坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年10月11日 主日礼拝「慰めとなった人々」

聖書 コロサイの信徒への手紙4章7〜18節
説教者 山岡創牧師

◆結びの言葉
4:7 わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
4:8 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
4:9 また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
4:10 わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
4:11 ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
4:12 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
4:13 わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
4:14 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
4:15 ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
4:17 アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。
4:18 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。


          「慰めとなった人々」
 コロサイの信徒への手紙も、最後の〈結びの言葉〉となりました。パウロという人は、彼が書いた他の手紙の記述や使徒言行録に描かれている出来事から想像するに、どうやら目に病を抱えていたようで、あまりよく目が見えなかったのではないかと思われます。それで、各地の教会に手紙を書く時はいつも、信頼できるだれかに、自分が口で言ったことを書き取ってもらっていたようです。この手紙も、初めの1章1節に、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」とありますから、パウロが言った言葉をテモテが書き取って手紙にしたのでしょう。
 けれども、そのように口述筆記させた手紙の最後に、パウロは必ず一言、自筆で挨拶と署名を記しました。コロサイの信徒への手紙の末尾にもあります。
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように」(18節)。


 10節にも記されているように、この時パウロは「捕らわれの身」でした。初期のキリスト教伝道の様子を記録した使徒言行録にも記されていますが、パウロは、キリスト・イエスによる救いを宣(の)べ伝えたことによって社会を騒がせ、混乱させたという罪で、しばしば捕えられました。この手紙を書き送った時、パウロはローマで捕らわれていたと言われていますが、他にもカイサリアの町であるとか、エフェソであるといった説もあります。いずれにせよパウロは「捕らわれの身」でした。
 当時、牢に捕えられている人に近づき、仲間と思われることは、自分も同罪と見なされるという意味で、大変危険なことだったようです。にもかかわらず、パウロの周りには少なからぬ「兄弟」「仲間」たちがいたことが、この結びの言葉から分かります。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカデマス。これらの人々は、キリスト・イエスの福音を宣べ伝えるために労苦するパウロにとって、「神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々」(11節)でした。
 この中で、エパフラスは既に、この手紙の1章に出て来ました。彼は、コロサイの町にキリスト・イエスの福音を宣べ伝えて、コロサイに教会を生み出した人物でした。
 ちなみに、当時の教会と言うと、定まった場所に公共の礼拝堂があり、そこに集まるというのではなかったようです。15節に「ニンファと彼女の家にある教会の人々」とありますが、当時の教会は、信じて信徒となった人の家が集まる場所として開放され、そこに他の信徒たちが集まって礼拝をする、言わば今日の“家庭集会”のような交わりでした。だから、当時の教会は“家の教会”と呼ばれました。しかし、そこから教会の本質というものが見えて来ます。
 教会とは何でしょう? 確かに、毎週日曜日、個人の家を礼拝のために開放するのは、今日においては非常に大変なことでしょう。だから、私たちは共に集まることのできる公共の礼拝堂を建てます。私たちも2005年にこの会堂を建てました。けれども、誤解してはならないのは、この建物が教会ではない、ということです。礼拝堂があれば、そこに教会があるかと言えば、そうではありません。大切なのは人です。信徒です。信徒の交わりです。信徒が共に集まり礼拝する群れ。それこそが“教会”なのです。その意味では、場所はどこでもよい。青空の下でもよいのです。信じる者が共に集まれば、その礼拝の交わりこそが教会なのです。
 話が少し逸れましたが、コロサイに福音を伝え、教会を生み出したのは、エパフラスでした。そういう関係から言えば、エパフラスがこの手紙をコロサイの信徒たちのもとに届けに行くのが一番ふさわしいのでしょうが、この届け役に選ばれたのはティキコという人でした。おそらくエパフラスはパウロと一緒に牢に捕えられていたのではないかと思われます。それでも、牢の中でエパフラスはいつも、コロサイの信徒たちのために「熱心に祈って」(12節)いました。「あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているように」(12節)祈っていました。
 私も、教会員の皆さんのために祈ります。健康が守られ、回復しますように。苦しみ悩みにおいて心が支えられますように。悲しみが和らげられますように。もちろん、そのような祈りが悪いわけではありません。けれども、皆さんが信仰において「完全な者となり、神の御心をすべて確信しているように」と祈っているだろうか。信仰が養われ、強められ、深められ、成長しますように、といつも祈っているだろうか。執り成しの祈りとは、そこが一番大切なのだと教えられました。私たちもお互いにだれかのために祈る時、その人の信仰のために祈ることを忘れないようにしましょう。その人の表面的な問題や困難が解決することも大切ですが、その人の心が神さまとしっかりと結びつき、神さまによって救われることこそが一番大切だからです。その救いがあれば、人は、問題や困難を抱えていても、心が折れず、希望を持って生きていけます。


 パウロの慰めとなった人々。奴隷の身で逃亡し、パウロと出会って信仰に導かれたオネシモ。バルナバ、パウロと最初の伝道旅行を共にしながら、途中で帰ったためにパウロから信頼されず、第2回伝道旅行の際は、バルナバとパウロが決裂する原因となったマルコ。しかし、そのマルコがここに、パウロと共に捕らわれるまで伝道し、パウロの「慰めとなった人々」の一人として描かれています。
もう少しお話ししたいのですが、すべての人について一人一人、お話ししている時間はありません。しかし、パウロが、これら自分の周りにいる「神の国のために共に働く」仲間たちによって、深く慰められたことは間違いありません。
パウロはキリスト・イエスの福音を宣べ伝える上で、とても苦労しました。苦闘しました。その伝道の働きに孤独を感じることがあったでしょう。伝道の失敗に落ち込み、思うように進まない活動に焦りを感じ、無駄だったのではないかと暗い気持になることもあったでしょう。そのような時に、パウロは神さまに祈ったことでしょう。神さまとの、キリスト・イエスとの絆を思い、心の励ましと慰めを祈ったことでしょう。
けれども、パウロは祈りによってだけ慰められたのではありません。神の国のために共に働く仲間たちの存在によって慰められたのです。共にいる人の存在によって慰められたのです。
今日の聖書の御言葉の中で、私が一番感動し、慰めを与えられたのは、まさにこの11節の言葉でした。
「神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です」。
 パウロほどではないかも知れません。けれども、現代においてキリスト・イエスの福音を宣べ伝える牧師の働きは、ある意味で非常に孤独です。なぜなら、教会の中に自分と“同格”の人がいない。人間的に、という意味ではありません。人間的に、人格的に、という意味でなら、信徒の中に自分と同格の人、自分よりも格上の人はいるかも知れません。けれども、牧師と信徒という関係上、同格にはなれない。教会を守り、治める牧者の立場上、信徒と同じ立場で、同じ土俵のレベルで話し、交わることができないのです。これは、牧師という務めを選んだ者の、いや、この務めに召され、選ばれた者の宿命です。もちろん、牧師はそれを覚悟しています。
 けれども、孤独であることは否めません。牧師として人の話を、悩み苦しみを神さまに代わって聞き続けます。怒りをぶつけられ、当たられることもあります。それを自分の腹に納め続けます。でも、それは誰かに漏らすことはできません。話せないこと、話してはならないことが、少なからずあります。そして、自分自身の苦悩を、不安を話せるところはなかなかありません。それが、多くの牧師の現実なのです。
 最近、心の病になる牧師が増えて来たように感じます。特に若い牧師に多いです。時代の影響もあるでしょう。けれども、牧師という立場から生じるストレスが大きな原因だと思われます。繊細な人、真面目な人ほど、そうなります。牧師にも、牧師の悩みを聞く牧師リーダー、スーパーバイザーのような人が必要だと言われる所以です。
 皆さんに敢えて、牧師の現実話をしました。それはもちろん、牧師に余り苦しみ悩みの話をしないように、牧師にストレスをかけないように、という意味ではありません。むしろ、いよいよ話をしてください。そのために牧師はいる。神さまに代わって信徒の話を聞き、重荷の幾分かでも共に負い、分かち合い、御言葉と祈りによって慰めるために牧師はいるのです。主イエスの霊が共におられる、心開かれた交わりがしたいのです。
 私が皆さんにお伝えしたいのは、パウロが「心に留めてください」と言っているように、牧師の務めのそのような労苦を心に留めてほしい、ということです。その労苦と孤独を心に留めた上で、牧師のために、私のために祈ってほしいということです。そして、「慰め」となっていただきたい、と切に願っています。
 孤独を感じる時、無駄だったのではないかと徒労感を味わう時、挫折と失敗に打ち沈む時、そういう牧師を慰めるのは、「神の国のために共に働く」信徒の存在なのです。“同じ”にはなれないかも知れない。けれども、“同じ方向を向いて”、神の国のために、という“同じ目標を持って”、共に教会を造り、共に労苦し、共に信仰の道を歩む信徒が、自分の教会にはいる。自分のそばにいる。そう感じる時、牧師は大いに慰められるのです。不安の中から立ち上がる勇気をもらうのです。伝道と牧会の労苦が喜びに変わるのです。


 いささかパウロの視点から、伝道者、牧師の視点から語らせていただきました。もちろん、牧師と信徒、お互いに励まし合い、慰め合える関係でありたいと思います。そのために、神の国のために共に働く、救いのために共に働く、キリスト・イエスの福音を宣べ伝え、教会を造り上げるために共に働く、という同じ目標を持って、共に進んで行きたいと願います。


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