聖書 マタイによる福音書1章1〜17節
説教者 山岡創牧師
◆イエス・キリストの系図
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
「神が人の中に」
皆さんの中で家系図というものをお持ちの方がいらっしゃるでしょうか? たぶん、まずおられないのではないかと思います。
私は、自分に家系図があったら、ちょっとおもしろいだろうなあ、と思います。自分の先祖がだれなのか、名前だけでも分かる。そして、それを見ながら“この人はどんな人だったのだろう”と興味が湧いたに違いありません。
残念ながら、私は祖父の名前までしか知りません。私の父は山岡磐、祖父は山岡清と言います。父に聞けば、曾祖父の名前ぐらいは分かるでしょうが、そこまでです。“私の先祖は山岡鉄舟です”と言えたらおもしろいのですが、何の証拠もありません。
現代の日本人である私たちは、何か特別な家柄・家系でもない限り、系図などないし、そういうものに余り興味を持たないでしょう。
だから、マタイによる福音書の初めに、イエスの系図が出て来ることに、うんざりしてしまう人がほとんどではないでしょうか。マタイによる福音書を読むならば、ここを飛ばして1章17節からに、したくなる。聖書を読んでみようと思って開いたら、最初がこれで、思わずテンションが下がったという人も少なくないでしょう。
亡くなったキリスト教作家・三浦綾子さんが、その著書の中でこんなことを書いておられます。
わたしはまず新訳聖書の第一頁を開いて驚いた。「何と退屈な本だろう」と思った。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちの父‥‥」というように、先ずキリストの系図が何十代も書き記されているのである。
もし、この新訳聖書の第一頁を開いて、「これはおもしろい。何と興味深い本だろう」とか、「うむ、これはためになることが書いてある。心が魅きつけられるすばらしい本だ」と思った人がいたら、お目にかかりたい。正直いって、わたしはうんざりした。もう少し人の心を捉えることから書けばいいのにと思った。
退屈なこの系図を読みながら、わたしは、自分の恋人にするなら、どの名を選ぼうかと、不謹慎なことを考えながら読んだ。そうでもしなければ、飛ばして読んでしまう恐れがあったからである。(『光あるうちに』146頁)
皆さんなら、どの名前の人を自分の恋人に選ぶでしょう? ともかく、三浦綾子さんのこの言葉に、私たちは少なからず共感を覚えると思うのです。
ところが、この系図に心を捉えられる人々がいました。それは、この福音書が書かれた当時のユダヤ人たちです。なぜならば、ユダヤ人は自分の家系というものを非常に重要視していたからです。と言うのは、ユダヤ人は自分が確かにアブラハムの子孫であるということを重んじたからです。
今日の1節にも、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありました。「アブラハムの子」である、アブラハムの子孫であるとは、何を意味したのでしょう。それは、自分が神さまに選ばれた民族の一員である、自分が神さまから祝福を約束された民族の一員である、ということを意味したのです。
ユダヤ人のルーツはアブラハムです。このアブラハムは、旧約聖書・創世記に登場します。その12章を開くと、そこには神さまがアブラハムを選ばれた時の約束の言葉が記されています。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12章1〜3節)。
この神の約束の言葉によって、ユダヤ人は、祝福の源であるアブラハムの子孫である自分たちは祝福に入ることを約束された民族である、と信じているのです。だから、自分の父はだれで、祖父はだれで、曾祖父は‥‥と自分の家系、血筋を遡り、確かに自分はアブラハムの子孫です、イスラエル12部族の何族に属する者です、と言えることが重要なのです。
もう一つ、この系図がユダヤの人々の心を捉える理由がありました。それは、イエスが「ダビデの子」、ダビデの血筋の者である、という点です。
ダビデとは、今日の6節にも「ダビデ王」とありますように、イスラエル王国第2代の王でした。
今、木曜日の祈り会では旧約聖書・サムエル記を続けて読んでいますが、そこにはイスラエルが12部族の連合から王国になって行く経緯が、また羊飼いであったダビデが王になり、周りの異民族を打ち破り、イスラエル王国を繁栄させていく様子が描かれています。ダビデとは、ユダヤ人にとって英雄であり、名君なのです。
ところが、ダビデとその子ソロモンの時代を頂点として、その後イスラエル王国は次第に衰えて行きます。そして、今日の11節にもありますように、エコンヤ王(ヨヤキンの別名、列王記下24章参照)の時代に、メソポタミアの超大国バビロニアに滅ぼされ、国を失い、人々は捕えられ、バビロンへ移住させられる憂き目に遭うのです。
その後、イスラエルの人々は、約50年のバビロン捕囚の時代を経て、故郷への帰還が許されます。そして、今日の12節にあるゼルバベルの時代に、かなりの人々がエルサレムに帰還し、廃墟となった神殿を建て直します。
しかし、12節にあるエコンヤから始まる14代の人々の時代に、ユダヤ人が国を回復することはほとんどありませんでした。代わる代わる興る大国に支配され、隷属させられ、苦しめられたのです。神の祝福を約束された民族のはずなのに、どうして!? というのが、彼らの苦悩であり、同時に苦しみの中でユダヤの人々は、ダビデ王のような英雄が再来し、王国を復興し、自分たちに喜びと誇りを取り戻してくれることを望みました。祝福を約束された神さまが、ダビデの子孫の中から英雄を起こしてくださる、と信じ、切なる思いで祈りました。その英雄を、ユダヤの人々は16節にあるように「メシア」と呼んだのです。
ですから、「ダビデの子」という言葉は、単にダビデ王の子孫ということではなく、王国を回復する英雄、救世主という意味を持っています。同じマタイ福音書21章で、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムにお入りになった時、群衆が主イエスに向かって、「ダビデの子にホサナ」(9節)と叫んでいるのも、そういう期待を込めて、王様万歳!英雄万歳!と叫んでいるのです。
このように、この系図はまず第一に、ユダヤ人たちが心を捉えられるように、信じるようになるために、ここに書き記されていると言うことができます。
しかし、果たしてそれだけの意味、それだけの目的でしょうか。そうではないのです。
この系図には違う意味がある。もっと深い目的がある。そのことを、この系図に登場する5人の女性の存在がささやきかけて来るのです。
「タマル」(3節)、「ラハブ」(5節)、「ルツ」(5節)、そして「ウリヤの妻」(6節)。この4人の女性は、旧約聖書の各書に登場します。一人一人詳しくお話しする時間は、残念ながらありません。
ユダヤ人の系図に対する価値観からすれば、系図に女性の名前が記される必要はないのです。家系とは、男子によって継がれていくものだからです。それなのに、なぜマタイはこの4人の女性の名前を書き入れたのでしょうか。
この4人には、明らかな共通点があります。それは、4人とも“異邦人”だということです。ユダヤ人は、自分たちの血筋が純血であるということを重んじました。異邦人の血が混じることを忌み嫌いました。そのことからすれば、彼らは「イエス・キリストの系図」に異邦の女性たちの血が入っていることを、よくは思わなかったでしょう。それなのに、マタイはなぜ異邦の女性たちの名前を書き記したのでしょう?
それは、ユダヤ人の信仰に対する問いかけ、アンチ・テーゼ(反説)だったのではないでしょうか。つまり、ユダヤ人たちは、神の祝福すなわち“救い”は、アブラハムの子孫である自分たちだけのものだと考えて、異邦人を軽蔑していたわけですが、マタイはイエス・キリストの系図の中に異邦の女性の名前を書き入れることで、祝福の約束は異邦人にも及ぶものなのだ、神さまは異邦人をもご自分の救いのご計画の中に、祝福の約束の中に、入れてくださっているのだ、ということを伝えたかったのではないでしょうか。
そして、ヨセフの妻「マリア」に至っては、こう記しています。
「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(16節)。
それまでの系図のように“ヨセフはイエスをもけた”とは言わない。明らかに、マリアから生まれたということが強調されています。それは、18節以下に記されているイエス・キリストの聖霊による身ごもり、ということにつながっていくわけですが、もう一つの大事な意味は、「メシアと呼ばれるイエス」(メシア=キリスト)は、アブラハムの子孫という血筋から生まれたのではなく、神の霊によって生まれたと暗に示すことで、神の祝福、救いを、血筋とか民族という狭い枠で考えることから切り離し、すべての人に神の祝福が及ぶことを示そうとしているのではないかと思われます。
だから、マタイは、系図を書き記すことでユダヤ人の関心を引きながら、そこで従来のユダヤ人の信仰を打ち砕くような重大な問いかけを投げかけていると言えます。
後に主イエス・キリストも言われました。ご自分のところに、血のつながった実の母、兄弟たちが訪ねて来た時に、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」(マタイ12章48節)と言われ、弟子たちに、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母である」(同49〜50節)と教えられました。血筋ではなく、天の父である神さまに対する信仰によるつながり、絆を強調されたのです。そこには、ユダヤ人であるとか、異邦人であるかといった人間的な分け隔てはないと言って良いでしょう。
また、主イエス・キリストによる救い、祝福を信じたパウロも、ローマの信徒への手紙2章28節で、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」と語っています。割礼とは、自分がユダヤ人であることを示す肉体的なしるしなのですが、それがあるから選ばれ、祝福された者ではなく、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、どんな人でも、イエス・キリストによる救いを受け入れる者こそ“祝福の民”であると言うのです。そこには、人間的な分け隔てはありません。
その意味では、私たちも“洗礼を受けているから” “洗礼を受けた者だけが”とケチな根性で驕(おご)ってはならないと思います。神さまは、私たちが考えている以上の多くの人々を、様々な人々を、祝福したいと願い、その大きな手の中に分け隔てなく包んでおられるのです。もちろん、その手の中に私たちもいます。“自分のような者は救われない、祝福されない”と考えてしまう時にも、神さまの約束は私たちをやさしく包んでいます。こんなに不真面目な、不信仰な人を、神さまは救ったりしない、と私たちが思ってしまうような人も、神さまの約束はやさしく包んでいます。
このクリスマス、すべての人を包む神の祝福の約束を、多くの人に、身近な一人に伝えていきましょう。
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