坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「隣人愛は天国への鍵」

2026年8月2日 主日礼拝説教                   
聖 書 マタイによる福音書25章31~46節
説教者 山岡 創牧師

◆すべての民族を裁く 31「人の子は、栄光に輝(かがや)いて天使たちを皆(みな)従(したが)えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民(たみ)がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33羊を右に、山羊を左に置く。34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福(しゅくふく)された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35お前たちは、わたしが飢(う)えていたときに食べさせ、のどが渇(かわ)いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸(か)し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪(たず)ねてくれたからだ。』37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪(たず)ねしたでしょうか。』40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪(のろ)われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46こうして、この者どもは永遠の罰(ばつ)を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
「隣人愛は天国への鍵」
 “おたくに分けてやるカボチャはないねえ”。知り合いのところにカボチャを分けてもらいに行った辻 宣道(つじ・のぶみち)少年は、冷たく突き放されました。太平洋戦争中のことです。
 当時、キリスト教の諸教派(しょきょうは)は宗教団体法によって日本基督教団(にほんきりすときょうだん)として一つにまとめられ、戦争に協力させられました。その中でホーリネス系の教会は、現人神である天皇よりも天から再来するキリストの方が偉(えら)いと告白したために迫害(はくがい)され、教会は解散、牧師は投獄(とうごく)されました。辻少年の父親は弘前(ひろさき)にあるホーリネスの教会の牧師でした。
 働き手がおらず、食べるものがない。母親に言われて、辻少年は知り合いを訪ねました。関わりのない人ではありません。それどころか元教会役員でした。けれども、その人は、まるで手のひらを反すかのように拒否したのです。人間、いざとなれば信仰もヘッタクレもなくなるのか‥‥少年はショックを受け、心に深いしこりが残りました。後に牧師となり、日本基督教団総会議長も務めた辻宣道先生の少年時代の出来事です。
 その時、辻少年は「この最も小さい者の一人」(40節)でした。けれども、保身のためか、それとも信仰を棄てたのか分かりませんが、元教会役員だったその人は飢えた辻少年家族を見捨て、食べさせることをしませんでした。
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 ところで、マタイによる福音書24章から世の終わりに備えることを主イエスは弟子たちに語って来ました。世の終わりの時には、キリストであるご自身が天から再来し、救いに選ばれた人たちを呼び集める。しかし、その時はいつ起こるか、だれにも分からない。だから、目を覚(さ)まして用意していなさいと主イエスは教えました。
 その用意とはどのように生きることなのか。続く25章で、主イエスは3つのたとえによって語っています。〈十人のおとめ〉のたとえによって、代わりのいない自分の人生を主体的に、責任を持って生きること。〈タラントンのたとえ〉によって、神を信頼し、自分の人生に与えられた大きな価値を信じて、人と比べずに自分を生きること。二つのたとえから、私は、用意としてそのように生きることを教えられました。
 そして、キリストを迎(むか)える用意としての生き方は、「最も小さい者の一人」に対する愛の行為に極(きわ)まることが〈すべての民族を裁(さば)く〉というたとえによって示されるのです。
 世の終わりの時に天から再来する「人の子」キリストは、「すべての国の民を」(32節)自分の前に集め、裁くといいます。その場で、天の国の王であるキリストは、すべての人々を、神の国を受け継(つ)ぐ人と、そこから拒絶される人とに選(え)り分けます。その基準となるのが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人に」「した」(40節)「しなかった」(45節)かです。困窮(こんきゅう)していた時に食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、訪(たず)ねたか、それともしなかったか。それによって神の国への裁きは決まるのです。
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 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」。これはいったいだれのことなのでしょうか?最も小さい者という言葉から、現代的には社会の中で困窮している人や立場の弱い人と捉(とら)えられてきました。もちろん、もちろん、その理解は間違いではありません。
 けれども、当時の背景を考えると、少し違うものが見えて来ます。キリストが「わたしの兄弟」と呼ぶのはだれでしょうか?それは、イエスを救い主キリストだと信じている弟子たち、クリスチャンのことなのです。
 マタイによる福音書10章で、主イエスは、宣教(せんきょう)のために遣(つか)わされた弟子たちが帰って来た時に、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣(つか)わされた方を受け入れるのである」(40節)と教え、最後に、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報(むく)いを受ける」(42節)と断言しました。まさに今日の聖書個所と重なり合います。
 時は迫害の時代でした。キリストの弟子、クリスチャンだというだけで迫害されました。逃げるほかはない。食べ物も飲み物も着る物もない。家を失い、泊まるところもない。やがて捕らえられ、牢に入れられる。そんな人に、だれが食べさせるでしょう?だれが宿を貸すでしょう?だれが牢に訪ねるでしょう?キリスト教信仰に反対ならもちろん、保身のためにもそんな危険なことはできないのです。まさに、辻宣道少年です。
 けれども、そういう社会の迫害状況の中で、キリストの弟子に冷たい水一杯を飲ませてくれた人がいたのです。何のメリットもない、見返りもない、むしろ自分も罰されるかも知れない。それでも食べさせ、泊まらせ、訪ねてくれた人がいたのです。それは目の前の人に対する憐(あわれ)みの心のゆえ、愛のゆえです。
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 神の国に選ばれた人たちは、王たるキリストの言葉を聞いて不思議そうに尋ねます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ(たでしょうか」(37節)。彼らは身に覚えがない。キリストにそのようにした覚えはない。つまり、相手を選んでいない。相手がキリストだからそうしたのではない。この人ならば見返りがあるだろう、自分が得をするだろう。彼らはそんなことを考えてしたのではありません。
 見返りなんてない。得なんてない。むしろ危険だ。関わらない方がいい。損得計算をしたらそういうことになります。だから、彼らを動かしたものは全く別のところにありました。目の前にいる人が飢えていたから、渇いていたから、裸だったから、宿がなかったから、牢に入れられて不安で孤独だったから、計算を超えて気持ちが動いたのです。目の前の人の必要に少しでも応えよう、苦しさに少しでも寄り添おう、その心を少しでも温めよう。憐(あわれ)みの心が、愛の思いがそうさせたはずです。そんな、見返りを求めない、損得を計算しない愛の行為が、キリストの心を感動させたのです。
       
 ヨハネの手紙(一)の著者は、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要なものに事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3章16~18節)と語りました。愛することは相手を選ばないのです。見返りを求めないのです。状況に左右されないのです。それは命を捨てるということ、“自分”を捨てるということです。
主イエス・キリストご自身が、十字架に架かり、命を捨てて私たちを愛してくださいました。その愛を信じる私たちだからこそ、主に従い、隣人をそのように愛したいのです。誠実にしようと思うほど難(むずか)しくなります。でも、だからこそ「わたしにしてくれたことなのである」(40節)と言われる価値があります。追い求める価値があります。
 私たちは、家にお客さんを迎える時、用意をします。その人との親しい信頼関係は既にできていますが、だからと言って用意せずに迎(みか)えはしないでしょう。迎える礼を尽(つく)くします。キリストを迎えることも同じです。既(すで)に恵みと信仰によって救いの関係はできています。でも、キリストがやって来るならお迎えする用意をするでしょう。愛を追い求め、愛の礼をもってキリストを迎える。その生き方こそ最高の用意です。

 

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