坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2007年7月1日 主日礼拝「旅には杖一本で」

聖書 マルコによる福音書6章6b〜13節
説教者 山岡創牧師

◆十二人を派遣する
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



        「旅には杖一本で」
先週、月曜日から水曜日にかけて、岩手県に旅をして来ました。もっとも、観光旅行ではありません。私たちの教会は日本基督教団というキリスト教団体・組織に属していますけれども、私は今、その教団の伝道委員を担っております。その伝道委員の働きとして、花巻市の土沢教会で開かれた“農(業)”に関する活動者協議会に参加して、農村伝道の現実を知り、その将来を考えると共に、土沢教会と、もう一つ花巻教会をお訪ねし、その伝道の様子をお伺いし、共に祈りを合わせて来ました。だから、観光のためではなく、“伝道”のために旅をして来たわけで、今日の聖書箇所の弟子たちがそうであったように、主イエスによって伝道のために遣わされた旅であったと言うこともできます。でも、せめて帰りがけに宮澤賢治の美術館ぐらい見て来るんだったなあ、と残念に思っています。

主イエスは、12人の弟子たちを遣わすにあたり、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず‥‥」(8節)と言われましたが、私は、いささか大き過ぎるぐらいのカバンに、たくさんの荷物を入れて旅に出ました。普通に2泊にするには多すぎる着替えを入れて行きました。なぜなら、早起きをして現地の町を走りたかったからです。だから、昼間着る服のほかに2回分のTシャツやジャージを持っていきましたし、ジョギング・シューズもかばんに入れていきました。そして、念願どおり土沢の町を走って来たのですが、駅のすぐ裏手に小高い丘があり、そこに土沢城址公園というのがありまして、その丘の上から見渡す風景は非常に気持の良いものでした。その他にも、新幹線の中で読む本を2冊、聖書と讃美歌、もちろんお金も持って行きました。
主イエスのお言葉とはずいぶん違っているなあ、と苦笑いしたくなります。もちろん、主イエスの言葉を文字通りに、真に受ける必要はないと思います。けれども、主イエスが弟子たちを遣わすにあたり、「旅には杖一本のほか何も持たず」と命じられた言葉の本当の意味は何でしょうか?。私たちは、現代に生きる主イエスの弟子の一人として、この言葉を通して語られる主イエスのメッセージを聞く必要あるのではないでしょうか。

その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。(8〜9節)

12弟子の中には、なぜ主イエスはこのような無理を言うのだろう、パンがなければ食べていけないし、袋がなければ必要なものを入れて持っていけないし、金がなければ食べ物を買うことも宿に泊まることもできないではないか‥‥と疑問に思った者がいたかも知れません。確かに、そのとおりです。けれども、注意すべきは、主イエスはここで、パンや袋や金は“必要ない”と言われたわけではないということです。そうではなくて、“持って行くな”と言われたのです。つまり、それらの物に“頼るな”と言われたのです。持って行けば、それらを当てにし、頼ることになる。けれども、本当に頼みとすべきものはパンでも、袋でも、金でもない。ただ神さまだけを頼みとして旅をせよ、と教えられたのだと思います。
主イエスは、ご自分が福音伝道の旅を始められる前に、荒れ野で過ごされました。マルコ福音書1章12節以下に記されています。荒れ野で主イエスは修業をされたのだという説もあります。ともかく、主イエスはそこでサタンの誘惑に遭いました。マルコ福音書には、その誘惑の内容は書かれていませんが、マタイによる福音書4章にその内容が出てまいります。
主イエスは荒れ野で断食の修業をなさいました。すると、そこにサタンが現れて、空腹を感じている主イエスに対して、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4章3節)とささやいたと言います。しかし、主イエスは次のようにお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4章4節)。

私たちはパンがなければ生きられません。パンに象徴される物やお金がなければ生きられません。けれども、それならば、パンさえあれば私たちは生きることができるのか。生命を維持するとか肉体的な面で、あるいは目に見える生活という面では、パンさえあれば生きられるという答えになるでしょう。けれども、パンを手に入れるということから欲望の問題が起こって来ます。その欲望がエゴを生み、人と人との間に争いを生じさせます。また、パンが思うように手に入らない場合もあるわけで、その時、私たちは落胆し、ともすれば絶望したり、人生をあきらめたりしてしまうこと起こり得るのです。そのような人生の問題と私たちはどのように取り組めば良いのでしょうか。パンがすべてだと思っていたら、物がすべて、金がすべてだと考えていたら、このような生き方に関わる問題には対処することができません。確かにパンは必要です。私たちはパンなしには生きられません。しかし、パンに左右されてはならないのです。パンに心まで支配されてはならないのです。すなわち、パンを人生最大の頼みとしてはならないのです。頼るべきものは、神の言葉です。聖書を通して語りかけられる神の言葉によって、私たちを“生かしてくださる”神の恵みを心に留めることです。必要なパンも、煎じ詰めれば神が与えてくださる恵みだと知ることです。この神の言葉に教えられ、導かれ、支えられて生きていく。すなわち、神さまを頼みとして生きる時、私たちは自分自身の内側にある問題を省みることができるし、生きる希望と勇気を失わずに進むことができるのではないでしょうか。

「旅には杖一本のほか何も持たず」と命じられた主イエスは、パンではなく神さまを頼みとし、第一として生きることの大切さを、弟子たちに、そして私たちに教えようとされたのではないでしょうか。
自分自身を省みて、私たちはどうでしょうか?。

我が家には5人の子供がいます。中2の長女を筆頭に、皆、大きくなってまいりました。これからますます食べるようになっていくでしょうし、また高校、大学と進学すれば、どれほど教育費が必要になるのか、想像もつきません。今後、家族7人どのように生活していくのか心配なところです。もうそろそろどうにかしなければならないね、と夫婦で話し合い、考えています。
けれども、今日の聖書の語りかけを聞きながら、私自身の中に、パンや袋や金を頼る思いが、それを第一とする気持が心のどこかになかっただろうか、パンに左右され、支配されていないだろうかと自分自身を省みさせられました。パンは必要、袋も金も必要です。けれども、それがすべて、それが第一とならないように、生きる上で大切なものを見失わないように歩みたいと思いました。

「旅には杖一本のほか何も持たず」と弟子たちを諭された主イエスは、更に言われました。

「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(10〜12節)

つまり、伝道の旅に出たら、その旅先で迎え入れてくれる家に“居候”をしなさい、と言われているのです。そんなことをしたら、その家の人に大きな迷惑をかけることにならないだろうか、と思います。実際、後の教会では、この主イエスの言葉に反するかのように、“人の家に厄介になる時は二日に限りなさい”と教えられたそうです。その方がもっともだと私たちも思うかも知れません。なぜ主イエスはこのように命じられたのでしょうか。

私は、これもまた、神さまを頼みとして生きる信仰を学ぶためではなかっただろうか、と思うのです。パンや袋や金を持って行けば、それらに頼って生活します。けれども、持って行かないのですから、旅先で誰かに頼る以外にありません。そこで迎え入れてくれる人がある。その人の親切とお世話に感謝する。けれども、そのようにして人に支えられることを通して、その人を通して神さまに支えられ、生かされていることを学ぶのです。生きるということが、自分の力だけで営まれるものと驕るのではなく、究極的には“神さまに生かされてあるもの”と深くわきまえ知るためではないかと思うのです。
そして、その家にとどまりながら神の恵みを宣べ伝える。けれども、うまく行かないこともしばしばある。相手が神の言葉を受け入れてくれない。神さまを信じてくれない。そんなことがいくらでもあったことでしょう。私たちも、そういう経験があるかも知れません。その時、神の言葉を受け入れず、信じなかった人に対する「証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」と言われる。

足の裏の埃を払い落とすというのは元々、ユダヤ人が異邦人の土地へ旅をして、そこからまたユダヤの地に帰って来た時に、異邦の地で受けた汚れを払い落とすという意味での象徴的な行為として行われたものです。それが転用されて、弟子たちの伝える神の恵みが受け入れられなかった際、不信仰という埃を払い落とすという意味で、そう命じられたのかも知れません。
けれども、この言葉をそのように受け取ると、何だか冷たい感じがします。“あなたたちが信じなかったのは、あなたたちの責任だよ。私には関係ない”と突き放しているような気がします。すべての人を、神の恵みによって忍耐強く救おうとされた主イエスの愛の心には、何だかそぐわない感じがします。

これはそのような意味で受け取るのではなく、これもまた神さまを頼みとして生きる信仰の心を学ぶためではないだろうかと思います。伝道がうまくいかない。信じてもらえない。失敗する。その時、私たちは意気消沈することがあります。責任を感じることがあります。自分が悪いのではないかと思います。真面目な、信仰に誠実な人ほど、そのために苦しみ悩みます。
けれども、主イエスは“それはあなたのせいではないのだよ”と、私たちを慰め、励ましてくださっているのではないでしょうか。そのために、伝道の心配は自分のせいだと自分を責め、落ち込んでしまう自責の気持は払い落としてよいのだよ、と語りかけてくださっているのではないでしょうか。伝道もまた、自分の力ですることではありません。できることではありません。神さまを頼みとして、自分も受けた恵みを人に伝えていく。ただ、その志さえあれば、あとは神さまにお委ねすべきことでありましょう。

主イエスに遣わされた弟子たちは、「出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」(12節)とあります。悔い改める、とはどういうことでしょう。単に反省したり、後悔したりすることとは違います。私は、パンや袋や金を第一としたり、自分の力を頼りにして生きている生き方から、神さまを第一とし、神さまを頼みとし、神さまにお委ねして生きる生き方へと転換することだと思います。
主イエスは、旅をするのに「杖一本」をお許しになりました。それは、神さまを頼りとする“信仰”という名の杖ではないでしょうか。私たちも、人生という旅を歩むために、信仰という杖を支えとして歩んで生きましょう。信仰という杖によって歩む姿、その姿こそ何よりの宣教、伝道になるのです。


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