坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2018年4月22日 主日礼拝説教(大人と子供)「自分を捨て、自分の十字架を背負って」

聖書 ルカによる福音書9章21〜27節
説教者 山岡 創 


9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」



     「自分を捨て、自分の十字架を背負って」
 “片栗粉”‥‥って、皆さん、ご存じでしょうか?‥‥もちろん知っているよ、と思われるでしょう。でも、その片栗粉ではありません。“栗”はクリスチャンを指しています。そして、片栗粉というのは、色んなクリスチャンがいる中で、ある種のクリスチャンを表わしています。さて、どんなクリスチャンでしょう?‥‥これは、両親のうちどちらか(片)方がクリ(栗)スチャンである子(粉)供のクリスチャンのことです。
最近、娘がこういう言葉をネット上で見つけて来ました。では、モンブランって何だと思いますか?‥‥栗が1個、ケーキ全体の頂上に乗っているので、これは家族の中で孤高のクリスチャン、自分だけがクリスチャンという人を言うのだそうです。
では、栗ごはんは何でしょう?‥‥これは、飯(召し)の中に栗が入っている、ということで、井田さんのように、神さまの召しの中を歩んでいるクリスチャン、献身者のことを言います。
 いちばんおかしかったのがマロングラッセ。何だと思いますか?‥‥これは、砂糖でコーティングされた砂糖漬けの栗ですから、甘〜い信仰生活をしているクリスチャンのことだそうです。おもしろいのですけど、ドキッとさせられますね。
 他にもいくつかあるようですが、いずれにしても栗は栗です。そして、栗には栗としての生き方、栗らしい生き方があると思うのです。
 相田みつおさんという書道家であり詩人の方がいます。相田さんの作品に〈みんなほんもの〉という詩があります。
  トマトがねえ トマトのままでいれば ほんものなんだよ
  トマトをメロンに見せようとするから にせものになるんだよ
  みんな それぞれにほんものなのに 
  骨を折って にせものになりたがる
 この詩を聴くと、“あぁ、そうだよなぁ”と感じさせられます。トマトはトマトのままでいい。トマトらしく生きる。“自分”を生きる。栗も栗らしく生きる。今日の聖書の御(み)言葉は、そのように語りかけているように、私には感じられます。

 「神のメシアです」(20節)。直前の箇所で、ペトロが、イエス様は何者か?という問いかけに対して、このように答えました。メシアとは、旧約聖書の原語であるヘブライ語で“キリスト”のことです。救い主のことです。
 この答えを受けて、今日の聖書箇所で、主イエスは、ご自分のことを“キリスト”と信じて信仰告白する者は、どのように生きるかということを教えています。口(信仰告白)だけではないクリスチャンとしての生き方です。
 主イエスは弟子たちに言われました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。
 ハッとさせられます。私は主イエスについて行きたいと願っているだろうか?十字架を背負うような生き方は大変だ、したくない‥‥‥クリスチャンでありながら、どこかで、そう考えている自分がいます。
 けれども、主イエスの御言葉をよく考え、人生に照らし合わせたら、自分を生きる道はそれ以外にない、“ほんもの”として生きる道は、そこ以外にないと思うのです。
 主イエスは十字架に架けられて死にました。ユダヤ人の民衆を、特に弱い立場にある人を苦しめている律法の解釈に反対し、自分たちの利益を守っている神殿礼拝に反対し、律法に込められた神の御心(みこころ)を汲み取って、教えを宣べ伝え、隣人を愛し、特に疎外された、弱い立場にある人を救われました。その生き方が、長老、祭司長、律法学者たちの癇(しゃく)に障り、主イエスは彼らに排斥(はいせき)されて、無実の罪で十字架に架けられ、殺されることになったのです。
 そのような道を歩んでいる主イエスが、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われるのですから、私たちの中には、躊躇(ちゅうちょ)tする思いが湧いて来ても不思議ではありません。そんな十字架、私には背負えない、と。
 そのように躊躇し、できれば背負いたくないと思う時、私たちは、自分の十字架というものを、何か重い、特別なものと考えていると思います。何か特別な出来事、面倒な人間関係、心に重くのしかかる悩み苦しみ、重大な病‥‥そういったことを、私たちは考えているのではないでしょうか。
 その考えが、まるっきり間違っているとは思いません。けれども、主イエスは、自分の十字架とは「日々」背負うものだと言われています。つまり、毎日のことです。日常的なことです。一日一日、その日の生活を背負って行くのです。それは一言で言えば、自分の人生そのものを背負って生きる、ということではないでしょうか。重い出来事もあるかも知れない。面倒な人間関係もあるかも知れない。嫌な仕事もあるかも知れない。苦しい病もあるかも知れない。けれども、嬉しいことや楽しいこと、感謝なこともあるかも知れない。そういったことをすべて含めた自分の人生そのもの、それが「自分の十字架」なのだと、今日の御言葉から私は示されました。
 だから、自分の十字架を背負って生きるとは、自分の人生から逃げずに、引き受けて、淡々と、祈りと感謝を忘れずに生きていく、ということなのだと思います。
 私たちは時折、自分の人生に愚痴や不満をもらしたくなります。自分の人生から逃げたくなることもあります。けれども、そういう自分が“捨てるべき自分”でしょう。こんなはずではなかった。こうしたいのに、こうなりたいのに‥‥そう思って、自分の人生を呪ったり、だれか人や環境や社会のせいにしたくなることもあります。でも、それが“捨てるべき自分”でありましょう。
とは言え、そう簡単には捨てることができません。相田みつおさん流に言えば、“人間だもの”(簡単にはいかないよ)ということでしょう。ある意味で、そういう優しさを自分に持ちながら、けれども、そういう自分と向かい合い、捨てる闘いをしながら生きていく以外に、私たちには、自分の十字架を背負って生きる道はない、自分を生きる道はないと思うのです。

 そのような意味で、自分の十字架を背負って生きるということは、“置かれた場所”で生きる、ということでありましょう。カトリックのシスターであった渡辺和子さんが、今では一般の方にもよく知られた詩を紹介しています。
神が置いてくださったところで咲きなさい。
仕方がないとあきらめてではなく、「咲く」のです。
  「咲く」ということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです。
  「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、
  私はしあわせなのだということを、示して生きることです。
  神が、ここに置いてくださった。
  それはすばらしいことであり、ありがたいことだと、
  あなたのすべてが語っていることなのです。
  置かれているところで精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。
  神が置いてくださったところで咲きなさい。
ラインホールド・ニーバー(渡辺和子・訳)
 主イエスにも“置かれた場所”がありました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。主イエスは、旧約聖書によって示された神の御心を受け止めて、このように預言されました。これが、主イエスの“置かれた場所”、自分の人生、自分の十字架です。そして、主イエスもまた、「御心なら、この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください」(ルカ22章42節)と祈り、苦しみながらも、自分の十字架を背負って最後まで歩まれました。
 私たちにも、自分が置かれた場所があります。置かれた人生があります。その場所を生きるのは“私”です。その舞台の主人公は“自分”しかいないのです。
 そして、もし自分の人生を“神が置いてくださったところ”と信じなるなら、神さまが無意味なことをするはずがない、と信じられる。ご自分の十字架を背負われた主イエスが、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章30節)と言って、私たち一人ひとりと並んで軛を付け、共にいて、私たちの“自分の十字架”を一緒に担ってくださる、と信じられる。神が共にいて、見守ってくださる、支えてくださる、導いてくださる、と信じられる。その信仰があれば、私たちは、“だいじょうぶ”と、自分の人生を引き受けて生きることができる。“神さま、今日もよろしくお願いします”とゆだねて、精一杯、淡々と生きる道が拓(ひら)かれる。愛と感謝の花を咲かせることだって、できる。それが、「三日目に復活することになっている」と主イエスが言われたクリスチャンの生き様です。
 クリスチャンは復活します。復活できます。暗いトンネルの中を歩いているかのような、暗雲が垂れこめる嵐の下を歩いているかのような自分の人生にも、“三日目の復活”を神さまが用意してくださっている。そう信じて生きるところに、クリスチャンの希望があります。クリスチャンである私たちが“自分”を生きる道があります。それが、主イエスに従うということです。


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