坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年1月8日 礼拝説教「神の証し」

聖書 ヨハネの手紙(一)5章6〜12節
説教者 山岡 創牧師

5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。
5:7 証しするのは三者で、
5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。


       「神の証し」

 昨年のクリスマスでの愛餐会(あいさんかい)で、私たちは、感謝と喜びの楽しい時間を過ごしました。ちょうど今日、その時の写真がロビーに掲示されています。特に、愛餐会において「人の証し」(9節)が数多くなされました。Iさんの転入会の証しに始まり、クリスマス礼拝で洗礼をお受けになったOさんとUさんが、なぜ洗礼を受けようと志したのかという動機や理由、また今後の信仰生活の抱負(ほうふ)を証しされました。その感謝と喜びを、私たちは共に分かち合いました。証しの中で、Uさんがしきりに、自分が受洗に至った不思議さを話しておられましたが、それを伺いながら、私は、それこそが「“霊”」のお導き、聖霊(せいれい)の働きだと感じていました。コリントの信徒への手紙(一)12章3節で、パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と語っていますが、聖霊によらなければ、だれもイエス・キリストによる救いの恵みを信じて、“イエスは私の救い主”とは告白しないでしょうし、まして洗礼を受けるというようなマネはしないでしょう。その意味でお二人は、この受洗の出来事が聖霊のお導きによって起こったのだと証しをされたのだと言うことができます。

 証しとは、何かを証言すること、あるいは証明することです。そして、信仰による証しの本質は、神の恵み、神の救いを証言し、実際に生活することでその恵みを証明することだと言えます。それは、今日の聖書の言葉で言えば、「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子(みこ)の内にあるということ」(11節)を証言し、証明することだと言い換えることができます。
 そう言われると、自分は「永遠の命」を与えられたなんて、よく分からなくて証しできないよ、と思われるかも知れません。でも、そんなことないんですよ。何も難しいことではありません。教会に来て、神さまを礼拝し、聖書の御(み)言葉を聞いて、自分でも聖書を読んで、とても大切なことを教えられた。そう思ったら、あなたの命はもう既に「永遠の命」です。イエス様ならどうするか、イエス様なら何と言うか、それを考え、少しでもイエス様のように人を愛せるように心がけた。そうしたら、あなたの命はもう既に「永遠の命」です。神さまとつながった命、「御子と結ばれている」(12節)命、イエス様が宿る命です。
 永遠の命とは、この世で永久に生きることではありません。今までの命とは違う命ということです。どう違うのか?神さまとつながっているということです。イエス様というパイプ・ラインで、神さまとつながった命です。そうなると、命の使い方、つまり生き方が変わって来る。神さまを信じ、神の言葉に聞き従い、神さまの愛を受け入れて、自分もイエス様のように人を愛して生きるようになっていく。そのような一日一日の積み重ね、一歩一歩の歩みが、やがて“永遠の国”“愛の国”、天国へとつながっていくのです。
 そう考えたら、証しするって、そんなに難しいことではないでしょう。“私、聖書の言葉を聞いて、こんなふうに思っているよ、これが大切だと思っているよ、感謝しているよ”“私、イエス様を信じて、こんなふうに生きてみようと思っているよ”。そう言えたら、それは神の恵みの証しです。永遠の命の証しです。“教会に来てよかった”“イエス様を信じてよかった”。そう言えたら、それは立派な証しです。いや、教会に来ている、聖書のお話を聞いている、それだけで、もう既に証しだと言ってもよいでしょう。
 そのように神の恵みを証しする上で、はっきりとした、究極の形が、洗礼を受けるということなのでしょう。洗礼を受けるとは、周りの人に対しては、自分は神さまによって救われた、イエス様の恵みをいただいたことを証しするしるしとなるのです。
 今日の聖書の中に、「水」という言葉が出て来ました。神の恵みを証しする三つの内の一つは「水」だとありました。この「水」は、洗礼を表わす象徴です。クリスマス礼拝での洗礼式でも、水を使うことで、罪を洗い清める意味を象徴的に表しました。「水」に象徴される洗礼は、神の救いの恵みを証しする「人の証し」の一つです。

 私たちの主であるイエス・キリストも、洗礼をお受けになりました。そのことが、マタイによる福音書3章13節以下をはじめ、三つの福音書(ふくいんしょ)に記されています。主イエスは、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。その時、聖霊が鳩のように主イエスの上に降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という声が天から聞こえたと記されています。これは、洗礼の出来事を通し、聖霊によって、父なる神さまが、イエスはご自分の愛する独り子であることを証しした、ということです。今日の聖書の言葉を借りて言えば、イエスは永遠の命を内に持ち、その命を私たち信じる者に与える神の子だと、神さまご自身が証ししたということです。これが、「神の証し」(9節)です。
 そして、神の証しはそれだけではありません。父なる神は、独り子イエス・キリストを、十字架にお架けになりました。それが、神の御心(みこころ)、神の救いのご計画でした。それは、イエス・キリストの命を、私たちの罪を贖(あがな)うための犠牲とすることで、私たちの罪を赦(ゆる)し、私たちをご自分の「愛する子」にするためです。今日の御言葉で言えば、永遠の命を得る者とするためです。イエス・キリストの十字架刑は、イエスに敵対する祭司長、長老、律法学者たちの陰謀ですが、それは裏返せば、父なる神さま御自身による深いご計画、私たちを救うご計画だったのです。
 そして、この十字架の出来事こそ、最大の「神の証し」です。神さまは、ご自分の独り子イエス・キリストの命を犠牲にされてでも、私たちの救いを実現してくださったのです。そこに、神の深く、豊かな愛が表わされています。だから、十字架は、「神の証し」です。私たちは、十字架の出来事を考えれば、神さまがわたしたちを愛してくださっていることが分かります。私たちに「永遠の命」を与えてくださっていることが分かります。私たちに分からせてくださる。それが、神の証しです。
 もちろん、ただ十字架の出来事を見るだけでは、それは「神の証し」とは思えません。単に、イエスが処刑された出来事としか思えません。十字架が、私たちの罪を赦し、救う出来事だと信じられるのは、それが神の愛を証明する「神の証し」だと思えるのは、私たちが、聖書の御言葉に耳を傾けるからです。イエス・キリストの十字架刑は、私たちの罪の赦しである、神の愛である、という神の言葉を聞き続けるからです。そして、聖書の言葉を通して、私たちの内に聖霊が働くからです。イエスは主であると告白できるのは、聖霊の働きによるとお話しましたが、言い換えれば、イエスの十字架の出来事が、私たちの罪を贖う恵みであり、神の愛の証明であると信じられるのは、聖霊が私たちの内に働いて、そのように信じさせてくれるようになるからです。信じるという思いは、実に不思議な出来事なのです。それはまさに、神の働き、聖霊の働きというほかありません。
 今日の聖書箇所で、このイエス・キリストの十字架の恵みを象徴的に表わしているのが「血」という言葉です。「血」は、イエス・キリストが十字架の上で流された血を表わしています。イエスの血によって私たちの罪が清められ、新しい命、永遠の命が与えられる恵みを象徴しています。
 同時に、「血」は、教会で行われる聖餐式(せいさんしき)をも象徴しています。イエス・キリストが十字架の上で、その血を流し、命を捨てられたことにより、私たちに罪の赦しと永遠の命が与えられた恵みを表わすのが聖餐です。私たちは、聖餐を前に、自分が洗礼を受け、信仰の誓いを立て、神さまと救いの契約を結んだことを確認します。そして、聖餐をいただくことによって、イエス・キリストの命と血によって神さまに愛され、永遠の命をいただいていることを毎回確認させていただくのです。パンはただのパン、杯はただの杯です。これもまた、聖霊の内なる働きにより、キリストの命、キリストの血と信じさせていただくのです。

 「“霊”と水と血」(8節)によって証しされる神の救いの恵み。この恵みを信じて生きるなら、私たちの命は今までとは違う命、違う生き方、「永遠の命」となります。
 話は変わりますが、カトリックのシスター・渡辺和子さんが、12月30日にすい臓がんのため、89歳で天に召されました。岡山にあるノートルダム清心女子大学の学長、理事長を務められ、『置かれた場所で咲きなさい』『面倒だから、しよう』等、数多くの著書を残されました。地上での永遠の命を全うして、永遠の国・天国に召された方だと言うことができます。
 私も、渡辺和子さんの著書から大きな影響を受け、色々なことを教えられました。特に印象に残っていることを思い浮かべると、それは『愛を込めて生きる』という著書に記されていたエピソードです。
 渡辺和子さんが、アメリカの修道院で駆け出しのシスターとして修道していた時の話です。夕方、渡辺和子さんが食堂で、同僚のシスターたちのために、夕食のお皿を並べていた時、一人の先輩シスターが入って来ました。そして、“和子、あなたは何を考えながら並べていますか?”と問われました。無意識に並べていた渡辺さんは、“別に何も”と答えました。すると、その先輩シスターは“あなたは時間を無駄にしている”と言われました。一心不乱に皿を並べている自分に、この人は何を言うのかと不思議に思う渡辺さんに、そのシスターはこう言いました。
 同じようにお皿を並べるなら、その席に座るであろう人のことを思い、愛を込めて
並べてごらんなさい。
 その言葉に渡辺和子さんはハッとし、ロボットでもできるような作業を、人間がロボットのように何も考えずにするのは間違っている。相手のために、その時間に愛を込めることに大きな意味があることを学んだと書かれていました。
 それ以来、渡辺和子さんはきっと、折々にその時の言葉を思い起こし、相手のために、時間に愛を込める生き方を心がけながら生きられたことでしょう。その生き方、その命の在り方は、まさに「永遠の命」の一つの姿だと思います。
 私たちも、自分が置かれた場所で、父なる神とイエス・キリストを信じ、命に信仰と愛を込めて、自分らしい永遠の命を生きていきましょう。



記事一覧   https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P
 http://sakadoizumi.holy.jp/