坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年11月29日 待降節アドヴェント第1主日礼拝(大人と子供の礼拝)  「栄光に輝く王を迎えるために」

聖書 詩編24編1〜10節
説教者 山岡創牧師

24:1 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。
24:2 主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。
24:3 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。
24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。
24:5 主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる。
24:6 それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。〔セラ
24:7 城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
24:8 栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
24:9 城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。
24:10 栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。〔セラ


          「栄光に輝く王を迎えるために」
 今日、教会に来てみたら、先週の日曜日とは、また楽しかった23日のバザーの時とは全く雰囲気が違うと感じたのではないでしょうか。教会の外に、あるいは中に、クリスマスのリースやクランツやツリーの飾り付けがなされています。特に、ロビーの窓をショー・ウィンド風にして、クリスマスの物語に登場するマリアとヨセフ、天使、羊飼いと博士たちの木彫りの人形(クリブと言います)を飾ったところは、とてもすてきです。夜になると、ライトに照らされたクリブはとても幻想的です。皆さんにお見せしたいと思って、写真を掲示しておきましたが、チャンスがあったらぜひ一度、暗くなってから見に来てください。
 今日から、救い主イエス・キリストの誕生日、クリスマスを待ち望む〈待降節アドヴェント〉が始まりました。クランツのキャンドルに1本、火が灯されています。この数が日曜日ごとに1本ずつ増えて行き、4本のキャンドルに灯が灯った時、クリスマス礼拝を迎えます。その後、12月24日の夜には、一人一人キャンドルを持ってクリスマス・イヴの礼拝を守ります。そのようにして私たちは、イエス・キリストの誕生を待ち望み、救い主のお生まれを喜び祝うのです。


 旧約聖書の時代のイスラエルの人々も、救い主がやって来るのを待ち望みました。今日読んだ詩編24編に書かれている「栄光に輝く王」というのが、彼らの待ち望んだ救い主です。我らの救い主、栄光に輝く王がやって来る。エルサレムの城門を広く開けて、喜んで王を迎えよう。人々はそう信じたのです。
 イスラエルの人々の国は王国でした。かつてはダビデ王やソロモン王のような、敵を打ち破り、王国の領土を広く、豊かに繁栄させた王、まさに「栄光に輝く王」が現われました。けれども、その後、イスラエル王国の周りには次々と強く、大きな国々が起こり、イスラエルは戦いに敗れ、支配されてしまいました。国を奪われ、自由を奪われ、高い税金を取り立てられ、神さまを礼拝することもできない。そういう苦しみの日々が続きました。
 だから、イスラエルの人々は、「栄光に輝く王」が現われて、敵を打ち破り、もう一度イスラエル王国を復活させてくれることを願いました。自分たちに自由と喜びを取り戻してくれる王がやって来ることを望みました。そのような「栄光に輝く王」を、主である神さまが遣わしてくださると信じました。主なる神さまは、「世界とそこに住むもの」(1節)をすべてお造りになった世界の支配者だから、その神さまが、イスラエルのために「栄光に輝く王」を、自分たちを苦しみから救い出してくださる救い主を送ってくれると信じたのです。


 それから何百年もの時が流れ、イエス・キリストがお生まれになりました。やがて大人になったイエス・キリストは、神の国の教えを力強く語り、病気や障がいを負った人々を癒しました。イエス・キリストに従った人々は、この方こそ、長い間待ち望んで来た「栄光に輝く王」ではないか、救い主ではないかと思いました。
 だけど、イエスさまは、イエスさまの教えとやり方に反対する人たちに捕えられ、十字架に架けられて殺されてしまいました。そのために、ほとんどの人が、イエス・キリストこそ救い主、「栄光に輝く王」だと信じることができなくなってしまったのです。
 イエスさまって、決して栄光に輝く“スター”のような人ではありませんでした。生まれた時もそうでした。王様のお城に生まれたわけではなく、さびしい家畜小屋に生まれ、家畜が草を食べる飼い葉桶に寝かされました。だから、だれも、そこに生まれたのが神の子であり、王であり、救い主であると気がつかなかったのです。気づいて礼拝するためにやって来たのは羊飼いたちと星を調べる博士たちだけでした。
 イエスさまの「栄光」って分かりにくいのかも知れません。勉強や運動ができるとか、仕事ができるとか、地位や権力を持っているとか、財産を持っているとか、そういうこの世の「栄光」と同じものだと思っていたら分からない、気がつかないのです。
 イエスさまは、この世界に、力と富を持った栄光の王国を造ろうとしたのではありませんでした。そうではなくて、人の心の中に、私たちの心の中に、王国を造ろうとして、神さまこそ私たちの王と信じる神の国を、私たちの心の中に造ろうとして、一生懸命にお働きになったのです。私たちが、神さまに従う正しい人になるように、人を愛する憐れみ深い人になるように、そのために心の中でいつも神さまの声を、神さまの言葉を聞くことができるように、私たちの心の中に神の王国を造ろうとなさったのです。イエスさまはヨハネによる福音書の中で、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18章36節)と、はっきりと言っておられます。だから、イエスさまの造る王国は、私たちの心の国だから、普通の目で見ていたら、神の王国の栄光は見ることができないのです。私たちが、イエスさまを自分の心の中に「王」として、救い主として迎える時、私たちはイエスさまの栄光(すばらしさ)を見ることができるのです。


 そのためには、どうしたら良いでしょう。今日の聖書の3節に、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」とありました。これは、どんな人が神さまとお会いすることができるのか、という意味で、先ほどの話で言えば、どんな人がその心に救い主をお迎えすることができるのか、と言い換えることができます。そして、その後に、「潔白な手と清い心を持つ人」(4節)が主の山に上り、神さまと会うことができる。その心に救い主イエス・キリストをお迎えすることができると言われています。簡単に言えば、“自分をきれいにする、心をきれいにする”ということでしょう。
 では、自分を、心をきれいにするとはどういうことでしょう。先ほど、〈悔い改めと赦し〉の交読をしました。その中に、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51編19節)とありましたね。私は、自分の心をきれいにするということは、この「打ち砕かれ悔いる心」を持つことだと思います。自分はこんなにすごいんだとおごり高ぶり、自分はいつも正しいんだと自分の間違いを認めず、他の人ばかりを責めるのではなく、神さまの御言葉によって、ハッとさせられ、自分は力の小さい、弱い人間だ、自分は間違った、罪のある人間だと認めて、“神さま、こんな私をお赦しください”(ルカ18章13節参照)と祈る心だと思います。その心にイエスさまは来てくださいます。救い主は来てくださいます。そして、私たちの心の中に、愛と平和に輝く神の王国を造り上げてくださいます。私たちを赦し、愛して、ホッとさせてくださいます。
 最初に話したように、教会ではきれいなクリスマスの飾り付けがされました。みんな、自分の家でもクリスマスの飾り付けをするかも知れません。でも、きれにするのは家の周りや外側だけでなく、私たちの心の中こそきれいにして、「栄光に輝く王」、救い主イエス・キリストをお迎えしましょう。


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