坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年6月4日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教「神が語らせるままに」

聖書 使徒言行録2章1〜13節
説教者 山岡 創牧師

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

「神が語らせるままに」

(腹話術)
ケロちゃん
なあに?
あのね。
うん。
ケロちゃんは、ペンテコステって知っている?
ペンテコステ?
そう、ペンテコステ。
それは、食べられるの?
いやー、ちょっと食べられないなあ。
なんだ!
まあまあ‥‥ペンテコステというのはね、教会の誕生日なんだよ。
ハッピ・バースデイ・トゥー・ユー♪
落ち着いて、落ち着いて。今から2千年も昔のことだけど、この日、イエス様のお弟子さんたちに、聖霊(せいれい)が降ったんだ。
聖霊って何?
聖霊って、赤い炎みたいに見えたらしいよ。ほら、ここに絵本がある。
うわー、変なのに取りつかれてる!
変じゃないよ。‥‥でも、確かに!ケロちゃんが言うように、取りつかれたんだね。そして、聖霊の力で、お弟子さんたちはイエス様の愛を伝えたんだ。
イエス様の愛?
うん。そして、イエス様の愛を信じた人たちによって、世界で最初の教会が生まれたんだ。それがペンテコステ。
皆さん、よく分かりましたか?
皆さんじゃなくて、ケロちゃんは分かったの?
よく分った。ペンテコステは教会の誕生日。聖霊によってイエス様の愛が伝えられた日です。
(ペンテコステは教会の誕生日。聖霊によってイエス様の愛が伝えられた日です。子どもたちは、今日、このことを覚えておうちに帰ってね)※子ども退席

 いや、お見苦しいものをお見せして失礼しました。実は私は、神学生だった時、腹話術の講習を受けたことがあります。人形の声は脳天から出す意識で。人形がしゃべている時、術者の口が動かないように、薄く横に開いて声を出す。破裂音は口が開いてしまうので、別の言葉に言い換える(例えば、パイナップル → カイナックル)。
 2泊3日の講習を受けた後、教会で3回ぐらい披露(ひろ)したことがありました。けれども、日々の基礎練習が面倒で、結局やめてしまいました。
 その後、20年ぶりぐらいに、三女の愛が幼稚園児だった時に、幼稚園で披露しました。園児たちにバカ受けでした。その時から、10年ぶりです。我ながら、恥ずかしげもなく、よくやるわ、と思います。「“霊”が語らせるままに」(4節)なのかも知れません。
 冗談はともかくとして、私が今日、ド下手な腹話術を披露したのは、説教を聞く子どもたちのために、という目的もありますが、そもそも「“霊”が語らせるままに」という御(み)言葉から思いついたものです。
 「“霊”が語らせるままに」使徒たちは語りました。聖霊が語らせるままに、イエス様が語らせるままに、神さまの恵みを語る。それって何だか腹話術に似ているなぁ、と思ったからです。イエス様の言葉を、イエス様の思いを、私たちがイエス様の口となって伝えるのです。

 けれども、もちろん私たちは“人形”ではありません。人形と違って、自分の意思があります。気持があります。感情があります。人前で、何を、どう語ったらよいのか分からない、どう祈ったらよいのか分からない、という恐れと不安があります。
 使徒たちもそうだったと思います。恐れと不安があったに違いありません。先週の説教で、“使徒”についてお話しました。使徒言行録では、弟子はもはや弟子とは呼ばれず、使徒と呼ばれること。使徒とは言わば、イエス様の“お使い”だと申しました。
 それで思い出したのですが、〈初めてのお使い〉というテレビ番組があります。小学校低学年だったり、就学前の3歳、4歳といった幼児が、お母さんに頼まれて、生まれて初めて、独りでお使いをする。その様子を撮影して番組にしたものです。小さな子どもたちは、お母さんと一緒に何度も行ったことのあるお店に頼まれた物を買いに行ったり、近くで働いているお父さんの職場までお弁当や忘れ物を届けたりします。大きなお魚を懸命に抱えて帰ったり、買い物袋を引きずって穴が空いてしまい、そこからポロポロと何かがこぼれだしたり、不安なので泣いたり、重いので文句を言ったり、自分を励まそうとして何かを言い聞かせたり‥‥‥その様子が見ていて、とてもおもしろい。兄弟で行くこともあり、そのやり取りが、またほほ笑ましい。お使いから帰って来た時は、本人もお母さんも大喜び、うれし涙です。
 かなりの子が、家を出る時に躊躇(ちゅうちょ)します。泣く子もいます。当然ですよね。不安だからです。怖いからです。それをお母さんがなだめ、言い聞かせ、大丈夫と励まして送り出します。それによって子どもは決心し、勇気を出して出発します。
 私は、使徒たちにとってペンテコステというのは、言わば“初めてのお使い”みたいなものだったのではないか、と思うのです。復活したイエス様は天に上ってしまう。そのイエス様から、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)と、使徒たちはお使いに出されるのです。今までは、いつもイエス様が一緒にいました。イエス様が先頭に立っていました。でも、今度はイエス様がおらず、自分独りで、自分たちだけでする初めてのお使いです。不安だったに違いありません。怖かったに違いありません。そして、そういう使徒たちを、なだめ、言い聞かせ、大丈夫と励まして送り出す。そのお母さん役が“聖霊”なのだと思うのです。聖霊とは言わば、恐れ、躊躇する使徒たちを安心させ、励まし、勇気を出させるお母さんの愛情、いや“イエス様の愛情”です。

 このイエス様の愛情をシンボリック(象徴的)に表しているのが、「風」と「炎」(2〜3節)です。激しいのです。熱いのです。愛する我が子のような使徒たちを失敗と挫折(ざせつ)から再生させたい。恐れと不安から解き放ちたい。自立させたい。自立した信仰をもって生きてほしい。伝えてほしい。そんな親心のような情熱です。深く、あたたかい。でも、強く激しい愛情です。
 その愛情を、聖霊を、心で受け取るにはどうすればよいのか?真剣に祈ることです。使徒たちは、恐れと不安の中で、イエス様の約束を信じて祈った。心を合わせ熱心に祈ったと使徒言行録1章に記(しる)されています。真剣に、熱心に祈る人に、聖霊は降ります。
 もう一つは聖書を通してイエス様の言葉を聞くことです。使徒たちは祈りました。その祈りの中で、イエス様が自分たちに何を語りかけ、何を求めているか、聖書の御言葉から受け止めようとしたことが、やはり1章に書かれています。
 その祈りと聖書を通して、使徒たちは、イエス様の愛情を知ったのです。自分はイエス様を裏切った。見捨てた。強くもなく、正しくもない人間だった。愛が欠けていた。人を傷つけた。失敗した。挫折した。でも、そんな自分がイエス様に赦され、神さまに愛されている恵みを知って、立ち直ることができた。再出発することができた。
失敗人間。罪人。でも、神さまはそんな“私”を選んでくださった。赦し、愛し、復活させてくださった。立ち上がる愛と勇気を与えてくださった。
その愛情を受け止めた時、聖霊をいただいた時、使徒たちは、「“霊”が語らせるままに」語る者とされたのです。神の愛を語る者に、愛を証しし、伝える者にされたのです。

 使徒たちは、イエス様の愛を語り始めました。しかも、「ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)といいます。それは、愛を証しする言葉であると同時に、“愛のある言葉”だったと思いました。
 どういう意味かと言うと、愛とは、相手に対する思いやりだと言ってもよいでしょう。そして、「ほかの国々の言葉で」というのは、その国の人が聞けば、「自分の故郷の言葉」(6節)ということになります。自分の故郷の言葉というのは、聞きやすいし、微妙なニュアンスや気持も伝わって来るのではないでしょうか。
 山浦玄嗣(はるつぐ)さんという医師でクリスチャンの方が、ケセン語訳聖書というものをお書きになりました。山浦先生は、岩手県大船渡市の出身ですが、大船渡や宮城県の気仙沼等の辺りで話されているケセン語という方言で、4つの福音書を訳して『イエスの言葉』と題する本を出されました。あるコメントには、イエスの言葉が腹の底まで届いてくる、とありました。山浦先生は、自分の故郷の言葉で、故郷の人たちに、イエス様の言葉を伝えたいとお考えになったのでしょう。そこには、ケセン語を日常的に話す人たちに対する愛があると感じます。思いやりがあると思うのです。
 使徒パウロは、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように、奴隷には奴隷のように、弱い人には弱い人のようになった。そのようにしてイエス様の愛を伝えようとした、とコリントの信徒への手紙(一)9章で語っています。相手に対する愛の配慮、思いやりです。愛を語る言葉は、愛のある言葉でありたいと思います。
 私たちも、相手に対する愛をもって、イエス様の愛を伝えていきたいと思います。時には、イエス様の愛を語らず、相手の話を黙って聞くことが、愛かも知れません。一歩引いて相手の思いを受け入れることが、愛かも知れません。相手の思いや立場に立って愛を伝えたい。イエス様の愛情をいっぱいいただいた者なら、きっとそれができます。聖霊によって、きっとできます。



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