坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「善をもって悪に勝つ」

2026年8月9日 平和聖日礼拝説教                   
聖 書 ローマの信徒への手紙12章17~21節
説教者 山岡 創牧師

17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19愛する人たち、自分で復讐(ふくしゅう)せず、神の怒(いかり)りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇(かわ)いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
「善をもって悪に勝つ」
 もし運転手が人をひき殺そうとしていたら、バスに乗っている人間は皆で止めるだろう?‥‥なぜヒトラー総統(そうとう)のお考えに刃向(はむ)かうのか?ナチスの党員の問いにボンヘッファーはこう答えました。ヒトラーが率(ひき)いるナチスのやろうとしていることは、ボンヘッファーにはそのように思われたのです。きっと、だれもがそう考えたでしょう。
 映画『ボンヘッファー ~ ヒトラーを暗殺しようとした牧師』のDVDを視聴する会が7月26日(日)の午後に行われました。12名が参加して、この映画を観(み)ました。
 世界恐慌の直後、生活に苦しむドイツの国民をヒトラーのナチスが支配した時代です。その政策は次第に右傾化し、遂(つい)に1939年、ドイツはポーランドに侵攻(しんこう)し、更(さら)にイギリスやフランスに対しても開戦します。また、国内政策としてはユダヤ人を迫害し、収容所に送り、大量虐殺(ぎゃくさつ)するホロ・コーストを行いました。そのようなヒトラーを、ナチス党員だけではなく、ドイツ国教会が “キリストの再来”として崇(あが)めるようになったのです。
 ドイツ国教会の姿勢に対して、ボンヘッファーをはじめとするドイツ告白教会は異を唱えました。そして、ナチスの政策そのものに反対するようになり、ナチスの暴走を止めるために、ボンヘッファーはヒトラー暗殺計画に賛成し、その一員になるのです。
その際、彼の親友であり、牧師であったベートゲは反対しました。“我々は善をもって悪に勝つべきではないか!”。彼はそう訴えたのです。おそらく今日の聖書の御言葉が、この発言の元にあります。いや、そのとおりです。そのとおりなのですが、短絡的にボンヘッファーを非難し、否定することはできないと思いました。そんな複雑さ、矛盾を、私だけではなく、映画を観た人はたぶん感じたのではないでしょうか。
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 キリストの使徒であるパウロは、ローマの教会の信徒たちに語りかけます。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(17節)。それが、平和を造り出し、平和に暮らす道だからです。
 人間関係が険悪になって来ると、相手を否定したり、攻撃したり、陥(おとしい)れようとしたり、何かしら相手に実害を与えて困らせようとする人が出て来ます。それでその人は“ざまあ見ろ!”とほくそ笑むのです。けれども、事はそれで終わらない。やられたら、悔(くや)しさ、怒(いか)り、憎(にく)しみ、恨(うら)みが湧(わ)いて来る。何らかの形で仕返しをする。そこに“やられたら、やり返す”“悪に悪を返す”という構図が、少しオーバーに言えば、“復讐の構図”が生まれます。だから、平和に過ごすことができないのです。
 クリスチャンであるローマの信徒にさえ、パウロは「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)と言います。当時の教会とクリスチャンは迫害を受けていました。意地悪をされる。悪口を言われる。殴(なぐ)られ、奪(うば)われることもある。家族がひどい目に遭(あ)わされることもある。もっとエスカレートすれば捕(と)らえられ、投獄されることもある。その原因がだれかのいわれのない誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)だったりする。そんな理不尽(りふじん)すぎる扱(あつか)いを受けたのです。
 どうやってこみ上げる気持ちを抑えることができるでしょうか。どうしたら悪に悪を返さず、復讐せずにいられるでしょうか。やり返したくなるのも無理はないのです。だから、パウロも「できれば」(18節)と言うのです。愛を追い求めて生きるクリスチャンでさえ、そうなのです。まして、独善的なユダヤ人や信仰を持たない異邦人はなおさらだったでしょう。
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 けれども、パウロの「できれば」は、“できなくても仕方がないよ”というあきらめや消極的な生き方を語ろうとしているのではありません。もしもあなたがたが神を信頼し、神に任せるならば、人間には不可能でも、神にはできる。信仰を通して働く神の霊と力によって、あなたもできるようになる、という励ましであり、エールなのです。
 どうしてそのような生き方が可能になるのでしょうか。本当はやり返ししたいけど、自分にはそんな力はないから‥‥といったあきらめといじけた消極性ではありません。やり返したいという気持があるうちは、復讐(ふくしゅう)の心に捕(とら)えられています。不自由です。
私たちは復讐の心から解放され、自由になる道を知っています。その道しるべは、次の御言葉(みことば)です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる、と書いてあります」(10節)
 やられたらやり返したい気持が湧いて来る。当然やり返す権利が自分にはあると思う。けれども、そうではない。悪を行った相手に対する裁(さば)きは自分のなすべき仕事ではない。それは、神さまのなすべき事である。自分以上に相手の悪を神さまはご存じであり、自分以上に神さまは怒っておられる。何もせずに見過ごすはずがない。神さまが裁きを行われる。だから、自分は復讐の権利を神さまにお返しし、神の正義におゆだねする。その神への信頼と信仰が、復讐の連鎖を断ち切るのです。人を復讐の心から解放するのです。平和に暮らせるようになるのです。
 その信仰と生き方は、悪に対する勝利であり、ある意味では“愛”だ、とも言えます。なぜ愛なのか?「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節)。自分に悪をなす敵に食べさせ、飲ませる。これは、主イエスが隣人愛を教える際(さい)に語られた〈善いサマリア人のたとえ〉と同じです。サマリア人が大嫌いなユダヤ人を、大けがをしているのを見て助け、宿屋まで運ぶ。それは善によって、愛によって、敵に食べさせ、飲ませる行為そのものです。
 もしその相手が“ラッキー!こいつは愚(おろ)か者だ”と考えるような人間なら論外です。なぜ敵である自分にこうまでしてくれるのだろう?疑問が湧き、迷いが生じ、悪をなした自分の心に良心の呵責(かしゃく)が生まれる。その呵責こそ「燃える炭火」として“お前はそれでいいのか?”と心を焼くように問いかけて来るのです。
そして、この善と愛は、相手の心を変化させ、こちらに善と愛を返すようになるきっかけになるかも知れません。もちろんすべての人がそのように変わるわけではありませんが、善と愛という炭火は、人の心を温めて、開かせる優しさにもなり得るのです。
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「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。平和への道は、善をもって悪に勝つことです。自分を迫害する者のために祝福を祈ることです。そんなことができるでしょうか。パレスチナ人の産婦人科医アブラエーシュ氏のように、娘と姪を3人殺されながら、それでもイスラエル人を呪わず、国境を超えてイスラエルの妊婦から毎日、新たな命を取り上げるようなことができるでしょうか。目の前の人が、愛する人が理不尽に虐殺されても、神にゆだね、善に生きることができるでしょうか。
そんな極端なケースは私たちにはないかも知れない。でも、私たちも自分が置かれた場所で、日常の人間関係で、それが問われるのです。神にゆだねる信仰と祈りを、小さな善と愛を積み重ねていきましょう。それが、私たちを平和の道へと導きます。

 

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