坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年1月1日 元旦礼拝説教「最高の道、愛の道」

聖書 コリントの信徒への手紙(一)12章31節〜14章1節 
説教者 山岡創牧師

12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

[ 13 ]

◆愛
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

[ 14 ]

◆異言と預言
14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
 

       「最高の道、愛の道」
 明けまして、おめでとうございます。新しい年、2009年を迎えました。
 年が明けて、今年はこんな年にしたい、こういう目標を持って進もう、こういう心で生きよう‥‥‥といった志を、皆さん、お持ちかと思います。新年の初めは、そういった、新たな志を立てる節目の時でもあります。
 けれども、キリスト者である私たちにとって、新たに歩み始める節目とは、正月・元旦と言うよりは、クリスマスから、主エス・キリストの誕生から、と言った方がふさわしいのではないかと思います。キリストがこの世にお生まれになった。その喜びに、その祝福に、その出来事に込められた神の愛に押し出されて、私たちは新しい一年を、次のクリスマスを目指して歩むのです。


 およそ2千年前に、ユダヤのベツレヘムに救い主イエス・キリストがお生まれになったことを知って、占星術の学者たちが東の方から、キリストを拝みにやって来ました(マタイ福音書2章)。彼らは、星に導かれてやって来たのですが、途中でその星を見失ってしまい、仕方なくユダヤの都エルサレムに行って、キリストの所在を探し求めます。そこで、ヘロデ王に呼び出され、王から、キリストはベツレヘムに生まれることになっていると教えられて、ベツレヘムに向かいます。そして、救い主キリストを探し当て、喜びにあふれてキリストを礼拝し、宝をささげます。
 さて、お話ししたいのはここからですが、その後、学者たちは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って」(12節)行きました。夢の中で、ヘロデ王のもとに帰るな、とのお告げがあったからです。ヘロデ王は、キリストが見つかったら知らせてくれ、自分も礼拝したいから、と言って学者たちを送り出しました。しかし、そう言ったのは、キリストを礼拝したいからではなく、自分に代わって王になるかも知れないキリストを殺すためでした。そのようなヘロデ王の本心を夢で知った学者たちは、王のもとに戻らず、別の道を通って帰って行ったのです。
 この聖書箇所を読むたびに、私は、「別の道を通って」というのは、来た道をヘロデ王のもとに戻らなかったという意味だけではないと感じます。そういう表面的な意味だけではなくて、「別の道」というのは、人生における別の道、新しい道、“新しい生き方”を暗示しているのではないか。そう思うのです。
 そして、新しい生き方とは、ヘロデ王とは違う、別の生き方です。ヘロデ王は、自分の権力を守ることだけを考えて、そのためには相手を殺すことも平気でする、そういう生き方でした。つまり、自分のことだけを考えた、極めて自己中心的な生き方です。
それとは違う、別の道を、学者たちは志して行った。それは、自分のことばかりではなく相手のことを考え、人にささげて生きる、そういう道ではないかと思うのです。そして、その道、「別の道」というのは、今日読みました聖書の中に出て来た「最高の道」(31節)に通じているのではないか。私はそのように感じています。「最高の道」、それは“愛の道”です。


 コリントの信徒への手紙(一)13章は、タイトルに〈愛〉とあるように、愛とは何かということが記されている“愛の章”です。そこには、愛について、私たちの常識からすれば驚くべき内容が描かれています。
「たとえ人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(1〜2節)
 優れた力を持っていて、色々な事が出来ても、頭が良くて、たくさんのことを知っていても、また、どんなに信仰が厚く深くて、それが山をも動かすほどのものであっても、肝心なことはただ一つ、「愛」がなければ、すべて無意味だ、無に等しい、と言うのです。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(3節)。
 本当に驚きです。全財産を貧しい人々のために、他人のために使い尽くすことができるか?。自分がそう問われたら、それは無理だ、できないと言わざるを得ません。そんなことができる人は、まさに“愛の化身”だ‥‥と思うのですが、そのように全財産を使い尽くしても、愛がない場合があると言うのです。
 それは、自分を誇ろうとしている時です。自分が人からほめられるため、そういう名誉のためにする時、そこには愛がないのです。自分のためにという誇りのみあって、相手のためにという愛がない時、全財産を使い尽くしても、命を捨てて殉教しても、何の益もないと聖書は言うのです。
 ならば、愛とは何か。4節以下に明らかにされています。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(4〜7節)。
 愛はこうだよ、と14項目あります。自分の内にどれだけ愛があるか、この14項目を使って、“愛の診断チェック”ができそうですね。半分以上、8つ以上当てはまったら本当にすばらしい。当てはまるのが5つ以下は黄色ゾーン、“愛なし病”の予備軍、2つ以下はレッド・ゾーン、愛なし病患者です。
 けれども、自分の心の内を真剣に吟味したら、2つさえもないかも知れない。否、1つもないかも知れないのです。私も、“自分には愛がないなあ”と自分にうなだれることが折々にあります。私たちは煎じ詰めれば、愛のない人間ではないでしょうか。しかし、そういう自分の姿を知ることこそ、「別の道」「最高の道」、愛の道へと踏み出す第一歩なのだと思います。
 この聖書の御言葉、愛の内容にふさわしいのは、イエス・キリストのみ、神さまのみでありましょう。キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。ねたまない。キリストは自慢せず、高ぶらない‥‥‥そのように言い換えると、ピタッと来ます。もし自分の名前をそこに入れてみたら、余りにそぐわないので笑うしかないでしょう。
 愛のない私たちが、これほどの愛で、神さまから愛されている。愛のない罪深い私たちが神さまに忍ばれている。愛のない私たちも愛する人に変われる、と神さまから信じられている。愛のない私たちの中に、神さまが愛を注入してくださる。それを信じることから信仰は始まります。「最高の道」が始まります。愛されている感謝と喜びが、私たちの内に愛を生み出すのです。自分の力で愛するのではありません。神の愛が、私たちを愛の道に立たせるのです。困難な道です。逸れることも、後戻りすることもあるでしょう。しかし、そのたびに神の愛が私たちをこの道へと引き戻し、押し出すのです。


 ところで、昨日は皆さん、大掃除をなさったことと思います。子供たちもお手伝いをしたことでしょう。例えば、窓拭きをしている時、どんなことを考えながら窓ふきをしましたか?。早く終わらせたい!そう思いながらしたかもしれないねえ。でも、それは無に等しい、益のないことです。どうせするなら、この窓のある部屋を使う人が気持良く使えるようにと愛を込めて、お母さんやお父さんや家族みんなが喜ぶようにと心を込めてお掃除をしてこそ、その時間、その働きは大きな意味を持つのです。
 渡辺和子さんというシスターの方がいます。この方が、『愛を込めて生きる』(PHP)という著書の中で、次のような経験をしたと書いておられます(214頁以下)。
 修道院で夕食の準備に、百数十名分のお皿を並べていた時のこと。年配のシスターから突然、“何を考えながら仕事をしていますか”と聞かれて、“別に何も”と答えた時、“あなたは時間を無駄にしている”と言われてキョトンとしたそうです。しかし、その年配のシスターが言うには、同じお皿を並べるなら、夕食にそこに座るであろう一人一人のために、祈りを込めて、愛を込めて置いてごらんなさい、ということだったそうです。その時、渡辺和子さんは、ロボットでもできることをロボットのようにしてはならない、“人間”としてするということを学んだのだそうです。その時間に愛を込めるということを学んだのだそうです。
 私たちも、一人一人の顔を思い浮かべるぐらい相手のことを思い、時間に愛を込めて、新しい一年を生きる。その志を持って歩ませていただきましょう。


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