坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年11月1日 聖徒の日礼拝「住む所がたくさんある」

聖書 ヨハネによる福音書14章1〜6節
説教者 山岡創牧師

◆イエスは父に至る道
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。


             「住む所がたくさんある」
 本日は、教会の暦の上で〈聖徒の日〉と呼ばれる日曜日を迎えました。“聖徒”というのは、週報の礼拝順序のところに書かれているように、“聖なる徒”と書きます。これは、イエス・キリストによって聖なる者とされ、天国に召された信徒のことを言います。
 そのように、天国に迎え入れられた人々を偲び、記念する日として、8世紀にグレゴリウス3世という教皇によって、この日が定められました。初めは11月1日と定められたのですが、その後、プロテスタント教会一般では、11月第一日曜日を聖徒の日として、すべての死者を記念する日として礼拝が守られるようになりました。だから、聖徒の日は、日本流に言えば、お彼岸やお盆に当たるものと考えてよいでしょう。ただし、キリスト教信仰においては、死んだ方は天国に召され、既に神さまのそばで平安に暮らしていると信じるので、供養をして迷わず成仏するようにとか、冥福を祈るといった考え方はしません。この日は、教会にとって、天に召された人々を偲ぶ日、そしてやがて私たち自身が召されていく天に思いを馳せ、慰めと希望を与えられる日なのです。
 そのような意味で、私たちは本日、永眠者記念礼拝を守ります。


 皆様のお手元に、受付で〈永眠者名簿〉をお渡ししました。1992年に始まったこの教会の歩みも、今年度で18年目を迎えました。その間に、教会員で天に召された方々、教会員ではないけれど教会で葬儀を執り行った方々、また教会墓地に埋葬された方々のお名前が、この名簿に記されています。
 特に今年度は、1992年の教会開設以来、教会員としてこの教会を支え、共に教会の営みを造り上げて来た二人の方を天に送りました。Mさんが4月6日に、またHさんが8月25日に、天に召されました。この教会がまだ、“坂戸伝道所”と呼ばれていた時代から、小さな教会を始める労苦と喜びを共にしてきた草創期のメンバーを天に送ったということについては、やはり特別な思いがあります。何とも言えず寂しいのです。置いて行かれたような、取り残されたような寂しさとでも言うのでしょうか、何となく心が騒ぐのです。
 けれども、そのような寂しさに心が騒ぐ中で、私が確信していることは、お二人が“聖徒”として天国に召されたということです。主イエス・キリストが「場所を用意」して、「あなたがたをわたしのもとに迎える」(3節)と約束してくださった父なる神の家、天国にお二人を迎え入れてくださったということです。そして、天の上から“山岡先生、あなたの場所もちゃんとあるよ。また天国で会いましょう”と、ささやきかけてくださっているのかも知れません。それは、聖書の御言葉を通して、私だけではなく、ご遺族の皆様に、そして教会に連なる一人一人に語りかけられている“天からの声”だと言っても良いでしょう。“あなたの場所もちゃんとあるよ”と。


 主イエスは、最後の晩餐の席上で弟子たちにお語りになりました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(2〜3節)。
 弟子たちはこの時、心を騒がせていたと思われます。夕食の席上で、主イエスはご自分の死をほのめかされたのです。しかも、弟子の中に裏切り者が起こることを予言し、弟子の一人であるペトロが、主イエスを知らないと関係を否定するだろうと言われたのです。直前の13章に記されています。
 主イエスはこの晩、ご自分を妬み、否定し、敵対する人々にご自分が捕えられ、十字架に架けられて処刑されるであろう宿命が間近に迫っていることを感じておられました。主イエスがいわゆる犯罪者であったからではありません。宗教上の対立から、そうならざるを得ないことを見抜いておられたのです。そして、そのような主イエスの死の宿命に翻弄される弟子たちの運命をも予感され、予め弟子たちに告げられたのです。甘い考えで人生に向き合っていると、いざ事が起こった時に、絶望してしまうからです。だから、自分の人生に対する覚悟を促しながら、同時に、そこに与えられる神の希望を語ることによって、弟子たちを励まそうとなさったのです。
 主イエスより、これから起こるであろう運命を知らされ、混乱し、心を騒がせている弟子たちに、主イエスは力強く、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)と言われました。困難や苦しみに心が騒ぐ時、特にそれが自分の力ではどうにもならないような時、解決の光が見えない時、神を信じることは、自分の心を保ち、忍耐して生きるための大きな力になるのです。
 主イエスはこう励まされた後で、信じるための希望として、あなたがたのために場所を用意して迎えると約束してくださったのです。ご自分が捕えられ、十字架に架けられて殺されることは、単なる死ではない。犬死でもない。大きな意味がある。それは、死の向こう側にも、あなたがたのために「場所」を用意しておくことだと主イエスは言われたのです。
 弟子たちは、ご自分の死をほのめかす主イエスの言葉を聞いて、従っている自分自身の死も考えたことでしょう。いきなり人生の断崖絶壁に立たされたような気持になった弟子もいたかも知れません。その絶壁の向こうは、今の弟子たちには見えないかも知れない。しかし、死というその絶壁の向こう側に、ちゃんとあなたがたの「場所」を用意しておくから、と主イエスは約束してくださったのです。
 死を受け入れるということは、私たちにとって人生の大きな課題です。究極的に立ちはだかる人生最大の問題だと言っても良いのかも知れません。死んだらどうなるのか?未知の領域に対する恐れと不安があります。死によって愛する者を失うという悲しみと絶望があります。この恐れ、不安、悲しみ、絶望と、私たちはいかにして向かい合って行くことができるのか。そして、人の死を受け止めて行くことができるのか。人間の知恵や力では、どうにもならないことです。人の生と死は、私たち人間の知恵や力でコントロールすることができないからです。
 そこに主イエスの言葉が語られます。主イエスを通して神の約束が語られます。天の父なる神の家には住む所がたくさんある、と。場所を用意して迎える、と。その約束の言葉を、人の知恵と力を超えた神が語りかける真理の言葉を信じるとき、私たちの内には死をも受け入れる希望が、平安が、慰めが与えられます。
もちろん、人間ですから、不安や悲しみが全くなくなるわけではありません。その不安と悲しみを知る者は、絶えず不安と平安の間で、悲しみと慰めの間で揺れ動くことでしょう。けれども、一つ確かに言えることは、その不安と悲しみは、信じていなかった時の不安と悲しみとは全く違うということです。不安と悲しみに耐えて歩む人生の足場が、信仰という力が与えられているからです。信じることによって人生が変えられているのです。神のない人生から、神と歩む人生へと、救いを約束してくださる神に委ねて生きる人生へと変えられているのです。


 そういう人生を、主イエスは歩んでおられました。御心によって人に命を与え、御心によって人の命をお召しになる父なる神を信じて、その神にご自分の命を委ねて生きる道を歩んでおられました。十字架に架けられる宿命もまた、私たちが感じるのと同じ苦悩や葛藤を感じながらも、神の大きなご計画の内にあって、神の大きな愛の御手に包まれていると信じて、受け止めておられました。父なる神は決してお見捨てにはならない、その死の先に必ず命の「場所」を備えていてくださると信じておられました。生かされてある命をお委ねして生きておられました。
 だからこそ、主イエスはご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と言われたのです。
 確かにトマスをはじめ、父なる神に委ねて歩む信仰の道を知らない弟子たちには、この道が分からなかったでしょう。けれども、やがていつかこの道を悟ると信じて、主イエスは弟子たちを、信じる道へと、委ねる道へとお招きになったのです。そして今、この約束の御言葉を聞いている私たちをも、命の道へと、父なる神の家に場所を用意されている慰めと平安の道へと招いてくださっているのです。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。


 けれども、一つの御言葉に引っかかるかも知れません。それは、6節後半の言葉、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」です。ここを読むと、やはり信じなければ天国に行けないのだろうか、洗礼を受け信仰の道を歩まなければ天国に行けないのだろうか。自分はいいかも知れない、けれども、信じていない家族、信じないままで死んだ家族はどうなるのだろうか、という思いが浮かんで来ても不思議ではありません。
 けれども、この御言葉には別の意味がありまして、6節以下を読みますと、主イエスを見た者は目に見えない神を見たのだ、という意味で言われていることが分かります。主イエスの教えを聞き、主イエスの行いを見れば、父なる神がどのようなお方か分かる、主イエスを通して神が分かる、ということです。それが「わたしを通らなければ」という言葉の意味であって、主イエスを信じて洗礼を受けなければ天国に入れないという意味では必ずしもないのです。
 そのようにして主イエスを通して父なる神さまを受け取ると、神さまが決して人間的な考えや決まり事で人を分け隔てするような、ケチくさい方ではないことが見えて来ます。主イエスを信じて洗礼を受けた者は天国に迎えるが、信仰を持たず、洗礼を受けていない者は迎えないと言われるような方ではないと私は受け取り、信じています。
 この問題は、クリスチャンにとって切実な事柄です。先日も、他の教会のある婦人の信徒の方からお手紙をいただきまして、私がお話ししたエフェソの信徒への手紙2章の説教を聞いて、特に天地創造の前からの選びという内容に、亡くなったご自分の夫のことを気にかけておられたところに、その夫も神さまに選ばれ天国に迎え入れられたことを教えられ、慰めを与えられました、と書かれていました。
 神さまという方は、そのような私たちの切ない気持をよくご存じです。だからこそ、住む所をたくさん用意してくださっている。信じる者に、そしてきっと信じていない者にも、神さまの方では「場所」を用意して下さっている。その大きな御心におゆだねすれば、私たちの心には平安と慰めとがあふれます。



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