坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年5月21日 礼拝説教 「イエスをアップする」

聖書  使徒言行録1章3〜11節
説教者 山岡創牧師

1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
◆イエス、天に上げられる
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


「イエスをアップする」
 4月16日のイースター礼拝以降、主イエスの復活物語を続けてお話してきました。イースターから7週目の日曜日に聖霊降臨祭(せいれいこうたんさい)ペンテコステを迎えます。聖霊を与えられた弟子たちが、復活した主イエスこそ我らの救い主である、と力強く宣(の)べ伝え、3千人の人が信じて洗礼を受け、教会が誕生した記念の日です。3千人には遠く及びませんが、私たちの教会でも6月4日のペンテコステ礼拝で、二人の方の洗礼式を行います。嬉しく、感謝です。
 さて、ペンテコステを迎えるにあたり、その日の出来事が書き記されている使徒言行録を先立って読もうと思いました。冒頭の1章1節に、「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して」とあります。使徒言行録は、ローマ帝国の高官であったテオフィロという人物に献じられた書です。“第二巻”として差し上げられた書です。その前に“第一巻”がある。「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてについて書き記しました」(1節)と言われている書です。何だと思いますか?まあ、想像がつきますね。それは、福音書(ふくいんしょ)です。新約聖書の中にある4つの福音書の中の一つです。さて、どれだと思いますか?既にご存じの方もいると思いますが、ヒントは、4節の「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という言葉です。復活物語の最後の内容が、この言葉とピタリとつながる福音書が一つあります。それは、ルカによる福音書です。ルカによる福音書は、エルサレムにとどまり、約束されたものを待て、という内容で終わります。これが第一巻です。

 先週の礼拝で、ルカによる福音書24章の復活物語を取り上げました。クレオパともう一人の弟子が、主イエスが復活して、生きていることを体験する物語です。今日の3節にあるように、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」たことを記録したものが復活物語です。主イエスは復活なさった。「生きている」。そのことを弟子たちは体験しました。そして、「証人」として伝えよ、と、主イエスから使命を託されるのです。
 けれども、復活とは何でしょうか?「生きている」とはどういうことでしょうか?もし、死ぬ前と同じように生身の体に生き返った、ということならば、主イエスはそのまま寿命を迎えるまで生きたはずです。しかし、聖書はそのように書いてはいません。使徒言行録の今日の箇所によれば、復活した主イエスは「四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話され」(3節)、ご自分の復活の証人となる使命を託され、その後、「彼らが見ているうちに天に上げられた」(9節)と、あります。ですから、聖書が語る主イエスの復活とは、生身の体に生き返ることとは明らかに違うのです。
 けれども、弟子たちは、主イエスが「生きている」と感じました。それほどに、主イエスの復活は、彼らにとってリアルだったということです。そして、主イエスは生きている、と理屈を越えて感じられるリアル感に、信仰というものはかかっています。
 主イエスは天に上げられました。つまり、もはや目の前にはいない、ということです。目には見えない。触れられない。声を聴けない。そういう主イエスが「生きている」と、どうしたらリアルに感じることができるのでしょうか?
 まず聖書を読むことです。聖書を通して、主イエスが何を語り、何を教えたか。どんなふうに生き、死なれたか、その言葉や行動、生き様を知ることです。
 けれども、主イエスを知っても、それは知識になるだけで、リアルな体験にはなりません。知識として主イエスを知っている、ということは、信じる信仰とは違うものです。リアルな信仰体験をするためには、主イエスを自分自身と結びつける必要があります。主イエスの言葉や行動、生き様を、自分の生活に当てはめ、自分の人生と照らし合わせることが必要です。自分のリアルな悩みの中で主イエスの言葉を聞く。リアルな迷いの中で主イエスの行動を参考にする。リアルな苦しみの中で主イエスの愛を受け止めるのです。そうすることで、主イエスが自分に何を語りかけているか、どんなことを求めておられるか、を感じ取ることができるようになっていきます。それを感じ取るようになると、聖書の言葉が自分の内側で力になります。支えになります。主イエスの言葉が、行動が、愛が、自分の内側で慰めとなり、励ましとなり、平安となり、希望となり、愛と勇気を生み出します。それが、私たちにとって、主イエスをリアルに体験するということにほかなりません。その体験を言葉で表わすと、まさに“主イエスは生きている”という表現になるのです。生活の中で主イエスを味わい、主イエスをリアルに体験したら、それが分かるようになります。理屈抜きに、主イエスは生きている、と言えるようになるのです。なってしまうのです。そして、主イエスは生きている、と告白できるリアルな体験こそが、主イエスの復活の証人となって、主イエスは生きていると証しし、伝えていく土台になります。原動力になります。

 主イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。
「証人」という言葉を、私たちは普段の生活では、まず使いません。これは、裁判の席での法廷用語です。おそらく2千年前の当時のクリスチャンたちは、ローマ帝国の迫害の中で、捕らえられ、法廷に立たされ、自分の信仰について証言することが、主イエスは生きている、と証しすることが、しばしばあったのだと思います。そのために処刑されることになっても、主イエスは「生きている」と証言したのです。
主イエスの復活の証人となる。主イエスは生きている、と告白し、語り伝える。現代の教会も、その使命を託されています。私たちも、主イエスの証人となることを求められています。大変だ、難しいと感じるかもしれません。けれども、何も難しく考える必要はありませんよ。
教会に長らく通い続け、4月から高校1年生になった子たちがたくさんいます。高校生活の話を聞くと、新しい友だちに、もう既に教会のことを話した、という子が何人かいます。その話を聞いた子たちが、自分も教会に行ってみたい、と言っているそうです。単純な話です。要するに、彼女たちは、教会を良いところだと感じているのです。楽しいと感じているのです。彼らなりに、今まで学校生活での人間関係の難しさを感じ、傷ついて、そういう中で、主イエスを中心に置いている教会のあたたかさを感じているのです。だから、当然のように友だちに話すことができるのです。
聖書を読む。そして考える。自分の生活に照らし合わせ、悩み苦しみの中で励まされ、迷いの中で道を示される。そのことに“良さ”を感じ、主イエスってすばらしいと感じたら、しめたものです。そして、自分が聖書から受け取ったことを、みんなと分かち合うことを“楽しい”と感じたら、もう私たちは「証人」になる資格十分です。イエス様っていいよ、信仰って、いいよ。教会っていいよと、きっと語ることができます。主イエスをアップすることができます。

 話は変わりますが、最近、おいしいラーメン屋を見つけました。行きつけにしていたラーメン屋が閉店してしまって、どこかにおいしいお店がないかなぁ、と思っていました。ある日、子どもと3人で、鶴ヶ島にある、まぜそばの店に行ってみようということになりました。しかし、その日は何とお休み(実は勘違いで、営業していた!)。仕方がないので、スマフォで別のお店を探していたら、〈食べログ〉というグルメサイトに、そのお店を評価している人はわずかに3人でしたが、3人とも最高評価の五つ星をつけているお店がありました。同じ鶴ヶ島市内だということで、そこに行ってみることにしました。どこにでもありそうな、おじちゃんとおばちゃんが夫婦でやっている小さなお店でしたが、入って食べてみると、五つ星だけあって確かにおいしいのです。また来ようという気になるお店で、もう3回ほど食べに行きました。知りたい方にはお教えします。私は、そのお店のラーメンがおいしいということの「証人」です。(ラーメンの証人ではなく、復活したキリストの証人にならなくては‥‥)私たちは、いい(おいしい)と思ったら、素直に伝えられます。
 最近の若い人たちは、何かいいなと思うものがあると、すぐにスマフォで写真を取ります。我が家の子どもも、そのラーメン屋さんのラーメンを写真に撮っていました。撮ってどうしたか知りませんが、若い人たちは、そうやって撮った写真を、自分のブログとか、ツイッターとか、インスタグラムと言った、インターネット(SMS)上の自分の個人サイトに情報として掲載し、色んな人に発信し、情報を提供します。そのようにインターネット上のサイトに何か写真や情報を載せることを、“アップする”と言うみたいです。
 今日の説教題は、そこからとって、〈イエスをアップする〉としました。どういう意味か分からなかったという人、それでかえって関心が湧いたという人もおられたでしょう。つまり、自分が良いと思ったものを紹介し、発信するという意味で、“イエスをアップする”という表現をしてみました。私たちは、おいしかったら、おいしいと伝えられるように、主イエスを良いと思ったら、主イエスの愛をあたたかいと感じたら、主イエスを中心とする教会を楽しいと感じたら、イエス様を信じるっていいよ、と伝えることができます。それが「証人となる」ということの本質です。
 「聖霊が降ると」とありましたが、私たちは聖霊というものを、たぶん感覚的には分かりません。けれども、私たちが、聖書っていいよ、イエス様っていいよ、教会っていいよ、とリアルに感じている時、私たちの内側には、きっと聖霊が働いているのでしょう。そして、それが「力を受ける」ということなのでしょう。
 イエス様を信じて生きるすばらしさをリアルに味わって、私たちも、主イエスをアップしていきましょう。社会の人々に、身近な家族に、友人に、同僚に、主イエスのすばらしさを、素直に、自信をもって、地道に伝えていきましょう。


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