坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年1月4日 主日礼拝「主のために」

聖書 マルコによる福音書14章1〜11節
説教者 山岡創牧師

◆イエスを殺す計略
14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
◆ベタニアで香油を注がれる
14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
◆ユダ、裏切りを企てる
14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。


           「主のために」   
 ガシャンッと壺を壊す音にハッとして人々の視線が、その音のした方に注がれる。一人の女性が主イエスの前に立っている。人々は一瞬、何が起こったのか理解できなかったでしょう。言葉を失ったことでしょう。時間が止まったかのような沈黙と静寂の中で、主イエスの頭に香油が注がれたことでしょう。
 やがて香油の強い香りが部屋中に広がり、その香りが彼らの鼻をついた時、周りの人々は我に返り、何が起こったのかを理解する。今日の聖書に描かれている出来事は、そんな光景だったのではないかと想像します。


 そして、我に返り、何が起こったのかを理解した瞬間、人々の厳しい非難が始まるのです。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は3百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(4節)。
 当時ユダヤ人社会において、貧しい人々に対する施しは、律法に適うこと、神の御心に適うこととして奨励されていました。ナルドの香油というのは、オミナエシ科かんしょうこうという植物の根から取った香油なのだそうで、たいへん高価なものだったようです。今日の聖書箇所と同じ内容が記されているヨハネ福音書12章には、その香油の量は1リトラであったと記されています。すなわち326グラムです。わずかに326グラムの香油が3百デナリオン以上もする。当時1日働いた労賃が1デナリオンと言われていましたから、3百デナリオンと言えば、約1年分の賃金に相当します。人々が「無駄遣い」と咎めたのも分かります。確かに、それを貧しい人々に施したら、どれだけの人がパンを食べることができたか分かりません。
 けれども、主イエスは、人々と同じように彼女を非難しませんでした。かえって彼女をかばい、人々を、弟子たちをたしなめました。
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ‥‥」(6節)。
 私は、この御言葉を読むたびに、なぜこの女性の行為は主イエスに肯定されたのだろうか、受け入れられたのだろうかと考えさせられます。そして、聖書から示されることは毎回、微妙に違います。
 今回、この聖書箇所を黙想しながら、行間を読み解くきっかけとなったのは「良いこと」という言葉でした。「わたしに良いことをしてくれたのだ」と主イエスが言われた「良いこと」というのは、原文のギリシア語では“美しいこと”というニュアンスなのだそうです。そして、7節に出て来る、貧しい人々に対する「良いこと」とは、原語が違うということです。
 美しいって、どういうことだろう? と思い巡らしながら、もう一つ私がハッと思ったことは、ここでは「良いこと」美しいこととは言われていても “正しいこと”とは言われていない、ということでした。正しいことというのは大切に違いないのですが、えてして美しくないのです。なぜなら、正しいことというのは時に“冷たい刃”となって、人を裁き、切るからです。殺すからです。
 今日の聖書の初めのところに、「祭司長たちや律法学者たちは‥‥‥イエスを殺そうと考えていた」(1節)と記されています。要するに、彼ら宗教指導者たちの信仰や立場からすれば、主イエスは“正しくない”のです。ただ単に自分と“違う”というのではなく、正しくないのです。つまり、自分の考えや立場が正しい、絶対だとするその目で主イエスを見ているのです。だから排除する。正しくないから殺す。そこに“美しさ”はありません。違いに耐え、受け入れ、歩み寄ってこそ美しさがあると私は思うのです。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は3百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(4節)。
 その非難は、ある意味で正しいのでしょう。けれども、それは、貧しい人々に施すことこそ神の御心に適う良いことだという価値観を正しいものとする、絶対化している、そしてその基準のみで、人を見て、裁くことです。その目を自分自身に向けて、自分の行動を吟味し、反省する基準とするならば良いのでしょうが、その目を他者に向ける時、それは“冷たい正義”となり、人を裁く刃となります。なぜなら、そこには広い心で、違う視点でその人を見る、その人の側に立ってその人を見る、そういう柔軟さ、忍耐、あたたかさが欠けているからです。そういう意味で、美しくないのです。
 しかも、その自分の非難をたしなめられたイスカリオテのユダは、それによって自分を省みるどころか、主イエスを祭司長たちに引き渡そうと企てたと10節以下に記されています。ヨハネ福音書12章では、この女性を非難したのはユダになっています。自分の正しさが否定されたから、主イエスを引き渡す。主イエスを裁き、殺す。祭司長や律法学者たちと同じです。極めて自己中心的です。美しくないのです。
 けれども、他人事ではありません。私たちもまた、自分が正しいことと思っている考えや価値観から、相手を見、判断し、裁くことが、日常生活の中で少なからずあるのではないでしょうか。そして、そういう自分に気づかずにいることが‥‥‥。そのような、私たちの“正しい言動”に傷ついている人がいることを忘れてはならないと思います。


 美しいとは、どういうことでしょう?。詰まるところ、そこに“愛”があるかないか、それによって美しさは決まるのではないか。決まると言うよりも、愛によって美しさは醸し出されるものではないか。薫るものではないか。ナルドの香油のように香るものではないか。私はそのように感じています。
 正しいということは大切だということは、だれもが知っています。しかし、相手に対する愛がなければ、正しさは裁きになります。相手の心傷つける冷たい刃になります。人の美しさを失います。人の香りを失います。
 主イエスがご自分に香油を注いだ行為をとがめず、「わたしに良いことをしてくれた」、美しいことをしてくれたと喜ばれたのは、彼女の内に“愛”があったからでしょう。主イエスに対する、あふれ出るような、一途な愛があったからでしょう。
 おそらく彼女は、主イエスによって救われたのでしょう。計り知れないほどの愛をいただいたと感じたのでしょう。その思いは彼女の内で喜びとなり、感謝となり、その気持を何とかお返ししたいという一途なものへと変わっていったのでしょう。そして、今、その気持を表すには、ナルドの香油を主イエスの頭に注ぐ以外になかったのでしょう。それは、彼女の愛が結晶した行為でした。無駄遣いだと言われようと、とがめられようと、それが彼女を生かしてくださっている神の愛への精一杯の応答だったのです。そして、それを主イエスは「良いこと」、美しいこととして受け止めてくださったのです。愛によって応えてくださったのです。


 そしてそれは、貧しい人々に対する「良いこと」よりも、優先して良いものでした。もちろん、貧しい人々に対する施しはどうでもよい、と言っているのではありません。隣人に対する愛の行為をなおざりにしてもよい、と言っているのではありません。自分に注がれる神の愛を心に感じた人は、その愛を一滴でも隣人に注ごうとするに違いありません。愛とは、そういうものです。
 けれども、神さまに対する深い感謝、一途な愛を神さまにささげようとする時、その時間、その労力、そのお金は無駄遣いだから、目に見える隣人にこそ与えるべきだと止められるべきものではありません。信仰ある者の生き方は、神さまとの豊かなつながりがあってこそ生まれて来るものだからです。
 主イエス・キリストが、律法の中で最も重要な掟は何かと問われた時、
「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」
(マタイ福音書22章37〜40節)
「同じように重要」と言いながら、主イエスは、神を愛することを「第一」としています。そして、隣人を愛することは「第二」なのです。
 藤木正三先生(隠退牧師)が、その著書『系図のないもの』(近代文芸社)の中で、この「第一」「第二」の意味を書いておられます。先生は、ある青年から、“わたしは神を信じる者です。しかし、どうして隣人を愛さなければならないのですか”という手紙を受け取りました。その手紙には、彼が普通に振舞っていても、周りの人には変わっていると見えるらしく、その視線に彼は苦しんでいることが記されていました。しかも、隣人を愛しなさいとの御言葉に従って、彼がそういう人々をゆるそう、愛そうとするのですが、そのすればするほど彼の態度はぎこちなくなり、ますます周りから誤解され、彼は傷つき、孤独感、疎外感を深めることになるのです。
そんな内容の手紙を受けとって、藤木先生は、聖書の御言葉から、それでも隣人を愛しなさいと彼に説くのは簡単なことだが、それでは彼の傷つき悩む心にとどかない言葉になる。正しいけれども、冷たい言葉になる。結局、彼をますます苦しめることになる。そう感じた時、主イエスが「第一」「第二」と言われたことを思い出したのだそうです。
そして、この場合、彼は隣人を愛さなくても良いのではないかと思い、そのように返事を書いたと言うのです。
「貧しい人々はいつでもあなたがたと一緒にいる」(7節)。だから、いつでも愛することができるのです。今日は無理でも、明日、愛する機会が与えられているのです。もちろん、それが甘えになってはキリスト者の道にもとると思いますが、しかし、もし隣人を愛することが「第一」だと言われたら、私たちは、その教えを果たせず、信仰に行き詰まってしまうのではないでしょうか。
どんなにがんばっても、隣人に対する愛の足りない私たちです。けれども、そんな私たちを神さまは愛して、受け入れてくださっている。その神の愛を知って、喜び、安心する。その神さまとの愛の交わりから、すべてが始まるのです。


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