坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年4月2日 受難節第5主日・礼拝説教「偉くなりたいなら 〜 隣人ファースト」

聖書 マタイによる福音書20章20〜28節
説教者 山岡 創牧師

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




「偉くなりたいなら 〜 隣人ファースト」

“都民ファースト”。昨年8月、東京都知事に当選した小池百合子氏が掲げるマニフェストです。東京都民のことを第一に考えて政治を行う、という姿勢です。
 東京都知事という立場はある意味で、今日の聖書の言葉を借りて言えば、「偉い人たち」(25節)に当たる、と言ってよいでしょう。ともすれば、「偉い人たちが権力を振るっている」(25節)ということにもなりかねない。そういう力を持った職務です。
と同時に、もう一つ今日の聖書の言葉を借りて言うならば、「皆の僕(しもべ)」(27節)という面もあると思います。“公の僕(公僕)”という言葉があります。公衆に奉仕する人という意味で、主に公務員を指します。けれども、広い意味では、国や地方公共団体の公務を担う者という意味があるそうですから、東京都知事も公僕だと言ってもよいでしょう。東京都民に奉仕する僕、「皆の僕」です。
 小池さんは、この東京都民に奉仕する僕であるという立場を意識して、都民ファーストという姿勢を打ち出したのではなかろうか、と思います。

 十字架に架けられて殺される。その覚悟を持ってエルサレムに上って行く途中、主イエスは弟子たちに、次のように教えられました。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26〜27節)。
 主イエスに従う弟子の道とは、「皆に仕える者」「皆の僕」になるような生き方です。それは言わば、“皆ファースト”に、“隣人ファースト”になるということです。主イエスが最も重要な聖書の教えとして語られた「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章39節)という姿勢です。隣人のことを、人のことを第一に考えて生きる。隣人ファースト。それが、主イエスが弟子たちに求めた生き方であり、この御(み)言葉を聞いている私たち“現代の弟子”にも求められていることです。

 けれども、弟子たちは、主イエスに従う生き方を、弟子の道を誤解していました。主イエスに従っていけば、民を支配する「支配者」(25節)になれる、権力を振るう「偉い人」になれる。そのように期待していました。
 このような誤解が生じたのは、主イエスがエルサレムに上って何をするかを誤解していたからです。直前の箇所に、〈イエス、三度死と復活を予告する〉というタイトルの内容があります。主イエスは、ユダヤ人の都エルサレムに上り、死刑宣告を受け、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる、と語っておられます。
 ところが、弟子たちは、主イエスがエルサレムに上る時は、救世主メシアとして民衆を率い、ローマ軍を打ち破り、ユダヤ人の王国を復興して、「王座にお着きになるとき」(21節)だと誤解していました。だから、その時に、偉くなりたい、主イエスに次ぐ地位に着きたい、民を支配し、権力を振るいたい、と願っていたのです。ゼベダイの息子であるヤコブとヨハネは、母親までダシに使ってその願いを叶(かな)えようとしました。いや、それは同時に、我が子に対する母親の願望であり、執念でもあったのかも知れません。しかも、この二人の行動を知って、他の弟子たちも「腹を立てた」(24節)というのですから、同じ願望を持っていたということです。人間の欲望のすさまじさ。けれども、私たちは他人事のように考えてはならないでしょう。偉くなりたい、いちばん上になりたい、という同じような願望、欲望が、私たちの内にもどこかにあるに違いありません。
 「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」(22節)。主イエスは、二人の誤解を、母親の間違いを指摘されました。確かに、主イエスは国造りを考えておられたかも知れません。けれども、それは“神の国”です。この世の国ではなく、人の心の中に造られる国です。人の心が神の愛で満たされることです。自分の命を十字架の上で、人のために献げるほどに、“隣人ファースト”に生きることで、人の心に神の愛を満たす。それが神の国です。その国の王座に、主イエスはお着きになるのです。
そのような主イエスの右と左の座に着くということは、十字架に架けられるような生き方に従って行く、ということです。「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げる」(28節)ような生き方を自分もする、ということです。それが、主イエスが飲む「杯」(22節)を飲む、ということです。要するに、“隣人ファースト”という杯を自分も飲んで、その姿勢で生きる、ということです。そのような姿勢で生きた者が、神に喜ばれ、目には見えない神の国で、主イエスの右と左の座に座らせていただける。それが、主イエスが語る“偉くなる”ということなのです。

 隣人ファーストの姿勢、すなわち愛の心で生きる。主イエスにとって、その生き方の行き着く先は十字架刑でした。隣人を愛するために死ぬのです。主イエスは、十字架刑の意味を「身代金」(28節)という言葉で表しました。身代金とは、捕らえられている人を取り戻すために、身代わりとして支払うお金のことです。いったいだれが、だれに捕らえられている、というのでしょうか?
 それは、私たち人間が、一人ひとりが、罪に捕らえられているのです。聖書が語る“罪”には、犯罪とは違って、とても広い意味があります。例えば、偉くなって人を支配し、権力を振るいたいという願望、それは愛のない罪であり、その罪に捕らえられているのです。人をどうしても赦(ゆる)せない時、私たちは、赦せない心という罪に捕らえられています。赦せない時、私たちは、自分の心が捕らえられている不自由さを感じるはずです。他にも色んなことが考えられますが、その何かに捕らえられた魂を解放する。あなたは愛されているという恵みによって喜びと安らぎを与えて解放する。そのためにご自分の命を、人の罪への身代金として献げる。神の愛を表わすために献げる。それが、主イエスの十字架の意味です。究極の“隣人ファースト”です。

 この神の愛によって愛され、主イエスに仕えていただいたと信じる者が、あなたも隣人に仕える者になりなさい、と“隣人ファースト”の道へと招かれるのです。その姿勢は、私たちの人生において、日常的な、具体的な場面で現れます。
 次男のMが今朝、高速バスに乗って、新潟に帰って行きました。K高校での2年目が始まります。昨年1年間、W先生という担任にお世話になりました。この先生が、学級通信を定期的に出されていましたが、1月12日発行の通信に、〈日直制導入〉と題して、次のような文章がありました。
 今週から、二人一組で日直さんをお願いしています。年内はもっぱら、ホームルーム関係の細々したことは、評議委員さんなど専門委員が担ってくれていましたが、「そろそろ交代でやる段階に入ったかな」と判断しての試みです。寮生は既に実感しているでしょうが、K高校で大きく成長する人とは、「他人のために自分の時間を使える人」です。というか、それができない人は、将来就職しても、仕事が苦痛にしかならないんですよね。それにそうすることが結局、自分のためになるんですよ‥‥。
 私自身、自分の中学・高校時代を振り返ると、恥ずかしくなります。自分の時間は自分のために使いたい。部活の時間を削られたくない。そんな思いで、学級委員、評議委員のような役職には決してつきませんでした。唯一意識したのが美化委員。高校3年間、トイレ掃除だけはまじめにやりました。
 他人のために自分の時間を使える人、それが「皆に仕える者」、隣人ファーストの人でしょう。その生き方は結果的に、自分のために、自分の喜びとなって返って来ます。
 もう一つ連想する事があります。NHKのテレビ小説『べっぴんさん』が昨日、終わりました。子供服のファミリアの創業者の一人・坂野惇子さんの生涯を描いたドラマでした。昨日の最終回で、主人公・坂東すみれの孫・藍が、おばあちゃん手作りの写真入れを学校に持って行ったところ、クラスのみんなから“いいなぁ、ほしいなぁ”とうらやましがられます。そこで藍は、おばあちゃんのすみれに、みんなの分も作ってほしい、と頼みます。すみれは快く引き受け、創業の仲間4人で、クラスのみんなの写真入れを作ります。そのシーンで、私が感動したのは、クラスの人数分、同じものを作るのではなく、一人ひとりのことを考えて、その子の名前と共に、違う刺繍(ししゅう)を縫っていることでした。手間だと思います。でも、人のために自分の時間を使っているのです。ちょっとしたことかも知れません。でも、その心遣いが、人も、自分も幸せにするのです。

 隣人ファースト。私たちはだれのために自分の時間を使いましょうか?夫、妻、子ども、親、友人、同僚、教会の仲間、そして会ったことのない日本の人々、見たことのない世界の人々のために、自分の時間を使うことができたら、時間だけでなく、ちょっぴり自分の何かを献げることができたら、人も自分も幸せになれるでしょう。愛の喜びで心が満たされるでしょう。


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