坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年7月30日 礼拝説教  「粘り腰の信仰」

聖書 創世記32章23〜31節
説教者 山岡 創牧師

32:23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。
32:24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、
32:25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、
32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
32:30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
32:32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。


      「粘り腰の信仰」
 ここ数年、相撲がとても盛り上がって、ブームになっているように思います。我が家でも長男が相撲好きで、毎日ダイジェスト版を録画しては翌日に見ています。私も自然と相撲を見る機会が多くなりました。
先日の名古屋場所は、何と言っても横綱・白鳳の通算・最多勝記録で大いに盛り上がりました。13日目、元大関・魁皇の記録を抜いて通算1048勝目を挙げ、今現在1050勝に達しています。次は、白鳳の幕内通算1000勝、また優勝回数40回達成なるか、というところで盛り上がることでしょう。
 ところで、ヤコブも、ヤボクの渡(わた)しで相撲を取りました。相手は、天使でした。決して勝てない相手です。けれども、ヤコブはその天使に勝ちました。相撲に“まいった”はありませんけれど、ここでは天使が“まいった”と負けを認めた判定勝ちでした。それでも、ヤコブは天使に勝ったのです。激しい相撲で股関節が外れても、粘りに粘って勝ったのです。そして、相撲の勝者が勝利のご祝儀(賞金)をもらうように、ヤコブも天使に勝って、“神の祝福”という最高のお祝いをいただいたのです。

 どうしてヤコブは天使と相撲を取ることになったのでしょう?
 ヤコブは、神さまの祝福を約束されたアブラハムの孫として生まれました。彼には、双子の兄エサウがいました。本来なら、アブラハム、イサク、そしてエサウに受け継がれるはずだった祝福の約束を、ヤコブは父イサクをだまして、兄エサウから奪い取ったのです。エサウはカンカンに怒り、ヤコブを殺そうとします。危険を感じたヤコブは、家を飛び出し、母の兄である叔父ラバンのもとに身を寄せます。叔父の下で20年暮らしたヤコブでしたが、結婚もし、財産もできて、やがて叔父の勢力を凌(しの)ぐようになります。そのために、かえって叔父のもとに居づらくなったヤコブは、“故郷に帰りなさい”との神さまの促しによって、叔父のもとを出立し、故郷を目指します。
 けれども、故郷には、20年前にけんか別れした兄がいます。兄は今、自分のことをどう思っているのだろうか?まだ殺そうと考えているのだろうか?恐れと不安が湧き上がって来ます。
 そこでヤコブは、使いの者を兄エサウのもとに送って、兄の気持と考えを確かめようとします。やがて使いの者が帰って来て、お兄さまはあなたを歓迎して、400人を連れて迎えに来る途中だ、と報告しました。それを聞いたヤコブは恐怖に震えます。兄の歓迎が信じられないのです。400人を連れて自分を滅ぼしに来るのだと疑います。
 そこで、どうしたものかと悩み考えて、ヤコブは“贈り物作戦”を実行します。ヤギ、羊、ラクダ、牛、ろばと、価値の低いものから価値の高いものへと、間を置いて順番にプレゼントして、兄を喜ばせ、怒りを解いてもらおうと考えたのです。けれども、なかなか兄への恐れと不安はなくなりません。
 やがてヤボク川の渡し場に到着しました。ここを渡れば、いよいよ故郷です。ヤコブは、家族と財産の家畜を連れて川を渡りました。恐れと不安はまだ解消されていません。それでも、家族と財産と一緒に川を渡れば、覚悟が決まるだろうと思ったのでしょう。ところが、覚悟は決まりません。依然として恐れと不安が自分の心を占めています。
 “独り相撲”という言葉があります。相手がいないのに、勝手に相手を想像し、落ち着いて状況を判断せずに、独りで意気込んで行動し、空回りすることを言います。ここまでのヤコブがしていることは、まさに独り相撲でした。

 恐れと不安を消せず、覚悟が決まらないヤコブは、家族や財産をヤボク川の向こう岸に渡した後で、「独り後に残った」(25節)とあります。自分以外のものをすべて川の向こうに渡しても、自分だけは渡すことができない、渡ることができない。自分自身の心が決まらず、恐れと不安と、そして迷いに支配されている。それが、最後の最後に残されたヤコブ自身の宿題でした。それは、自分自身で、自分独りで解決する以外にない宿題でした。別の言葉で言えば、信仰の問題、自分と神さまとの信頼関係の問題でした。独りになって、その問題にたどり着いた時、初めてヤコブのもとに神さまが現れます。
神さまのお使いである天使が現れます。神さまは、“何をくよくよと、くどくどと迷い、悩んでいるのか?私との信頼関係はどうしたのか?”とヤコブに問いかけているのです。
 独りになったヤコブのもとに現れた天使と、ヤコブは相撲を取りました。それは言い換えれば、ヤコブ自身の心の葛藤(かっとう)だと思います。“行くべきか”“行かざるべきか”という二つの答えの間で迷う葛藤です。そして同時に、“神さまを信頼するか”“信頼しないか”という葛藤です。
 この葛藤、この心の相撲は夜通し、明け方まで続きました。途中、ヤコブは何度も土俵際まで追い込まれ、負けそうになったはずです。けれども、その度に粘りました。粘り過ぎて、股関節が外れる大けがをしても、なおも「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(27節)と天使に食らいつきました。
 私が子どもの頃、貴ノ花という大関がいました。平成に活躍した大横綱・貴乃花のお父さんでした。体の小さな力士でした。けれども、“粘り腰”のある、しぶとい力士でした。土俵際に追い詰められても、そこで粘る。簡単に土俵を割らない。粘りに粘って、しばしば逆転劇を見せてくれました。横綱・北ノ湖や大型力士に勝った時は大盛り上がりでした。
 また、その子供である横綱・貴乃花も、土俵でひざに大けがを負って、でも優勝決定戦で、粘りに粘って勝利し、優勝したことがありました。
 負けそうになってもあきらめずに粘る“粘り腰”の相撲、ヤコブもそういう相撲を取って、天使に勝ったのでしょう。いや、“粘り腰”の信仰で、自分の葛藤と迷いに勝って、“神さまが必ず自分と一緒にいてくださる”という信仰を勝ち取ったのでしょう。その信仰によって、ヤコブは恐れと不安に打ち克ったのです。信仰によって、自分の人生を分かつ川の向こう岸に渡ったのです。

 ヤコブは、天使に勝って新しい名前をいただきました。ヤコブというのは、“人の足を引っ張る”という意味ですが、イスラエルというのは、“神に勝つ”という名前です。でも、この名前、“神に勝たれる”という逆の意味もあるようで、どっちが本当に勝ったのか分かりません。ヤコブは、神さまを信じることによって自分の葛藤と迷いに終止符を打って、恐れと不安に打ち克ちました。けれども、そういう意味では、勝ったのは神さまの方なのかも知れません。ヤコブという“迷いの人”を、“神を信じる人”に変えたのですから、本当の意味で勝ったのは神さまなのかも知れません。
 イエス様は、山の上で説教をされた時、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7章7節)と教えられました。私たちも、どんなに恐れと不安を感じる時も、股関節が外れるような大ピンチの時も、あきらめずに、神さまの祝福を、神さまの助けを求めていきたいと思います。ヤコブのように、粘りに粘ったら、神さまはきっと、私たちに必要な助けを与えてくださるに違いありません。



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