坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2009年12月13日 待降節アドヴェント第3主日礼拝 「神は我々と共におられる」

聖書 マタイによる福音書1章 18〜25節    
説教者 山岡創牧師

◆イエス・キリストの誕生
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


           「神は我々と共におられる」
 クリスマス・シーズンを迎えて、この世はクリスマスの雰囲気にあふれています。街にはクリスマス・ソングが流れています。また、至るところにクリスマスの飾り付けが見られます。今年も高麗川の向こう側にある入西ニュータウンでは、多くの家が色とりどりのイルミネーションを飾り、暗くなってから行くと、私たちの目を楽しませてくれます。私も子供にせがまれて、買い物がてら何度か見に行きました。
 クリスマスって、うれしい、楽しい。そんな空気が世の中に満ちています。
 もちろん教会でも、クリスマスって、嬉しい、楽しい。そういう雰囲気に包まれます。今年はロビーの大きな窓をショー・ウィンドー風にして、クリスマスのクリブ(人形)を飾りました。夜、ライトの光に照らし出されるクリブを見ているだけでも、何だか嬉しくなってきます。
 また、今日の午後には子どもたちのクリスマス会が催されます。今年は4人目の博士の物語、〈アルタバンの旅〉が子どもたちによって上演されます。皆さんの中にも、きっと楽しみにしておられる方がおられるでしょう。楽しいゲームも準備されています。そして、今年もサンタが来てくれるでしょう。子どもたちの心に、教会で味わうクリスマスの楽しい思い出を残してあげたい。いつもそう思います。
 クリスマスとは、お祭りです。「イエス・キリストの誕生」(18節)を祝うお祭りです。だから、楽しく嬉しい時であっていい。けれども、クリスマスとは果たしてそれだけのものでしょうか。
 いや、もちろんクリスマスは嬉しい時です。“喜び”の時です。けれども、その嬉しさ、喜びの深い意味を、私たちは聖書の御言葉によって味わう必要があるでしょう。
 クリスチャン・シンガーの沢知恵さんという方が〈こころの友〉誌12月号の中で、次のように書いていました。
 「クリスマスってなんでうれしいんだろうね」。子どもの問いかけに、「神さまが私たちにイエスさまをプレゼントしてくださったからよ」。まっすぐに答えてあげたいです。
 クリスマスが嬉しいのは、神さまが私たちに、イエス・キリストをプレゼントしてくださったからです。救い主が私たちのもとに来てくださったからです。そして、キリストを通して、「神は我々と共におられる」(23節)という恵みがもたらされたからです。
 ところで、イエス・キリストは、どこにおいでくださったのでしょう? 「神は我々と共におられる」という恵みは、どこに届けられたのでしょう? それは、苦しみ悩むヨセフのもとに、です。
 浮き浮きしている人のところではありません。苦しみ悩む者のところに、イエスは救い主としてお生まれくださいます。そして、“神があなたと共にいてくださる”恵みを知らせてくださいます。それが、クリスマスの喜び、嬉しさの深い意味なのです。


「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。
 聖書は、ヨセフに訪れた現実をこのように書き記しています。聖霊によってマリアがイエス・キリストを身ごもった。私たちが、使徒信条において、“主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ”と告白する信仰告白の元になっている御言葉です。それは、後にキリストが言われた「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19章26節)という、神の全能の力を表している一節です。
 けれども、この時点で、神の全能の力が、ヨセフにとって明らかになったわけではなかった。マリアが聖霊によって身ごもったことが、ヨセフの目に明らかになったわけではなかったのです。ヨセフに明らかになったこと、それはマリアが身ごもったという“事実”でした。しかも、それはヨセフにとって身に覚えのないことだったのです。
 自分の身に覚えがなければ当然、マリアが自分以外の男性と関係を持ったと考えるほかありません。だから、マリアが身ごもったことを知った時、ヨセフはどんなに深く傷ついたことでしょうか。そして、これからこの問題を、マリアとの関係を、一体自分はどうすればよいのか、苦しみ、悩み抜いたに違いありません。
 その苦しみ、悩みの末に、ヨセフがたどり着いた結論は、マリアのことを表沙汰にせずに縁を切る、婚約を解消するということでした。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。
 夫ヨセフは「正しい人」であった、と言います。しかし、彼がただ単に「正しい人」であったならば、マリアのことを表ざたにし、マリアを裁くこともできたのです。
 ユダヤ人にとって“正しい”とは、神の掟である律法を守っているということでした。神の御心を表している律法に従っているということでした。その律法に照らして言えば、もしもマリアが婚約者であるヨセフ以外の男性と関係して身ごもったのだとすれば、それは姦淫の罪に当たり、その二人を石で打ち殺さなければならない、悪を取り除かなければならない、と定められています(レビ記20章10節、申命記22章23節)。だから、ヨセフが律法に従う「正しい人」であったならば、マリアのことを表沙汰にして、律法に則(のっと)って裁いたとしても不思議ではないのです。裏切られた!という怒りと憎しみが心に湧き起ってもおかしくはない出来事ですから、その怒りと憎しみを律法に訴えて、マリアを石打ちの刑に処したとしても不思議ではないのです。
 けれども、ヨセフはそのようにしようとはしませんでした。自分の身に覚えのないところでマリアが身ごもったということを表沙汰にはしない。マリアを石打ちの刑にはしたくない。ただ、しかし、そのマリアと何事もなかったかのように結婚し、夫婦として歩むことには耐えられない。だから、ひそかに縁を切る。後でマリアに赤ちゃんが生まれた時、周りから“あの男は身ごもらせておいて、縁を切るとは!”と言われる非難も、自分が甘んじて受けよう。それでも、マリアのことは表沙汰にはしない。そういう労(いた)わりを持って、そういう覚悟で、ヨセフは苦しみ悩みながら、マリアと縁を切ろうとしたのです。
言うならば、ヨセフは、マリアの罪を赦したのだと言うことができるでしょう。もちろんマリアは聖霊によって身ごもったのですから、本来罪はないのですが、この時点でヨセフの目から見れば、マリアが他の男性と関係したと考える以外になかったでしょうし、その心の傷を忍んで、ヨセフはマリアを赦したのだと言ってよいでしょう。
それが、「正しい人」ということなのです。マタイがここで示す「正しい人」とは、律法に適(かな)って正しく、その正義感の故に人を非難し、裁く人ではありません。正しさを軽んじるわけではない。けれども、その正しさを超えて、相手に対して労わりを持つ人、相手を赦そうとする人、それが「正しい人」だと聖書は語ります。言い換えれば、「正しい人」とは、“愛の人”だと言っても良いでしょう。そういうヨセフの心が、やがてイエス・キリストが成人した後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)という天使の預言として結晶するような気が致します。


 ヨセフは、苦しみ悩みながら、マリアと縁を切ろうと決心しました。しかし、それでヨセフの心がすっきりしたわけではなかったでしょう。それでもなおヨセフは葛藤(かっとう)し、その問題を夢にまで見るほどでした。
 彼は夢を見ました。その夢の中で、苦しみ悩むヨセフに、天使は告げるのです。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(20節)
 天使を通して告げられた神の言葉、神の御心は、ヨセフの決心とは違っていました。そこで、ヨセフは自分の決心の通りにマリアと縁を切るのではなく、「主の天使が命じた通り」(24節)、マリアを妻として迎え入れるのです。赦して縁を切る、のではなく、赦して受け入れたのです。それは、自分が置かれている苦しみ悩みと縁を切ろうとするのではなく、苦しみ悩みをそのまま、自分の人生の中に迎え入れた、受け入れたことだと言い換えても良いでしょう。決して問題が解決したわけではない。苦しみ悩みが取り除かれたわけでもない。何事もなかったかのようにリセットされたのでもないのです。どうしてそうなってしまったのか分からない、釈然としない気持を、不条理に対する嘆きを、なお抱えていたに違いありません。それでもヨセフは、神の言葉によって、苦しみ悩みをそのまま、自分の人生に迎え入れたのです。
 どうしてヨセフはそのようにしたのでしょうか? それは、神の言葉によって、神が語りかけてくださったことによって、苦しみ悩む自分と共に、神がいてくださることを知ったからです。「神は我々と共におられる」という恵みを知ったからです。出口のないような、答えのないような苦しみ悩み。けれども、出口も答えもないから神は見捨てている、そこにはいない、ということではなかったのです。出口も答えもないような苦しみ悩みの中に、そこに共に、神はいてくださったのです。苦しみ悩みの重荷を共に負ってくださっていたのです。そのことを悟った時、ヨセフは、“神が共にいてくださるから、これでよいのだ”と、苦しみ悩みを自分の人生に受け入れたのでしょう。


 今日の聖書の御言葉を黙想しながら、私はふと“どうせなら神さま、もっと早くに、マリアは聖霊によって身ごもった、と告げてくだされば良かったのに。そうすれば、ヨセフはあんなに苦しみ悩まず済んだのに。神さまが共にいてくださる、と安心できたのに”と思いました。神さまって、ちょっと意地悪なんでしょうか。
 いや、そうではありません。私たちの人生には、苦しみ悩まなければ分からないことがあるのです。苦しみ悩んだその先で、見つかるもの、そこでしか見つけられないものがあるのです。深い深い井戸の底には、清く澄んだ水がある。しかし、その水は井戸の底まで降りなければ手にすることはできないのです。
 神が私たちと共にいてくださる恵みもそうです。私たちは、自分の人生が順調に行くように、苦しみや悩みに遭わないようにと願います。ある意味で人生、それに越したことはありません。けれども、人生がうまく行き、苦しみ悩みにも遭わないと、神の言葉が、聖書の御言葉が自分の上を素通りし、心に響いて来ないことが少なからずあるのです。御言葉が語りかける“神はあなたと共にいる”という恵みが実感できないことがあるのです。苦しみ悩んだその先で、御言葉に心が開かれ、“ああ、こんな私と、こんな私だからこそ、神さまが共にいてくださる”と喜びにあふれることがあるのです。
 河野進氏という、ハンセン病救援や社会福祉事業にも深くかかわられた牧師が、次のような詩を残しておられます。
  病まなければ、捧げ得ない悔い改めの祈りがあり
  病まなければ、聞き得ない救いの御言葉があり
  病まなければ、負いえない恵みの十字架があり
  病まなければ、信じえない癒しの奇跡があり
  病まなければ、受け得ないいたわりの愛があり
  病まなければ、近づき得ない清い聖壇があり
  病まなければ、仰ぎ得ない輝く御顔がある
  おお、病まなければ、人間でさえありえなかった(『カナの婚宴の葡萄酒』より)
 病まなければ、苦しみ悩まなければ、見つけることのできない人生の深い悟りがあり、大切な生き方があるのです。「神は我々と共におられる」という信仰は、苦しみ悩みの中で、聖書の御言葉によって、“私の人生は、これでよい”と受け入れた人の悟りであり、生き方なのです。
 この信仰が私たちの心の内に生まれることこそ、クリスマスの本当の嬉しさ、本物の喜びなのです。


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