、信じていない自分の家族や友人たちは天国に入ることができないのでしょうか?”と聞かれたことがありました。この中にも、同じ疑問を持っている方がいるかも知れません。
 今、通常の礼拝では、ヨハネの手紙(一)から神の言葉を聞いています。その2章2節に、「この方(イエス・キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」と書かれています。イエス・キリストは、クリスチャンの罪だけでなく、全世界の人々の罪を清め、新しい命と天の御国(みくに)を与えるために、十字架にお架かりになったのです。だから、信じると信じないとに関わらず、既にすべての人の罪が清められ、天国に入れる資格が与えられているのです。クリスチャンとは、この恵みに気づいて、信じた人のことです。他の宗教を信じている人は、別の考えを持っておられるでしょうが、キリスト教ではそのように考え、信じています。もちろん、絶対的に主張するわけでも、強制するわけでもありません。
 だから、私は、生きている間にイエス・キリストを信じていなかった人も、天国に入れる資格とチャンスを持っていると信じています。ペトロの手紙(二)3章9節にもあるように、神さまは、「一人も滅びないで皆が悔い改め」、イエス・キリストによる救いを信じて天国に入れるように、忍耐強く待っておられます。キリスト教信仰には、死んだ後で、終わりの日、キリストによる最後の裁きを信じる信仰がありますが、最後の最後に、裁きの場で、イエス・キリストに“信じます”と告白するチャンスは残されています。そして、最後には皆が、愛と喜びにあふれる天国に入れていただけると、私は信じているのです。

 私たちも、白い衣を身に着けた大群衆の幻を、信仰によって見えるようにしましょう。その中に、自分も、自分の愛する者も加えられる希望を抱いて、歩んでいきましょう。


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