坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年11月8日 ヤコブの手紙1章1〜8節

聖書 ヤコブの手紙1章1〜8節
説教者 山岡創牧師

◆挨拶
1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。
◆信仰と知恵
1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。
1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。


             「いささかも疑わず」
「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」(1節)。
 今日からヤコブの手紙を通して、御言葉を聞く連続講解説教を始めます。
 新訳聖書の中にヤコブという人は何人も出て来ます。皆さんが最も記憶しておられるのは、主イエスの12弟子の一人であるヤコブ、元漁師であったゼベダイの子ヤコブでしょう。けれども、この手紙を書いたヤコブは、そのヤコブではありません。主イエスの実の兄弟、実の弟のヤコブだと言われています。
 主イエスの兄弟ヤコブは、生前の主イエスの宣教活動を快く思ってはいなかったでしょう。気が狂っていると思い、身内として取り押さえに来たこともあったようです。
 ところが、主イエスが十字架に架けられ、しかし復活し、天に昇られた後で、ペトロをはじめとする12弟子たちと共に、主イエスの母マリアと主イエスの兄弟たちが約束の聖霊を求めて祈りを合わせていたことが使徒言行録1章14節に記されています。その兄弟たちの中にヤコブもいたに違いありません。当初は兄であるイエスの活動を快く思っていなかったヤコブも、いつしかイエスの福音を信じるようになったのでしょう。やがてヤコブは、エルサレムに誕生した初代教会の指導者になったと推測されます。
 そのヤコブが「離散している十二部族の人たち」に手紙を書きました。12部族とはイスラエル12部族のことです。アブラハムの子孫であり、かつてモーセに率いられてエジプトを脱出し、神の約束の地カナンに住み着き、神の民イスラエルの名で呼ばれた12部族です。この手紙が書かれた当時は、かつての超大国ペルシア領内のユダヤ州に住む人々ということでユダヤ人と呼ばれていましたが、当人たちは、自分たちはイスラエルである、神に選ばれた民族であると、なお誇りを持って生きていたでしょう。
 しかし、この手紙が書かれた当時、12部族の人々はユダヤ(カナン)の土地を失い、ローマ帝国の広大な領内に離散させられていました。その離散した先で、イエスの福音を知り、イエスを神から遣わされた救い主、神の子と信じた人々がいたのです。ユダヤ人の多くは主イエスを信じませんでした。しかし、そういう中に、主イエスの教えを受け入れ、救い主、神の子と信じた人々がいたのです。
 ヤコブは、イスラエルの血筋ではなく、主イエスを信じた者こそ本物のイスラエル12部族だ、本当の意味での神の民だと考えていたでしょう。その意味では、私たちも血筋は違えど主イエスを信じる者として、本当の意味で“神の民”です。教会は“新しいイスラエル”“新しい神の民”です。
 その思いを持って、今日からヤコブの手紙を、私たちに語りかけられた言葉として耳を傾けましょう。


「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)
 手紙の冒頭から、いきなり“ちょっと待ってよ”という内容が語られているなあ、と思います。「試練」がこの上ない「喜び」‥‥‥なぜ、そういうことになるのでしょう?とても喜びとは思えない、というのが試練に出会ったときの私たちの気持ではないでしょうか。
 私たちの人生には苦しみや困難がつきものです。そういったことに私たちはできる限り出会いたくないというのが本音でしょう。しかし、私たちの気持に関係なく、私たちは苦しみや困難に出会わされます。その時、私たちは愚痴をこぼしたくなる。だれかに、何かに八つ当たりしたくなる。投げやりになることもある。心が折れて絶望しそうになる。苦しみや困難は、私たちをそのような人生態度へと誘惑します。実は、「試練」と訳されたギリシア語のペイラスモスという言葉は“誘惑”とも訳すことができる言葉です。
 そのように人生の誘惑にもなり得る苦しみや困難を「試練」として忍耐できるとしたら、それは人生における苦しみや困難の意味を知っている時です。
 苦しみや困難とは何でしょうか? それは「信仰が試されること」(3節)だとヤコブは語ります。神を信じるか、それとも疑うか、信仰が試されるのです。
 私たちは、特に何事もなく、順調に生きている時には、神を信じることは比較的容易でしょう。しかし、信仰が問われるのは、苦しみや困難といった人生の逆風の時です。その時、私たちの心は揺れ動きます。苦しみ悩みます。そうでない人はいません。それが、私たち人の心です。
 けれども、その苦悩のために、神さままで疑うようになったら、それは「風に吹かれて揺れ動く海の波」(6節)だとヤコブは言うのです。
 嵐に吹かれた時の港の様子を想像してみてください。風と波に船は揺れます。けれども、そのために流されたり、沈んだりしないように、港にロープでつなぎ、しっかりと固定します。ところが、これが海の上だったらどうなるでしょう。風と波に揺られて、どこまで流されるか分からない。あるいは転覆し、沈んでしまうかも知れません。
 私たちの心は、この船のようなものです。風と波に揺れ動く。人生の嵐に苦しみ悩むのです。けれども、同じ揺れ動くのでも、何もない海上で揺れ動くのと、港の中で揺れ動くのとでは、意味が違います。人生の安定感が違います。
 神さまを信じる信仰とは、この港のようなものです。心が苦悩に揺れ動くことがあっても絶望はしない。心は折れない。港に守られているからです。人生を導く神を信じているからです。
 そしてそれが、心が定まっている、ということなのです。8節にある「心が定まらず」というのは、人生の波風に心が動揺し、苦しみ悩む状態を指しているのではありません。人生に港がない状態、信仰によって守られ支えられていない状態を言うのだと私は受け止めています。信仰によって神さまと、太く切れないロープでつながっているならば、私たちの心は定まっていると言えます。「生き方全体に安定」(8節)があります。安定とは、人生が揺れ動かないこと、心が動揺しないことを言うのではありません。揺れ動いても沈まない。地震が起きても倒れない。苦しみ悩んでも希望を失わない。希望の故に心が折れない。それが「安定」ということだと私は思います。


 人生には困難や苦しみが起こります。人生の悪魔は、それによって私たちの心を折ろうとします。絶望へと誘惑します。しかし、神さまはこの機会に私たちの信仰をお試しになります。それは、神さまからすれば、私たちの信仰が生きる力になっているかどうかをチェックし、より一層の「安定」を与えるためでありましょう。
 「試練」とは、試して練り上げるものです。どれぐらい力があるかを試し、訓練してその力を向上させるのです。苦しみや困難は、私たちを試し、練り上げ、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」(4節)に成長させるための「試練」なのです。そういう意味を知っている時、私たちは「忍耐」(3節)することができるのです。
 ところで、例年この時期になると、私は、子供と一緒に校内マラソン大会のための練習を始めます。すぐそばに高麗川土手のサイクリング・ロードという格好の練習場所があり、週に3〜4回、夕方チャイムが鳴った後で練習をします。我が家の子供たち(小学生3人)だけでなく、その友達も集まって来ます。今年は例年以上に多く、多い時は10人以上集まります。
 練習はゆっくり一緒に走る時と、全力で走りタイムを計る時があります。全力でタイムを計る時は、一人一人の力によってタイム差をつけてスタートさせます。一番遅い子を最初にスタートさせ、その後、タイム差をつけながら力の順に一人一人スタートさせます。大体ゴールの手前で、全員が最初の子に追い付くように計算しながらタイム差をつけています。同時にスタートするよりも、その方が先の子は追いつかれまいと逃げ、後の子は追いつこうとがんばるからです。遅い子ががんばって1位でゴールすることもあります。それは嬉しいことでしょうし、こうした方が競って励みにもなるのです。
 例年、初参加の子が何人かいます。初参加の子たちは、まず適当な位置で走らせて、その子がどのぐらいの力を持っているかを試します。その力によってタイム差を決めます。そして、皆、自己ベストを更新しようと思って、がんばります。
 何のための練習か。少しでも早く走れるようになるためです。力を付けるためです。皆それぞれ目標があります。良い結果を出して喜びを得たいのです。そのために練習します。苦しい練習に忍耐します。
 ある子供のお母さんと話したことがありましたが、“走るのが嫌いなこの子が、この練習には自分から喜んで参加するんですよ”と言われました。訓練の目的を、忍耐の意味を知っているからでしょう。やらされる練習ではなく、自ら取り組む練習です。
 私たちも、「試練」が私たちの信仰の力を試し、その力を伸ばして、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」にするためのものであると知っているならば、試練を忍耐しようとする意志が生まれて来るでしょう。「この上ない喜び」とまでは、なかなかいかないかもしれませんが、神さまが自分を訓練し、成長させてくださる機会として受け止め、忍耐する思いが生まれて来るでしょう。
 ヤコブは、「あくまでも忍耐しなさい」(4節)と勧めます。その忍耐が、心の安定、生き方の安定の土台となる信仰を養うのです。どんな時にも、“神さま、よろしくお願いします”と神を信じて、おゆだねする信仰を養うのです。
 私たちの人生には、風が吹き、波が押し寄せます。私たちの心が動揺し、苦悩します。けれども、人生を導かれる神さまの大きな愛の御手におゆだねして平安。神さまに包まれて、安心して苦悩することができる生き方。それが、完全で申し分のない信仰、何一つ欠けたところのない信仰だと思います。私たちは、そのような信仰を目指して、信仰生活を歩んでいるのです。


 そのためには祈りが必要です。祈りによって与えられる「知恵」が必要です。
「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます」(5節)。
 知恵とはもちろん、勉強ができて成績優秀であるとか、知識教養を数多く身に付けている、といった意味ではありません。人生の知恵、生き方の知恵、信仰の知恵です。苦しみや困難をどう見るか、試練をどう受け止めるか、その見方、受け止め方のことです。苦しみは、ただ苦しみです。困難は、ただ困難です。それが何も持っていない人の見方であり、それでは苦しみや困難を受け入れ、忍耐することができません。
 苦しみや困難は、自分の信仰を試し、練り上げ、完全なものとするために、神さまが与えた「試練」である、機会であると受け止める時、苦しみや困難と向き合う人生態度が変わって来ます。受け入れ、忍耐するようになります。
 しかし、その「知恵」が生半可な、頭の中の“知識”に過ぎなければ、いざという時、役に立ちません。そのために、本気で祈り求めよう。本気で信仰生活をしよう。それが今日、ヤコブが私たちに最も勧めているメッセージではないでしょうか。


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