坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2017年11月12日 礼拝説教「人の内に湧き出る水」

聖書 ヨハネによる福音書4章1〜15
説教者 山岡 創牧師

4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


「人の内に湧き出る水」

〜 水を飲ませてください 〜
 11月も半ばにさしかかり、次第にクリスマスを意識するようになって来ました。皆さんご存じのように、クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う祭典、記念日です。この記念の日に洗礼(せんれい)を受けたいと願う方は、山岡牧師までお申し出ください。そのように本日の週報に記載しました。
 洗礼とは、私たちの内にある罪が清められ、イエス・キリストと一つとなり、共に歩む新しい生活を始めるしるしだと言うことができます。洗礼を受けるとは、私たちにとって大なり小なり、一つの“決断”でありましょう。ある意味、自分の人生を変える決断です。その日から、イエス・キリストを信じる信仰を、自分の人生の中心に据えて生きる誓いを立てて歩み始めるからです。言わば、人生のターニング・ポイントです。
 洗礼は、ユダヤ教に端を発します。異邦人がユダヤ教に改宗したいと志した時、汚れを清める意味で洗礼を受けました。ヨハネはそれを、ユダヤ人に当てはめました。自分たちは神に選ばれたユダヤ人だから、罪汚れはないと高をくくるな。自分を見つめ直し、悔い改めのしるしとして洗礼を受けよ、とユダヤ人に呼びかけたのです。主イエスも、このヨハネのもとに来て、洗礼をお受けになりました。その後、主イエスはヨハネのもとを離れ、独自の宣教活動を始め、独自の洗礼を授けるようになります。ヨハネは、主イエスの洗礼を、聖霊による洗礼だと証言し、自分が授ける水による洗礼とは違うもの、優れているものだと言いました。キリスト教の洗礼、教会の洗礼は、主イエスの洗礼を受け継いでいます。主イエスを信じ、洗礼を受けることで、その人の内に、聖霊なる神が豊かに働くようになる。そういう洗礼です。

 さて、「イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の耳に入った」(1節)と言います。ファリサイ派は、神の掟である律法を厳格に守るユダヤ教の主流派です。そのようなファリサイ派からすれば、ヨハネのような規格外の人物と教えが出て来るのは、好ましくないわけです。そのヨハネよりも、主イエスは多くの弟子をつくり、洗礼を授けているのですから、当然ファリサイ派から、ヨハネ以上に睨まれることになります。
それを知った主イエスは、ユダヤ地方から、地元のガリラヤ地方へと退避します。ところで、地理的にユダヤ地方とガリラヤ地方の間にはサマリア地方があります。通常、ユダヤ人がユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来する場合、サマリア地方を避けて、大きく遠回りをしました。なぜなら、9節にも書かれているように、「ユダヤ人はサマリア人と交際しないから」です。両者は犬猿の仲でした。彼らは、かつて同族でした。しかし、同族のイスラエル王国が南と北に分裂します。彼らはそれぞれ南と北の末裔(子孫)でした。その後、北の末裔は異邦人と結婚し、血と宗教が入り混じりサマリア人が生まれます。南の末裔は、それを軽蔑しました。南の末裔は純血を守り、ユダヤ人と呼ばれるようになりました。両者の間に戦争も起こりました。そんな事情で、主イエスが生きていた当時、両者は仲が悪かったのです。
だから、通常ユダヤ人はサマリア地方を通らないのですが、主イエスは、よほど急いでおられたのか、あるいはそのような差別と対立は無意味と考えて気にされなかったのか、サマリア地方を通ってガリラヤに行こうとします。けれども、旅の途中で疲れて、シカルという町で休むことになりました。そこにあるヤコブの井戸のそばに、主イエスは座って休んでいましたが、その時、一人のサマリアの女と出会います。
話は変わりますが、私は、〈イエスとサマリアの女〉とタイトルの付いている4章1〜42節を、1度に説教するにはちょっと長いなぁ、と考えていました。そこで、どこで区切ったらよいかと考えていたのですが、考えているうちに、この箇所には、一人の人間の信仰が成長していく過程が描かれていると思いました。最初は、救いを求める“求道”、次に主イエスを信じる“信仰”、そして主エスを宣べ伝える“伝道”です。求道から信仰へ、信仰から伝道へ、3段階の成長過程が描かれていると思いました。今日読んだ聖書箇所は、第1段階の“求道”です。この求道のキーワードは、「水を飲ませてください」(7節)という願いです。主イエスに、「水を飲ませてください」と願う、救いを願う思いから求道生活は始まります。

 けれども、最初に「水を飲ませてください」と頼んだのは、主イエスの方でした。旅に疲れ、のどの渇きを覚えた主イエスが、井戸に水を汲みに来た女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。そこから、この女性の求道が始まりました。
 私たちは、何かしら理由があって、あるいはきっかけがあって求道生活を始めます。何であれ自分の意思で教会に通うようになります。子どもの頃、親に教会に連れて来られていた人であっても、信仰とか教会といったものを意識するようになって初めて、自分の意思による求道生活が始まる、と言ってよいでしょう。
 けれども、私たちが自分の意思で求道を始める前に、神さまが、私たちを求めておられたのではないか。人生の見えないところで、魂の内において、主イエスが、一人ひとりを招いておられたのではないか。「水を飲ませてください」との主イエスの願い求めから、私は、そのように感じました。
 ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスが、人の心の戸口に立って、戸を叩いている姿が描かれています。そのノックの音に気づいて、だれが来たのかとドアを開けに玄関に向かう“途中”、たとえて言えばそれが、私たちの求道生活なのかも知れません。
 主イエスの願い、主イエスの呼びかけから、求道生活は始まります。しかし、もちろん当座はそんなことは思いもしないし、そう言われても、ピンッと来ない、納得できないのではないでしょうか。それが、まあ普通でしょう。後になってから分かる。主イエスを受け入れて、喜びを持って、苦しみ悲しみを乗り越えて、導き支えを感謝して生きるようになる。そこで振り返って見た時に、自分の意思ではなく、神さまの招きによって、主イエスの願いによって始まった信仰生活だったのだと、理屈ではなく、自然にストンッと腹に落ちる時が来るかも知れません。その時、私たちは改めて、自分の力で生きている自分ではなく、“生かされている自分”を感じるでしょう。

 「水を飲ませてください」。渇きを覚えた主イエスが、サマリアの女に頼みました。けれども、すんなりとはいきません。彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)と不信感をにおわせ、なかば拒絶的な返事をします。それは、先ほどお話したように、ユダヤ人とサマリア人が犬猿の仲だったからです。
 ところが、ここから主イエスとサマリアの女の不思議な“珍問答”が始まります。主イエスの言葉と女の言葉がかみ合わないのです。
 主イエスは、「どうして」と尋ねる女の問いかけに、まともに答えません。むしろ、女の態度を残念がり、自分のことを、さも“何者か”であるかのように暗示し、女の関心を引き出そうとしています。
 他方、その言葉を聞いた女も興味を引かれたようです。汲むものをもっていないのに、この人は「どこからその生きた水を手にお入れに」(11節)なるのだろう?自分のことを、さも偉大な人物であるかのように匂わせたけれど、あなたは、神の祝福の約束を受け継いだ私たちサマリア人の先祖ヤコブよりも偉いのか?そんな疑問を再び主イエスに問いかけます。
 けれども、「生きた水」(10、11節)についての理解が、主イエスと女では全く違っています。主イエスが語っている水は、「その人の内で泉となる」(14節)ような水であり、つまり、その人の魂を潤し、心の渇きをいやすものです。人の内側に、慰めと励まし、希望と安心を湧き上がらせるような“何か”です。けれども、女が考えている水は、飲む水であり、のどの渇きをいやす水であり、普通の水のことです。だから、水をめぐる二人の理解、二人の会話はかみ合っていません。主イエスの言葉を繰り返し聞いても、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と、女はそれを飲む水だと思い込んでいるのです。主イエスは、人の内なる魂を問題にしているのに対して、女は、現実的な利益を考え、求めてるところに大きな食い違いがあります。
 けれども、一つ、大きな、決定的な変化があります。それは、女の方が「その水をください」と、求めるようになったということです。最初は、主イエスの方が女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。けれども、かみ合わない言葉を交わしながらも、女の心に関心が湧きました。そして、ついには女の方が、「水をください」と求める者に変わりました。求道の人生が始まったのです。それは、まだ現世利益的な求めかも知れません。けれども、最初はどんな願いであれ、主イエスに何かを求めることから始まるのです。
 聖書を通して、主イエスの言葉を聞き始めた当初は、何だかよく分からない、ピンッと来ない、納得できないという内容が多いのではないでしょうか。こんなことで信じられるようになるのだろうか?と不安を抱くかも知れません。主イエスの語る内容と、自分が考えていることがかみ合わないのです。
 けれども、サマリアの女と主イエスの対話を読みながら、それでいいんだなぁ、と私は思いました。自分の考えや価値観を持って生きて来た私たちが、そんなに簡単に、主イエスが語られる神の御心(みこころ)とピタリと一致するわけがありません。けれども、聞いた言葉を分からないなりに心に納める。繰り返し聞いて、自分に何を言おうとしているのだろう?と思い巡らす。主イエスの母マリアが、わけの分からない息子(イエス)の言葉を、その場で否定せず、拒絶せず、心に納めて思い巡らし続けた(ルカ2章51節)ような心の作業が、私たちにも必要なのです。それは、私たちの考え方や生き方の上に、神の御心を上書きしている、ということでしょう。上書きには、その人なりに時間がかかります。けれども、きっと上書きが終わり、私たちの心が、信仰の考え方、生き方に書き換えられる時が来るでしょう。その時、私たちの心に、主イエスが語られる御(み)言葉が、スーッと入って来る、納得できるようになるのです。その時まで、「その水をください」と求め続けること、それが求道の大切な姿勢です。

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧きでる」(14節)。主イエスが与える水とは、主イエスの言葉です。その言葉を、礼拝で、毎日の生活で読み続け、黙想し、主イエスが自分に何を語りかけておられるのかを考え続けるのが求道生活です。その御言葉が語りかける恵みを感じ取り、受け取ることができた時、主イエスの御言葉は、私たちの内側で、恵みがあふれ出す魂の泉、“魂の井戸”となります。そこから、私たちの信仰が始まるのです。
とは言え、主イエスの言葉を黙想し、受け取るという意味では、洗礼を受けてからも“求道”の歩みは生涯、続きます。それは、自分の内にある魂の井戸を深く、深く掘り下げる作業なのです。井戸の水は深く掘り下げるほど、清い。私たちは、求道の歩みを生涯続けながら、清く深い神の恵みと出会いたいものです。


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