坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年12月20日 待降節アドヴェント第4主日クリスマス礼拝 「喜びにあふれて」

聖書 マタイによる福音書2章1〜12節
説教者 山岡創牧師

◆占星術の学者たちが訪れる
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
   

              「喜びにあふれて」
 一昨日の金曜日、ある方からお電話をいただきました。その方は、学生の時にキリスト教主義の学校に通われていたということで、礼拝に参加したいのですがよろしいですか?との問い合わせでした。私は、日曜日の礼拝の時間と、特に今度の日曜日はクリスマス礼拝であることを告げて、ぜひお出かけくださいと申し上げました。
 その方にとっては、キリスト教主義学校での経験が教会の礼拝に参加するきっかけとなったのです。その時の経験が、占星術の学者たちを礼拝へと導いた「星」と同じ役目を果たしたと言って良いでしょう。
 ユダヤの地、エルサレムから東の方に住む「占星術の学者たち」(1節)は、星を調べて「ユダヤ人の王」(2節)のお生まれを知り、その方を拝むためにはるばる旅をして来ました。当時ユダヤ人は、神さまがこの世を救うために救世主を遣(つか)わされると信じ、待望していました。学者たちはユダヤ人ではなく異邦人でしたが、当時ユダヤ人の抱いていたこの期待が、遠く外国にまで、異邦人にまで広がっていたようです。
 救い主によってこの世が救われて変わる。そういう期待を、異邦人である学者たちも抱き、望んでいたのでしょう。そして、当時の最先端の科学である占星術によって、この救い主、ユダヤ人の王のお生まれを知り、やって来たのです。
 私たちも、様々な「星」に導かれてやって来ます。先月も当教会のホームページを見て礼拝においでになった方が二人おられました。家族や友人知人のつてでやって来る人がいます。三浦綾子さんや渡辺和子さんのような方の書いた本がきっかけになってやって来る人もいます。通り掛かって教会の建物を見つけてやって来る人もいます。キリスト教葬儀がきっかけになってやって来る人もいます。皆それぞれ、自分の「星」に導かれて、キリストを礼拝しにやって来ます。
 何のためにやって来るのでしょう? 「喜びにあふれる」(10節)ためにやって来るのです。「別の道」(12節)、新しい人生を見つけるためにやって来るのです。“救い”を求めてやって来るのです。


 けれども、ユダヤ人の王、救い主のお生まれという知らせは必ずしも、すべての人に「喜び」をもたらすものではありませんでした。一方では占星術の学者たちのように「喜び」にあふれた人々がいました。しかし他方では、「不安」(3節)を抱いた人々がいたのです。それは、「ヘロデ王」と「エルサレムの人々」(3節)でした。
 ユダヤ人の王、救い主が現れることを期待していたはずのユダヤ人が、いざお生まれになったと聞いた時、「喜び」ではなく「不安」を感じたというのです。一体どうしてでしょう?
 ヘロデ王は、権力で民衆を抑圧する政治を行っていました。だから、ユダヤ民衆はなおさら新しい王の出現を待望していました。自分の地位を脅かすライバルの出現に、ヘロデ王は妬みと焦りから不安を感じているのです。結局ヘロデ王は、16節以下に記されているように、ベツレヘムに住む2歳以下の男の子をことごとく殺すという暴挙に出るのですが、エルサレムの人々は、新しい王、救い主誕生の知らせに、ヘロデ王がまた、何かしら暴挙を行うのではないかと恐れて、不安を感じていたのでしょう。
 救い主の誕生が喜びとならない人々がいるのです。むしろ不安の種になるのです。それは、自分の現状が“それで良いのか”と問われ、今の自分が揺さぶられるからです。今の自分を変えようとする圧力が働くからです。その働きかけにハッとして、自分を見つめ直し、打ち砕かれ悔いる心を抱かせられるならば、それは人生の転機に、すなわち救いへとつながります。けれども、何としても今の自分を守ろうとする人、特にヘロデ王のように、自己中心なエゴイズムから、相手のこと、周りの人のことを考えず、自分の生活を、自分の利益を、自分の快楽を守ろうとする人にとっては、自分を揺さぶり変えようとするものは不安の種になり、邪魔にさえなります。だから、それを否定し、消し去ろうとさえ考えるのです。


 ところで、新しい王、救い主を見つけようと、星に導かれてやって来た学者たちでしたが、彼らは、救い主がどこに生まれたのか、言い換えれば“救い”がどこにあるのか分からなくなってしまいます。そこで、彼らは取りあえずユダヤの都エルサレムにやって来て、救い主の情報を得ようとします。そして、それを聞いたヘロデ王が、ユダヤ人待望の救い主、新しい王の誕生に関する情報を得ようと、ユダヤ人の「祭司長たちや律法学者たち」(4節)を集めて、聖書の預言の言葉から、救い主誕生のヒントをつかもうとしました。ちなみに4節にあるように、待望の救い主をヘブライ語で「メシア」と呼ぶのです。
 そこで、祭司長たちにより旧約聖書・ミカ書5章1節にある預言者の言葉が示されました。6節の引用がそれです。その預言によれば、救い主はベツレヘムに生まれるとのこと。それを聞いたヘロデ王は、占星術の学者たちを呼び出し、彼らに、救い主はベツレヘムで生まれると聖書に記されていることを伝えます。
 それを聞いた学者たちは、エルサレムからベツレヘムへと向かいます。そして、救い主の幼子(おさなご)がいる家を探し当てるのです。
 私たちも、何かをきっかけにして教会へやって来ます。礼拝やその他の集まりに加わります。しかし、ただ何となく、漫然と教会に来ているだけでは、救い主に出会うことはできません。救いの喜びを見つけることはできません。ともすれば、人間関係の暖かさとか居心地の良さとかに救いを見つけたと勘違いすることさえあります。
 悪事を企(たくら)むヘロデ王が取り次いだとは言え、学者たちは聖書の御言葉を聞き、御言葉によって示されたことに従った時、救い主を探し当てることができました。私たちもそうです。聖書の御言葉に聞き従わずに、救い主イエス・キリストと出会うことはできません。神さまがお与えになる救いを見つけることはできません。礼拝において聖書の御言葉を聞く。また普段の生活の中でも、聖書を読む時間を設ける。聖書の御言葉を通して、神さまが自分に何を語りかけておられるか、自分に何を望んでおられるかを汲み取り、それを受け入れる。そして、聖書を通して示された神さまの御心に従って自分の心を整え、生活を整えていく。そのようにして生きていくことの中に、私たちは救いを探し当てるのです。


 救い主の幼子を探し当てた学者たちは、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物として献げた」(11節)と言います。つまり、彼らは自分の“宝物”を献げたということです。
 宝物とはすなわち、自分の喜びの元ではないでしょうか。それを手放して、彼らに喜びがあるのでしょうか。「喜びにあふれる」ことができるのでしょうか。
 同じマタイ福音書13章44節以下に、次のような御言葉があります。
「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。
 宝を見つけた人は、今まで持っていた財産をすべて売り払い、喜んでその宝を買うと言うのです。学者たちもそうだったのではないでしょうか。今まで持っていたよりも、もっとすばらしい宝物を、喜びの元を見つけた。だから、それまでの宝物を手放しても惜しくはない。いや、むしろすべてを手放してでも、その宝を手に入れたいのです。
 学者たちは、宝の箱を空にしました。しかし、その箱の中に、もっとすばらしい宝物を、喜びの元を受け取ったのです。イエス・キリストによる救いです。救いの喜びです。
 そのことは、私たちの人生に置き直して言えば、人生の価値観の転換、生き方の転換を意味します。今までは、目に見える宝に、すなわち財産とか、地位とか、名誉とか、才能とか、家族とか、健康とか、そのようなものに頼って生きて来たかも知れない。宝の箱に入れて来たかも知れない。それらも、私たちの人生を支える大切なもの、必要なものに違いないのです。けれども、それらは失われることがあります。それらを失った時に、私たちを支え導いてくれるものがあります。それが、神さまです。救い主イエス・キリストです。この救いを信じて生きる信仰の心です。この神さまを、信仰の心を、人生の宝物として生きる。その時、失うことのない「喜び」を手にするのです。


 救い主の幼子にまみえ、喜びを手に入れた学者たちは、その後、夢のお告げでヘロデ王のもとには戻らず、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)と記されています。それはただ単に、地理的な意味での「別の道」というだけではないでしょう。それは、人生の歩む道が変わったということ、生き方が今までとは別のものになったことを、神さまは語っておられるのだと思います。自分たちの国へ帰って行ったのですから、環境や生活そのものが大きく変わるわけではありません。けれども、変わらない境遇、生活の中で、しかし神と共に、神の言葉に聞き従いながら生き始めるのです。
 今日、Iくん(小6)が洗礼を受けました。洗礼を受けるとは、まさに今までとは「道」が変わるということです。生涯、イエス・キリストを心の宝箱に入れて生きることを、聖書を通してイエス・キリストの御言葉に聞き従って生きることを、神と人の前で誓って生き始めるということです。人生の新たな旅を始めるということです。
 12月6日の役員会で、Iくんの受洗諮問会を行った際、反対に和希くんから質問されました。“洗礼を受ける前と受けた後では、何が違いますか?” とても大切な、核心を突く問いかけです。軽くは答えられない問いかけに、私たち役員も一瞬、間をおいて考えました。そして、それぞれ思うところを答えました。その答えをまとめるならば、やはり「喜びにあふれる」ということに尽きるでしょう。人生が順調に、うまく行っているからあふれる喜びではありません。どんな時でも、自分を支え導いてくれる宝物を見つけた喜びです。どんな時でも、御言葉に聞き従って、神と共に歩む喜びです。
 『信徒の友』12月号の黙想で、クリスマス物語における旅について書かれていました。
  若い二人に不安など微塵もないなどと言えば、うそになる。けれども、それでもなお、二人は主の指し示しに従って‥‥‥旅をする。‥‥‥不安は拭い去ろうとしてもどうしても拭い去れない。しかし、その不安を抱えたまま、体は主のお言葉に従う。「信じる者だけが従う。従う者だけが信じる」。
 私たちの人生には苦しみや悲しみがつきものです。不安は拭い去ろうとしても拭い去れない。それでも、不安を抱えたまま、神の御言葉に聞き、従って生きていく。その歩みを続けて行く中で、生きて働いてくださる“わたしのための救い主”と出会い、信仰が深まり、救いの喜びがあふれるのです。
 クリスマスとは、そのような旅の始まりです。今日、Iくんがその旅を歩み始めました。私たちもまた、新たな思いで、救いを探す旅、喜びにあふれる旅を歩みましょう。


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