坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年2月4日 主日礼拝説教 「その声を聞いた者は生きる」

聖書  ヨハネによる福音書5章19〜30節 
説教者 山岡 創牧師

5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」



              「その声を聞いた者は生きる」
“じゃあ、いつやるか?今でしょう!”数年前にCMから話題になった東進ハイスクールの国語講師・林修氏の名言です。とても耳に残る、印象に残る言葉ですね。
実は、ヨハネによる福音書がスローガンにしていることも、この“今でしょう!”だと言ってよいと思います。25節に、「はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である」とあります。また、少し遡(さかのぼ)ると、主イエスがシカルの井戸端でサマリア人の女性と話した時も、4章23節で「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と語っています。ヨハネによる福音書は“今でしょう!”の福音書だと言えます。これからも「今」という言葉がしばしば出て来ます。
では、ヨハネによる福音書が「今」実現する(した)という内容はいったい何でしょうか?5章19節以下の聖書箇所で、主イエスがいちばん伝えたいことは、24節の御言葉だろうと思います。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)。
わたしの言葉を聞け。わたしを遣わした父なる神を信じよ。そうすれば、永遠の命を得る。裁かれない。死から命へと移っている。では、いつ聞くか?いつ信じるか?いつ永遠の命を得るか?‥‥‥今でしょう!この御言葉の内容が「今」実現した(する)とヨハネは言うのです。
 ヨハネ以外の3つの福音書(ふくいんしょ)は、特に、神の裁きと永遠の命を“今”ではなく、“将来”の出来事として考えている傾向があります。私たちも、そのように受け止め、神の裁きと永遠の命は、まだ先のこと、死後のこと、天国での出来事と考えがちです。もちろん、それが間違っているというのではありません。
 けれども、ヨハネによる福音書は、それは将来のことではない、“今だよ!”と強調するのです。今を、今日を、主イエスの言葉を聞いて、父なる神を信じて、父の御(み)心に従い、主イエスに倣(なら)って生きよう。今日をそのように生きたら、あなたはもう永遠の命を生きている。永遠の命のサイドに移っている。あなたの命のクォリティーは、死のサイドから、永遠の命のサイドに移行している、と主イエスは言うのです。
この、死のサイドに留まるか、永遠の命のサイドに移るかが“裁き”です。裁きとは元来、“分ける”という意味です。人を、死のサイドと永遠の命のサイドに分けることです。では、だれが分けるのか?。それは“自分”なのです。
普通、裁きには裁く(分ける)人がいます。けれども、ヨハネによる福音書は、分けるのは自分だ、と言うのです(3章18節以下参照)。今、自分がどう生きるかで決まるのです。主イエスの言葉を聞いて、父なる神を信じ、命の本来に目覚めて生きるかどうかで決まるのです。死のサイドのままに生きるか、永遠の命のサイドに移って生きるかは、自分で選び、自分で決めるのです。今が決断の時です。頭の中での思考ではなく、机上(きじょう)の論でもありません。毎日の生活が“小さな決断”の連続です。

 だからこそ、主イエスは「今」を大切にされました。「父のなさること」(19節)を見て、「わたしをお遣わしになった方の御心を行おう」(30節)とされました。主イエスはどのように行い、また言葉で語っておられるか。直前の17節で、こう言われています。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。
 5章9節以下では、主イエスが安息日に病人を癒(いや)たことが問題となりました。安息日は働いてはならない日と、ユダヤ人の掟で決まっていたからです。その安息日の掟を破り、働いたことについて、主イエスが、父なる神のように私も働く、と発言したことが、自分を神と等しい者だとする冒涜(ぼうとく)だと、更に非難されました。
 ユダヤ人は、安息日には神さまも休んでおられると考えていました。ところが、主イエスは、神さまは安息日にも休まず働いておられると考えていたのです。初めに神さまが天地を創造し、人をお造りになった当初の状態のままだったならば、神さまも安心して7日目の安息日に休み続けられたでしょう。けれども、エデンの園でアダムとエヴァが罪を犯したため、人は神さまから隠れ、顔を背け、すれ違うようになりました。人は自分の罪のために、神さまに憎まれ、呪われていると勘違いしたのです。どっこい、そんなことはありません。神さまは、天地創造の初めから変わらずに、人を愛しておられるのです。そのことに気づかせるために、神さまは今もなお働いておられるのです。勘違いから来るすれ違いから、神の愛を信じ、神さまと向かい合って生きる命に回復させるために、今も心を砕いておられるのです。このすれ違いの世界を、愛の世界に戻すために、見えないけれど神さまは今も働いておられるのです。
 その神さまの「なさること」を見て、主イエスも働くのです。安息日でも働くのです。人を愛するのです。神の愛に気づかせるために、働くのです。
 主イエスご自身がまず、聖書(旧約)と祈りを通して、神さまに愛されていることに深く気づかれたのでしょう。若かりし主イエスが置かれた境遇は、決して穏やかだったとは思えません。むしろ、苦しくつらいものだったでしょう。そういう中で“神さま、どうしてですか?”と叫ぶこともあったでしょうし、道が分からず放浪したこともあったと思われます。
 けれども、聖書を通して神の言葉を聴き、祈る生活の中で、主イエスは、自分を取り巻く現実の良し悪しにかかわらず、自分は神さまに愛されていることに深く気づかれたのだと思います。自分は神の「子」だ、神は自分の「父」だと思えるほどに、神の愛を感じたのでしょう。この神の愛に気づき、信じたことによって、主イエスご自身が“人間”として、「死から命へと」、永遠の命のサイドへと移ったのです。人生が変わったのです。
 私たちは、神さまに愛されている。この命の真理を伝えるために、主イエスは、神の子として、神の器として働かれるのです。心を尽して隣人を愛されるのです。私たちを愛されるのです。語りかけられるのです。
 主イエスの「言葉」とは、語っていることだけではありません。主イエスの行動もまた、言葉です。その主イエスの言葉によって、「わたしをお遣わしになった方を信じる」とはどういうことでしょうか?それは、神さまが、私たち一人ひとりを、(父)親のように愛してくださっている、という命の真理を信じるということです。私たちは、この世で憎まれ、呪われているのではなく、愛されて、生かされて生きていることを信じるということです。

 私(たち)は愛されている。この命の真理、命の恵みを信じて受け入れた人は、きっと生き方が変わって来ます。永遠の命と呼ばれる生き方に変わって来ます。人を愛する生き方へと変えられていきます。「善」を行う者に変えられます。
「‥善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」(29節)とあります。この御(み)言葉は、マタイ福音書25章31節以下にある〈すべての民族を裁く〉という主イエスのたとえ話と同じ考え方です。
 この御言葉から、私はふと、ロシアの文豪トルストイの小説『愛のあるところに神あり』を思い起こしていました。童話では『靴屋のマルチン』と呼ばれる話です。
 靴職人マルチンは、妻と一人息子に先立たれます。その悲しみと孤独のために、マルチンの心は荒(すさ)み、毎晩、酒浸りの生活を送っていました。それが唯一、悲しみと孤独を紛らわす方法だったのです。けれども、心配した友人の勧めで、マルチンは聖書を読み始めます。仕事を終え、夜、聖書を読んでいると、心がスーッと落ち着いて、マルチンは平安を感じるようになります。
 そんなある日、マルチンが、マタイ福音書25章31節以下〈すべての民族を裁く〉という箇所を読んでいた時、心の中に主イエスの声が聞こえて来たのです。“マルチン、明日、わたしはあなたのところに行くからね”。
 翌朝、マルチンは部屋を整え、お茶と食事の用意をし、仕事をしながら主イエスがおいでになるのを待ちます。そうしながら、吹雪の中、雪かきをしている老人にお茶をご馳走し、行きずりの若い母親と赤ちゃんに暖炉の前でスープをご馳走し、自分のコートを与えて送り出し、表で騒いでいるリンゴ泥棒の少年とりんご売りのお婆さんをなだめて仲直りをさせます。
そうしているうちに夕方になり、日が暮れました。イエス様は来なかったと思いながら、マルチンは夕食をとり、いつものように聖書を読み始めます。すると、再び主イエスの声が聞こえて来たのです。“マルチン、今日わたしはあなたのところに行ったよ”その声と同時に、雪かきの老人が、お母さんと赤ちゃんが、少年とお婆さんの姿が目に浮かびました。その時、マルチンは前の晩に読んだマタイ25章40節を思い出します。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。この御言葉を思い起こし、マルチンは、主イエスが、小さな隣人の姿をとって自分のところに来てくださったことを悟り、感謝の祈りをささげるのです。
死のサイドにうずくまっていたようなマルチンが、聖書を読み、主イエスの言葉を聞いて、自分が神さまに愛されていることを信じて平安を得る。そして、人を愛して生きるようになる。主イエスが自分のもとに来てくださったことを悟る。それって、まさに永遠の命に移っている、ということに他なりません。

マルチンは、主イエスを信じ、愛するという善を行い、命を得ました。今日、私たちが、神の愛を信じて、人を愛するという善を志すか、それとも人を愛さない悪にとどまるか、それによって私たちの命は今、死か、永遠の命かに分かれるのです。
善を行った者も悪を行った者も裁きを受ける、と言います。けれども、父なる神の御心は、「すべての人が父を敬(うやま)うように、子をも敬うようになる」(23節)ことです。もしも子であるイエス・キリストが、悪を行った者に単純に有罪判決の裁きを下すならば、人は子なるキリストを恐れこそすれ、敬いはしないでしょう。敬わせようと思ったら、主イエスは、私たちに、永遠の死という判決を決して下さないはずです。いや、私たちの罪のために、主イエスご自身が、永遠の死という罰を十字架の上で受けてくださったのです。それほどに私たちの罪を負って、私たちを愛しておられることを示してくださったのです。
だから、罰はもう済んでいる。後は、私たちが愛されていることに気づくだけです。主イエスはそれを待っている。私たちが信じることを待っている。今、私たちが決断することを待っている。“待つ”ということが、主イエスの裁き主としての姿勢です。
だから、「今」という時は今日だけではない。今日を逃したら、明日もまた主イエスは“今でしょう!”と言って待っておられる。一度信じた私たちが、信仰を踏み外す時もあるでしょう。けれども、その時、主イエスは、“悔い改めるのは今でしょう!”と今日も明日も明後日も待っていてくださるでしょう。
敗者復活、死者復活のチャンスは、明日も明後日も‥‥永遠です。主イエスの「今」は永遠です。だからこそ、“いつか”ではなく、私たちの信仰は「今」でしょう。



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