坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年10月29日 礼拝説教「聖書は幸せへのガイドブック」

聖書 テモテの手紙(二)3章14〜17節
説教者 山岡 創牧師

3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。


    「聖書は幸せへのガイドブック」

 現代日本は、“検定ブーム”だと言っても過言ではないのではないでしょうか。英語検定、漢字検定をはじめとして、果てはオタク検定とか、サンタクロース検定なんていうものもあるそうです。そして最近、ついに聖書検定なるものまで始まったということを知りました。
 先日23〜24日に、高崎で関東教区の牧師の一泊研修があり、参加しました。〈2千年前の牧師、100年後の牧師〉というテーマだったのですが、その講演の中で、講師の鈴木崇巨先生が、今年9月から聖書検定というものが、ある宗派によって始められたことをお話されました。インターネットで“聖書検定”と入れて検索すると、公式ホームページが出て来ます。5級から1級まであります。テキストも販売されています。
 この聖書検定は、ある人が、現代の検定ブームを見て、キリスト教も聖書検定をしたら伝道になるのではないかと考えて始められた、ということです。いったい今の自分は何級の検定に合格できるのだろうか?‥‥受けてみたい気もします。(反対に化けの皮がはがれて、皆さんの信用を失うかも知れませんね)

 検定にしろ、参考書を読むにしろ、聖書の内容やその背景、言葉の意味など、知識として知っておくことは、グローバルな世界において、キリスト教国と呼ばれる国の人々やキリスト教信仰を持っている人と交流をする上でプラスになることは間違いありません。また、聖書が何を語りかけようとしているのか、そのメッセージを考えるために役に立つでしょう。
 けれども、それは知識ではあっても、「知恵」ではありません。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(15節)と言われている「知恵」とは違うものです。
 もちろん、聖書を知識、教養として読んだってかまわないのです。けれども、それは教会が教える読み方とは違います。だれかが言っていましたが、海外に行って、外国の方と交流すると大抵“あなたの宗教信仰は何ですか?”と聞かれる、ということです。そして、“何も持っていない”と答えると、びっくりされます。“あなたのことが心配だ”とさえ言われることもあるそうです。宗教信仰を持っていることが当然の外国の人からすれば、何も信仰を持っていない人は、その人が何者なのか(アイデンティティー)がよく分からないという不安を抱かせ、土台のない人生、根なし草の人生を生きているように見えるのでしょう。
 聖書を知識として読んでもかまいません。けれども、それは教養にはなっても人生の土台にはなりません。主イエスのたとえ話の中に、砂地に家を建てた人と岩の上に家を建てた人の話がありますが、それを知っているだけでは、人生に嵐が襲ったとき、それに耐え、黒雲の向こう側に光を見いだすための人生の土台にはならないのです。知識は、「信仰」と結びついて初めて、「救いに導く知恵」になります。私たちに、人生の何たるかを教え、また喜びと感謝、慰めと希望を教える知恵になります。驕(おご)りや人との比較、自分中心な生き方を戒(いまし)める知恵になります。誤りを正し、人の本来的な生き方へと導く知恵となります。その知恵が、私たちの人生の土台を造ります。救いとは大きく言えば、聖書を自分の人生を導く知恵として、すなわち“人生のガイドブック”として読み、それによって人生に確かな土台が築かれていることを言うのです。

 では、聖書を「救いに導く知恵」とするためにはどうしたらよいのでしょうか?その言葉の前に、「キリスト・イエスへの信仰を通して」とありました。先ほども言いましたが、聖書の御(み)言葉は、信仰によって読むことによって、信仰と結びついて初めて、「救いに導く知恵」になります。ならば、その信仰を養うにはどうすればよいのでしょう?
 16節に、「聖書は‥‥人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です」とありました。そうです。訓練です。聖書が「救いに導く知恵」となるためには、信仰が養われるためには、訓練が必要なのです。何事もそうですが、訓練をしなければ、やはり信仰も身に付きません。
 私が小学生(4年か5年?)だった時に、友だちのおじさんに釣りに連れて行ってもらったことがありました。それがきっかけで釣りをしてみようと思いました。そこで、私は釣りの本を買って来て熱心に読みました。竿や浮きを買い、仕掛けも自分なりに工夫しました。そして、いざ!入間川に出陣‥‥‥1匹も釣れませんでした。もう釣りなんてするもんか!私はたった1回で釣りをやめました。
アホです。釣れるはずがない。経験が足りないからです。訓練を積んでいないからです。釣りというものが、知識はあっても身に付いていなかったのです。
 信仰も同じでしょう。聖書とは本来“信仰の書”です。どんなに知識として覚えても、それは人生の現場で、私たちを教え、戒め、正し、導く知恵にはならない。力にはならない。聖書の御言葉を実践してみなければ、人生の現場で、聖書によって自分を訓練しなければ、その力を味わうことはできません。聖書によって生きる喜びを味わうことはできません。自分を訓練し、実践する。そして、聖書の力を味わう。恵みと喜びを味わう。そうすることで信仰を体験し、養われ、身に付いていくのです。

 聖書によって自分を訓練し、信仰を養い、身につける。そのために、もう少し具体的な方法をお話しましょう。それは、聖書黙想の方法です。
 先週の日曜日に、本庄教会の疋田國磨呂牧師をお迎えして、礼拝の説教と午後の研修会の講師をしていただきました。先生に研修のリードをしていただくのは7年ぶり2度目です。敢(あ)えて前回と同じ聖書黙想(ディボーション)についてお話しいただきました。聖書を読む。繰り返し読んで、自分に響く言葉、引っかかる言葉、印象に残る言葉を見つけ出す。そして、その御言葉を通して、神さまが自分に何を語りかけ、何を求めているのかを考え、受け止める。あの人に、とか、社会一般に、ではなく、“わたしに”語りかけられている言葉として聴くのです。疋田先生が教えてくださった方法には5つの視点があります。その御言葉から、どんな罪が示されているか。どんな慰めや救いの約束が示されているか。どんな行動を避けよ、と言われているか。どんなことが命じられているか。どんな模範が示されているか。その5つです。5つすべてを見つけ出す必要はありません。何か一つでも見つけ出せればいい。そして、見つけ出した神さまの語りかけを、自分の生活や人間関係、自分の生き方そのものと照らし合わせ、反映させ、生かしていく。できれば、具体的に、こういうふうにしてみよう、と適用して、実践する。毎日の生活の中で聖書を読み、それを積み重ねていくことで、私たちの内に信仰が養われ、聖書が、「救いに導く知恵」になります。
 聖書黙想をする上で、大切なのは、祈ることです。私たちが信じる神は父、子、聖霊(せいれい)なる三位一体(さんみいったい)の神さまですが、その聖霊なる神さまに助けを祈るのです。16節に、「聖書は神の霊の導きの下に書かれ」とありました。聖霊の導きの下に書かれた聖書は、読む時にも聖霊の助けが要るのです。聖書を開くのは日曜日だけで、なかなか平日に聖書を読めない、読まないという話がありました。確かに、私たちの生活はかなり忙しい。けれども、だから聖書を読めない、ではなく、まず“聖霊なる神さま、私に聖書を読む時間をお与えください”と祈ることから始めるのです。本気で祈っていたら、必ず聖書を読んで、黙想できるようになります。
また、受け取った神さまの語りかけを実生活の中に適用し、実践しようとしても、なかなかできないと思うかも知れません。けれども、その時も“聖霊なる神さま、私があなたの語りかけを実践することができるように助けてください”と祈ったらいい。その祈りはきっと聞かれます。すぐにではないかも知れません。でも、きっと叶えられます。聖霊の助けによって私たちは、「どんな善い業(わざ)をも行うことができるように、整えられる」(17節)のです。

 ゆっくり黙想する時間がなかったら、聖書を一度読んで祈るだけでいい。先週のお話にもありましたが、朝起きた時、通勤電車の中で、台所のそばの机で、夜寝る前に‥‥いつでもいい。朝、出かける時に、靴箱の上に『日々の聖句』を置いておいて、その日の御言葉1節だけを読んで、“神さま、今日もお守りください”と一言祈って出かけるだけでもいい。聖書の御言葉を自分の内に入れて毎日を生きる。それは、今日も神さまが私と共にいてくださる、という実感になるはずです。そして、それは私たちの心と生活を変えていきます。愛、喜び、平和、感謝、慰め、希望の伴う人生へと変えていきます。聖書は、そういう偉大なる力を持っているのです。


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