坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2008年12月28日 主日礼拝「安らかに生きる」

聖書  ルカによる福音書2章22〜36節
説教者 山岡創牧師
◆神殿で献げられる
2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、

◆神殿で献げられる
2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
2:23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
2:24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
 

          「安らかに生きる」
 皆さんは、“もう死んでもいい!”と思うのは、どんな時ですか? 大好物がおなかいっぱい食べられた時? ずっと願っていたものが手に入った時? 望んでいた高校や大学に合格した時? 大好きな人と結婚できた時?・・・ 色々な場合がありますね。とにかく、もう死んでもいい!と思うのは、ものすごく嬉しいことがあった時ですね。
 昔々、今から2千年前のユダヤの国に、シメオンさんという人がいました。今日読んだ聖書の中に出て来た人です。このシメオンさんも、“もう死んでもいい!”って思ったんだ。今日の聖書の29節に、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と祈っているシメオンさんの言葉がありました。これは、“もう死んでもいい!”って言っているのと同じ喜びの言葉です。
どうしてシメオンさんは、そう思ったのだろう? 何がそんなに嬉しかったのでしょう? それはね、づーっと願い続けて来たものを手に入れたからです。それは、神さまの“救い”です。シメオンさんは、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(30節)と言っているでしょう。シメオンさんは、救いを見つけたのです。
 シメオンさんは、神さまを信じる家庭に生まれ、物心ついた時から神さまを信じて生きて来たでしょう。そのシメオンさんが、たぶん何十年も求め続けて来たものを、おじいさんになって、もう天国が近いという歳になって、手に入れた。神さまからいただいた。シメオンさんには、それが死ぬほど嬉しかったのです。
 でも、どこでその救いを見たのかな? 神殿に連れて来られた、生まれたばかりの赤ちゃんの中にです。この赤ちゃんの中に、神さまの救いを見つけた。もちろん、その救いは目には見えない。けれども、この赤ちゃんがやがて大きくなった時、きっと神さまの教えを伝えてくれる。神さまの愛で愛してくれる、と確信したんだね。その赤ちゃんとは、イエスさまでした。


 それにしても、シメオンさんは、どうして赤ちゃんイエスさまの中に“救い”を見ることができたのでしょう。だって、神殿には同じように生まれたばかりの赤ちゃんが、祭司さんに祝福を祈ってもらうために、たくさん連れて来られていただろうと思うからです。赤ちゃんイエスさまだけ、他の赤ちゃんと特別違っていたわけではない。おなかに“わたしは救い主”って書かれていたわけもないし、ヨセフさんもマリアさんも何か特別な儀式をしたわけでもない。それなのに、シメオンさんは、たくさんいる同じような赤ちゃんの中で、どうしてイエスさまの中に“救い”を見つけることができたんだろう?
 それはね、シメオンさんが特別な目を持っていたからです。「聖霊」の目を持っていたからです。25節にシメオンさんがどんな人だったのかが書かれています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンさんは聖霊の力に満たされていたんだね。だから、たくさんの赤ちゃんの中でイエスさまを見分け、イエスさまの中に“救い”を見ることができたんだ。


 でも、ここでまた一つ疑問が湧いて来る。シメオンさんに聖霊がとどまっていると、どうして分かったのだろう。だって、聖霊って目に見えないよ。神さまに関係することって、目に見えないことばかりだね。ルカによる福音書を書いたルカさんは、どうしてシメオンさんに聖霊がとどまっていると分かったのだろう?
 その理由は、シメオンさんが“自分だけの救い”ではなく、“みんなの救い”を願い、待ち望んでいたからだと思います。さっき読んだ25節に、「イスラエルが慰められるのを待ち望み」とありました。自分一人が救われるのを、ではなく、イスラエルのみんなが救われることを、シメオンさんは望んでいたのです。また31節でも、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っています。神さまの救いはすべての人のための救いだ、イスラエルの人々だけでなく、すべての人に神さまがくださるものだとシメオンさんは信じていたんだね。シメオンさんは、自分のことばかりではなく、みんなのことを考えていた。だから、聖霊の目で救いが見えたんだ。
 ぼくたち私たちはどうだろう。私たちはつい“自分さえ良ければ”と考えてしまうことがあるでしょう。自分のことばかり考えて、人のこと、みんなのことは考えない。だから、自分が良い方を、多い方を取って、人には悪い方、少ない方をあげたりする。分けてあげないことさえある。みんなが頑張っているのに、自分だけサボろうとする。自分だけ得をしようとする。それは、聖霊がとどまっていない状態なんだ。
 でも、そんなふうに自分のことばかり考えている人には、神さまの救いは見えないと思うんだ。自分のことだけではなく、人のこと、みんなのことを考える時に、救いは見えて来るものだと私は思います。


 話は変わりますが、この前、こどもチャペルのクリスマス会で演じられた〈クリスマス・キャロル〉はとても見事でした。すばらしい劇でした。あのクリスマス会でクリスマス・キャロルを見た大人はきっと、皆そう感じたことでしょう。先生は練習の時からずっと見て来たけど、やっぱり本番が抜群にうまかった。
 ところで、あの劇の主役のスクルージ。最初は自分のことばかり考えていたでしょう。自分だけがもうかればいい、と考えて、ボブを安い給料で働かせてたし、困っている人への募金も全然しなかったね。でも、マーレイの幽霊がやって来て、自分のことしか考えない、欲張りで罪深い人間は、死んだ後、鎖でがんじがらめになるって教えてくれた。そして、夢の中で妖精たちに自分の姿を見せられて、スクルージは、こんな人生は嫌だ!と思って、心を入れ替えたでしょう。自分のことばかり考える心から、人のことを考える、みんなのことを考える心に入れ替わったんだ。ボブの給料を上げてあげた。困っている人たちにもたくさん募金をした。子供たちにもプレゼントを上げた。そのとき、スクルージの胸は、喜びでいっぱいだったと思うんだ。自分ばかりが金もうけしている時に感じていた喜びとは全く違う、本当に大きな、爽やかな喜び、みんなと一緒に喜ぶ喜びでいっぱいだったと思うのです。
 そしてその時、スクルージはきっと“救い”を見たに違いありません。本当の喜びと救いが分かった! そう感じて、クリスマスの朝、スクルージは神さまとイエスさまに感謝したことでしょう。


 クリスマスにお生まれになった赤ちゃんイエスさまは、大人になって、いつも人を喜ばすことを考えていました。人を愛することを、人を救うことを考えていました。救われるって、自分が救われることももちろん大切だけど、人が救われること、みんなが救われることも考えて初めて、本当の救いなのだと、今日の聖書から教えられました。イエスさまの中に救いを見るって、そういうことだと思いました。
 私たちも、人のことを考えて、みんなの救いを願って、大きな喜びを、深い安らぎを、神さまからいただきましょう。


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