坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年7月8日 主日礼拝「良心と体面の狭間で」

聖書 マルコによる福音書6章14〜29節
説教者 山岡創牧師

◆洗礼者ヨハネ、殺される
6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。


      「良心と体面の狭間で」
「わたしが首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」(16節)。主イエスの噂が耳に入った時、ヘロデはこのように漏らしたと言います。一見、ヨハネと非常によく似た宣教活動をする主イエスのことを、ヘロデは、ヨハネの生き写しだと感じたのでしょう。“あの男は誰なのだ?。ヨハネが生き返ったのではないのか?。奴は、私に恨みを晴らそうとして生き返ったのだ”。ヘロデは、ヨハネを理不尽に処刑した後ろめたさから、そんな恐れと焦りを感じたのでしょう。人間は、後ろめたいことがあると、自分に関係のないはずのことも、自分に関連付けて悪く考えるものです。

さて、今日の聖書箇所は時間を少し遡ります。今日の聖書箇所には、ヘロデが主イエスの噂を聞いて不安を覚えた理由として、ヨハネという人を捕らえ、処刑した経緯が記されています。実は、このヨハネが捕らえられたのは、主イエスが神の教えの宣教活動を開始される前のことなのです。

マルコによる福音書1章に、ヨハネの活動の様子と、彼が捕らえられたことが記されています。ヨハネは「洗礼者ヨハネ」(1章4節)と言われ、その通称の通り、ヨルダン川で洗礼運動を展開した人です。今日、教会においても神さまとの契約のしるし、救いのしるしとして行われる洗礼ですが、当時は、異邦人がユダヤ教に改宗する儀式として行われていました。ところが、ヨハネは、ユダヤ教徒であっても罪を抱えているのだ、その罪を神さまに赦していただくためには、心からの悔い改めが必要なのだ、だから悔い改めのしるしとして洗礼を受けるように、とユダヤ人に宣べ伝えていたのです。そして、このヨハネの噂を耳にし、ヨハネの教えを聞いて、多くのユダヤ人がやって来て洗礼を受けたと言います。主イエスもこのヨハネから洗礼を受けているのです。

ヨハネはいわゆる“カリスマ”でした。当時の人々は、ヨハネのようなカリスマ的存在を“預言者”と呼んだようです。神の言葉を語るカリスマ的な預言者が、救世主が待望された時代でした。

後の教会は、このヨハネを、旧約聖書・マラキ書に預言されている、神さまの許から遣わされた主イエスの“先駆者”と受け止めました。主イエスの歩む道を先に整えておいたのだ、というふうに。そして、このヨハネが捕らえられた後(1章14節)、主イエスはガリラヤ地方に行って、宣教活動を開始されたのです。

ですから、今日の話は本来この6章に位置するよりも随分前の話になるわけです。

この洗礼者ヨハネがどうして捕らえられ、処刑されることになったのか。事の発端は、ヨハネがヘロデに対して、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(18節)と、ヘロデの行為をはっきりと非難したからです。

ヘロデは自分と異母兄弟の関係にあるフィリポの妻であったヘロディアと結婚していました。奪い取って妻にしたと言われています。その行為が、ユダヤ人が神の言葉、神の御心として奉じている律法においては許されていないと、つまり神さまはお許しにならない、とヨハネははっきりと言ったのです。

旧約聖書の律法の箇所で、レビ記18章を開きますと、そこには家族や近親との性的関係を禁じた戒めが列挙されています。その16節に、「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」と命じられています。ヨハネは、ヘロデのした行為がこの戒めに反するものとして非難したのです。

レビ記18章を読みますと、神の民であるユダヤ人が、このような人でなしの行為をしたのだろうか、という驚きと、同時に神の民と言われる人々であっても、神の言葉を聞かず、自分の欲望に走り、家族関係を壊す、親しい人間の人格を傷つけるような行為をしていたのだ、だからこの戒めがあるのだと、人間の罪深さ、闇の部分を感じさせられま。そして、そのような行為は現代においても、ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)、ネグレクト(虐待)と呼ばれる形で起こっているのです。現代においても、その行為は、家庭を破壊し、相手の人格に取り返しのつかない傷を負わせ、人生を真っ黒に塗りつぶします。それによって苦しみと悲しみに満ちた人生を歩まざるを得ない人がどれほど現代社会にもおられるでしょうか。

ヘロデの行為もそれでした。だからこそ、ヨハネは、人の内に巣食う罪に、人の闇に、真っ向から反対しているのです。それは間違いだ!、罪だ!、そこに喜びはない!、愛はない!、光はない!と言って。

ヨハネはヘロデの行為を真正面から非難しました。私はその勇気に打たれるものがあります。それは、自分の命を懸けた言葉だと言って良いでしょう。なぜなら、ヘロデとは強大な権力者だからです。彼はガリラヤとペレア地方の領主でした。当時ユダヤ人はローマ帝国に支配されていましたので、ユダヤは独立した国ではなかったのですが、ローマは支配した民族や地域の自治権は認めていましたので、ヘロデは領主として君臨していたのです。

その大権力者の行為を真っ向から非難する。首が幾つあっても足りないかも知れないのです。ヨハネとて、そのように言えば、自分の命が危ういことぐらい十分承知していたでしょう。それでも、遭えて彼は、神に代わって非難したのです。

正しさをもって、相手の間違いを指摘したり、注意したりすることは、本当に難しいことです。相手と自分が大した関係でもなく、相手をバッサリと切るつもりなら、非難することはいくらでもできる。けれども、自分と相手が親しい間柄であったり、何らかの利害関係があったりすると、正しい指摘や注意は難しくなります。例えば、部下であったら言えることが、上司に対しては言えないなんていうこともあると思います。上司に睨まれたら嫌だからです。損をするかも知れないからです。そんなふうに、私たちは家族に対しても、誰に対しても、自分より弱い相手、下の相手には平気で言えるけど、平気で言って実は相手を傷つけていたりするのだけれど、自分よりも強い相手、上の相手には言えないなんてことが少なからずあるのではないでしょうか。

けれども、ヨハネは時の大権力者に対して、はっきりと“あなたのしていることは罪だ、間違っている、律法では許されていない”と語ったのです。人を恐れず、人におもねらず、利害計算でも損得の問題でもなく、彼は語ったのです。そのまっすぐさ、その勇気はどこから来るのでしょうか。

それは、ヨハネが“神の前”に生きている、ということから来るのだと思います。

今日の聖書箇所の26節に、「客の手前」という言葉がありました。私は、この言葉を黙想しながら、その反対の“神の御前”という言葉を連想しまして、“ああ、そうか。客の手前に生きている者と神の御前に生きている者の違いだ”とハッとしました。

ヘロデの誕生祝いで、ヘロディアの娘が見事な踊りを披露した。喜んだヘロデは、望むままの褒美を取らそうと娘に言います。ところが、娘は母親のヘロディアにそそのかされて、何と「洗礼者ヨハネの首を」(24節)と望んだのです。それを聞いて、「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いをしりぞけたくなかった」(26節)とあります。「客の手前」、つまり高官や将校や有力者たちに自分がどのように見られるかを気にして、自分の威厳、体面、体裁を繕うために、ヘロデはヨハネを処刑してしまったのです。

ヘロデは、「客の手前」に生きていました。人の前に、人の目を気にして生きていました。人の目を気にすることが良い意味で必要な場合もあるでしょう。けれども、人の目を気にし過ぎると、自分らしく生きられなくなり、息苦しさを感じることがあります。それだけでなく、損得判断や利害計算が絡まって、人が生きるう上で大切な正義や愛、憐れみの心等に基づいて生きることができなくなるのです。

それに対して、ヨハネは“神の手前”に生きていたのでしょう。手前と言うよりは、“神の御前”と言った方が良いでしょう。もちろん、神さまは目には見えませんし、モノは言わないのですが、ヨハネは、神さまが自分に対して、どのように語り、どのように行動することを求めているのかということを、いつも意識していたでしょう。律法すなわち聖書の言葉を通して、ヨハネは自分の心に語りかけられている神の言葉に、絶えず耳を傾けながら生きていたのでしょう。そこに、人との利害関係や損得判断を気にしない、自由な、まっすぐな、勇気ある生き方が生まれてくるのです。

20節に、ヘロデがヨハネのことを「正しい聖なる人」と認めていたことが記されています。「聖なる正しい人」とはどんな人でしょうか?。それは、単に法律的に正しいとか、道徳的倫理的に清いということとは、ちょっと違うと思います。それは、ヨハネのように、神の言葉に耳を傾けながら、神の御前に生きようと志し、人の手前、恐れず、気にせず、おもねらず、自由に、まっすぐに生きている人のことを言うのでしょう。

そのようなヨハネの語る神の言葉を、ヘロデは、「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」(20節)と言います。当惑と喜び、何か矛盾しているようなおかしさを感じます。けれども、それが私たち自身の姿でもあるのではないかと私は感じます。

聖書の言葉、説教の言葉、すなわち神の言葉に当惑したことがないでしょうか?。私たちは、神の言葉を、自分自身の生活に照らし合わせ、自分の人生の幾分かでも懸けて、真剣に聞くならば、当惑せずにはおられないと思うのです。自分の経験や価値観にないことを言われて当惑する。自分の赤裸々な姿を示されて当惑する。自分にはできそうもないことを求められて当惑する。自分に迫って来る神の言葉の力強さ、重さに耐えかねて当惑するのです。神の言葉に耳を傾けて、その言葉に従って生きようとすればするほど、分からない、できないと困り果てるのです。そのために、時には自分をごまかし、神の言葉が聞こえているのに聞こえていない振りをする、蓋をしてしまうこともあると思うのです。

しかし、その一方で、私たちもまた、神の言葉に喜んで耳を傾けているということも嘘ではないのではないでしょうか。私たちの生きる社会には、不真実な言葉、嘘で塗り固めたような言葉、冷たい言葉で溢れています。そういう言葉と人との付き合いの中で、私たちは傷ついています。ヘロデもまた、王宮という場所で、おもねりの言葉、偽りの言葉しか聞こえてこないような人生の中で、もしかしたら真実なる言葉にハッと打たれ、喜んで聞いたのかも知れません。

私たちもまた、真実の言葉を求めているのではないでしょうか。正義と愛、正しさと優しさと、それは時には私たちにとってまぶしすぎるものですし、消したくなることすらあるかも知れませんが、それでも私たちは心のどこかで、それを語る言葉、神の言葉を求めて生きているのではないでしょうか。

誠実、無欲、色で言えば真白な人、不実、貪欲、色で言えば真黒な人、そんな人はいずれも現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。‥‥‥灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色と言うべきでありましょう。(藤木正三氏、『福音はとどいていますか』21頁)

「当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けて」いる人の姿に、私はこの言葉を思い起こしました。当惑しながらも、なお喜んで神の言葉を聞く。それで良いのです。それが私たちの真実な姿です。当惑せずにはおられない罪が、私たちの内にはあるのです。それでも、喜んで耳を傾ける思いを失わなければ良いのではないでしょうか。「人の手前」が私たちを支配しそうになるとき、“神の御前”を思い起こしましょう。


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