2024年6月23日 主日礼拝説教
聖 書 マタイによる福音書9章9~13節
説教者 山岡 創牧師
◆マタイを弟子にする
9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人(ちょうぜいにん)や罪人(ざいにん)も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13『わたしが求めるのは憐(あわ)れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
「はじかれた人と一緒に」
「罪人」(11節)、これは当時のユダヤ人社会において、ユダヤ教の掟(おきて)である律法を守らない者に貼り付けられるレッテルでした。「徴税人」は盗むかのように税を集める者として「罪人」の代表と見なされていました。「罪人」は人間としての価値がなく、神さまに愛される資格がなく、神さまに呪われ、見捨てられた者と見なされたのです。
特にユダヤ教の主流派であるファリサイ派は、徴税人や罪人を嫌(きら)いました。なぜなら、彼ら自身は掟を厳格に、熱心に守る人々だったからです。だから、自分たちは、神さまに愛される立派な人間だと自負していました。そして、掟を守れない徴税人や罪人を忌(い)み嫌い、蔑(さげす)み、決めつけ、一緒に食事をすることなど決してありませんでした。
ところが、主イエスは、徴税人や罪人と同席し、喜んで一緒に食事をなさったのです。なぜなら、神さまの求めるものが「憐れみであって、いけにえではない」(13節)ことを知っておられたからです。
*
『たいせつなきみ』という絵本があります。ウイミックスという人形の村が舞台です。その村で、人形たちはお互いに金ぴかシールと灰色のシールを貼り付け合って生活していました。優れている、かっこいい、美しい、価値があると思ったら金ぴかシール。反対に、できない、汚い、ださい、価値がないと思ったら灰色のダメじるしシール。
ファリサイ派の人々は徴税人や罪人に、言わばダメじるしシールを貼り付けていました。そして、自分たちはお互いに金ぴかシールを貼り付け合っていたのです。自分たちはすばらしい。価値がある。神さまに愛される資格がある!と。
パンチネロという人形がいました。灰色のシールばかり貼られていました。傷ついていました。自信を失っていました。自分には何の価値もないと落ち込んでいました。
彼はある日、ルシアという人形と出会います。彼女の体には1枚のシールも貼(は)り付けられていません。誰かが貼ろうとしてもはがれ落ちるのです。どうして?!‥‥丘の上に住んでいる人形造り職人エリに会いに行けば分かる。彼女はそう教えてくれました。
パンチネロは勇気を出して、エリに会いに行きます。そんな彼にエリは、きみのことがとても大切で、愛していると語りかけます。
これから毎日わたしのところにおいで。‥‥この手でつくったからおまえはたいせつなんだってことを、わすれちゃいけないよ。それからわたしは失敗しないってこともね。
(『たいせつなきみ』ForestBooks、31頁)
帰り際、信じたパンチネロの体から灰いろのシールが1枚、はがれ落ちるのです。
*
主イエスが語っている神の憐れみとは、こういうことだと思います。人間の貼り付けたレッテルなんて関係ない。神さまはその人のことが大好きです。ご自分が丹精込(たんせいこ)めてお造(つく)りになり、命を授(さず)けた存在だから大切なのです。一人ひとりが異(こと)なっている私たちを大切に受け入れてくださるのです。それが神の憐れみです。“愛”です。
徴税人マタイは傷ついていたのでしょう。だれからも愛されず、人間の価値なし、神に愛される資格なしと見なされ、差別されることがどんなに苦しいことか。そんな自分を無条件に受け入れ、愛する神の憐れみがどんなに嬉しかったか。「わたしに従いなさい」(9節)には、人を差別せず愛し、受け入れる神の憐れみが込められています。だから、彼は従った。その時、マタイの人生は人間の灰色から“神ゴールド”に変わったのです。
そして、そのような“愛”があるからこそ、大勢の徴税人や罪人が主イエスのもとにやって来たのです。傷ついた、魂(たましい)に痛みを抱える「病人」(12節)だからこそ、主イエスという魂の「医者」(12節)のもとに“愛の治療”を受けるためにやって来たのです。
けれども、ファリサイ派の人々は徴税人や罪人を蔑み、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と食事を共にするのか」(11節)と主イエスを非難しました。
私たちは痛みを感じて主イエスの愛を必要とする「病人」でしょうか?あるいは、神の「憐れみ」に癒(いや)されて、愛の道を歩こうとする「弟子」でしょうか?それとも、「いけにえ」をささげ、神の掟を守りながらも、愛を失い、冷たく人を裁(さば)き、“罪人”とレッテルを貼る「丈夫な人」「正しい人」なのでしょうか?
いずれにせよ、一つ言えることは、私たちは現代社会、また教会において、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(13節)という御言葉(みことば)を、絶えず学び続ける必要がある、ということではないでしょうか?
*
主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と弟子たちに言われました。私たちは、どんな時でも自分は主イエスに愛されていることを学ぶことが必要です。神の憐れみ、愛の下で、自分の価値を取り戻し、喜び、感謝し、平安と勇気を抱いて生きる道に立ち帰ることが必要です。そしてそれ故に、神の愛の下に、互いに愛し合うことを学ぶ必要があります。身近な関係において、自分と違う人を受け入れることを学ぶ必要があります。
一つ具体的なことを考えてみました。例えばLGBTQという事柄です。性的少数者を包括的(ほうかつてき)に指す総称です。レズビアン、ゲイ、バイセクシャルという3つの性的指向とトランスジェンダー(性同一性障がい)、最近ではクエスチョニング(Q)と言って、自分の性や性的指向が分からず、定まっていないという在り方もあるようです。
LGBTQは欧米をはじめ、世界の多くの地域で、間違ったことと認識され、罪、病気、文化への裏切りと見なされる傾向が今も根強いと思われます。そのために、当人は人に言えず、苦しみと不安を心に抱え、傷つき、死にたいとさえ思いながら生きている人もいます。特に欧米などのキリスト教圏では、やはり聖書の創造物語において、神さまが人を、男と女に創造されたという記述の影響は大きいと思います。
けれども、もしも現代社会に主イエスがおられたら、彼らに向かって、あなたがたは「罪人」だと非難されただろうか。むしろ、あなたがたも、愛されている“神の子”だと言って受け入れるのではないでしょうか。自分で性的な関係を乱し、退廃してそうなったのなら話は別ですが、生まれながらに性的な指向がそうだった、自分の性に対する意識が逆だったというのなら、それは本人の責任とは言えないのではないか。神さまがその人をそのようにお造りなったのだと考えてはいけないでしょうか。
20人、いや10人に一人がLGBTQだと言われる時代です。私たちの教会にもそういう人がおられるかも知れません。そして、その人が周(まわ)りに言えず苦しんでいるとしたら‥‥。私たちは神の「憐れみ」を学び、実践する必要があるのではないでしょうか。
LGBTQの人だけではありません。私たちが「罪人」だと決めつけている人がいるとしたら、悔い改めて愛を学びましょう。それが主イエスの求めておられることです。
リンク インスタグラム