坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年1月29日 大人と子どもの礼拝説教「神の御心が行われますように」

聖書 マタイによる福音書6章9〜13節
説教者 山岡 創牧師

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』


    「神の御心が行われますように」
1月の初めから、子どもチャペルでは、〈主の祈り〉についてお話しています。本日の大人と子どもの礼拝では、そのシリーズに従って、“みこころが天で行われるように、地上でも行われますように”という祈りを取り上げて、お話します。

 ところで、使徒信条(しとしんじょう)もそうですが、主の祈りもまた、礼拝において必ず唱える祈りです。木曜日の聖書と祈りの会でも、必ず祈ります。あるいは、その他の集会でも、会の終わりに祈ったりします。一緒に祈る機会が多いのです。
だから、教会にしばらく来続けていると、主の祈りを覚えるようになります。週報や讃美歌を見なくても祈れるようになります。覚えて祈れるようになることは良いことです。けれども、ともすれば、そこに弊害(へいがい)が生まれることがあります。一つは、主の祈りを唱えるスピードがだんだん早くなってくる、ということ。そしてもう一つは、意識していなくても祈れるようになっている、ということです。
そう言っては憚(はばかり)がありますが、私は、他の教会や地区教区の礼拝で主の祈りを祈る時、“早いなぁ”と感じることが少なからずあります。途中で祈るのをやめようか、と思ったこともあります。それは、かつて私たちの教会でもそうだったと思います。“これでいいのだろうか?”と感じました。だから、主の祈りや使徒信条を意識してゆっくり唱えるように、と指導するようになりました。一文一文の間に、一呼吸置きましょう、と注意するようになりました。
 唱えるのが早いとどうなるのか。主の祈りや使徒信条は、礼拝や集まりでは、皆で一緒に祈ります。すると、祈りが早いとそのスピードについて来られなくなる人が出て来ます。何か置いてきぼりにされているようで、悲しくなりはしないでしょうか。だから、私たちは、いちばん遅い人を意識して、その人に合わせて祈る必要があります。それが、“共に祈る”ということでしょう。最近、ちょっと早くなりかけているなぁ、と感じる時があります。皆さん、意識して、ゆっくり祈るようにしましょう。
 もう一つ注意しなければならないのは、そらんじて祈れるようになると、無意識でも言葉だけは口から出て来るようになってしまう、ということです。例えば、主の祈りを祈りながら、他のことを考えていても、“今日のお昼ご飯は何にしよう?”とか“礼拝が終わったら何をして遊ぼう?”などと考えていても、口では主の祈りをすらすらと祈れるのです。それではなりません。一つ一つの祈りの言葉の意味を意識しながら祈る。そのために一文一文の間に、一呼吸を入れる。とは言え、やはり短い一瞬ですから、なかなか味わうところまではいきません。
 だから、私は、主の祈りを祈る時、その一文一文のポイントを意識して祈るように心がけています。例えば、み名があがめられますように、だったら“自分を小さく”、み国が来ますように、なら“愛と平和”、そして、みこころが天で行われるように、地上でも行われますように、と唱える時は“私から”と意識して祈るのです。

 みこころが天で行われるように、地上でも行われますように。天の父なる神さまの
御心が、神さまの願いが、神さまのご計画が、私たちが生きる地上でも行われますように、と祈りなさいと、主イエスは教えてくださいました。
 みこころを地上に行うのはだれでしょうか?それは、もちろん神さまです。神さまが、私たちの地上に御心を実現してくださる。そう信じて、私たちは祈り求めます。
 けれども、みこころの実現を、私たちは何もせずに、神さまに“丸投げ”でよいのでしょうか?そうではないと思います。みこころが地上で行われ、実現するために、私たちも協力する必要があるのではないでしょうか。しかも、私たちのだれかが、ではなくて、“この私が”と意識することが大切です。お父さんやお母さんが、ではなく、兄弟が、でもなく、友だちが、でもなく、教会の大人が、でもなく、“この私を、みこころが地上で行われるように用いてください”と自分を献げる思いが大切です。
 神さまと私たち一人ひとりが、地上での御心の実現のために協力する。それは言わば、オーケストラのようなものです。指揮者は、父なる神さまです。その式に従う演奏者が私たち一人ひとりです。さしずめコンサート・マスターはイエス様でしょう。私たちが、それぞれの楽器を担当して、“みこころ”という曲を演奏する。この地上に奏(かな)でる。そんなふうにたとえることができるでしょう。

ところで、神さまのみこころ、願い、ご計画とは何でしょうか?それはズバリ“平和”だと言ってよいでしょう。天の父なる神さまが、独り子イエス様をこの世に遣(つか)わして、イエス様がお生まれになった時、天使たちは羊飼いたちの頭上で賛美しました。
「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14)
 また、イエス様が復活して現れ、もう一度、お弟子さんたちを遣わす時、こう言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ福音書20章21節)。
 だから、私たち生きる地上に、神さまが実現しようと願っておられる「みこころ」とは、「平和」にほかなりません。
 平和を実現する。そのために、この私を用いてください、と祈る。それが、みこころが行われますようにと祈る主の祈りの心(真髄)です。
 讃美歌21・499番に〈平和の道具と〉という歌があります。そして、そこには平和を実現するために、とても具体的なことが記されています。
  平和の道具とならせてください。憎しみに愛を、戦(いくさ)に和解を
  分裂に一致、疑いに信仰、誤りに真理、絶望に希望、暗闇に光、涙に喜び、
  もたらす器とならせてください。
  なぐさめ求めず、慰めることを、理解されるより、理解することを、
  愛されるよりも、愛する心を、敵をもゆるして、ゆるされることを
自分のいのちを献げて死ぬなら、永遠のいのちに生きるものとなる‥‥
 この歌詞は、アッシジのフランチェスコという修道士が書いた詩を元につくられた讃美歌です。詩というよりは祈り、平和を求める祈りといった方が良いかも知れません。
 後にいくほど、だんだん難しくなってくる気がします。できない、と思われます。でも、できるかできないか、を考える前に、できたかできなかったかと結果を気にする前に、この平和の実現を求める祈りを、そのために自分を“平和の道具とならせてください”と祈り求めていきましょう。自分の力では到底できません。だからこそ、私たちは神さまを信じる。神さまの聖霊と愛が、私たちの内に宿るように祈るのです。それが、みこころが‥‥地上でも行われますように、と祈る主の祈りの深さでしょう。

 大きなことはできなくてよいのです。小さな平和を、自分が置かれた場所で求めていきましょう。オーケストラの譬(たと)えで言えば、自分の楽器を、思いを込めて演奏すればよいのです。
 以前にもお話しましたが、インドのスラム街で、貧しい人々や子どもたち、路上で死にゆく人々のために尽したカトリックのシスター・マザーテレサが、ノーベル平和賞に選ばれた時、その授賞式での演説の後で、記者たちから、世界平和に貢献するために、いったい何をすればよいですか?と聞かれた際、マザーはこう答えました。
  家に帰って、家族を大切にしてあげてください。
 みこころの実現、平和の実現は、私たちの身近なところからです。置かれた足もとからです。家族を大切にする。そして、友だちを愛し、近所の知り合いや職場の同僚を愛することからです。このことを心がけることから、“みこころが天で行われるように、地上でも行われますように”という祈りは始まるのです。


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