坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2010年3月28日 受難節第6主日(大人と子供の礼拝)「自分の願い、神の願い」

聖書 マルコ福音書14章32〜42節
説教者 山岡創牧師

◆ゲツセマネで祈る
14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


         「自分の願い、神の願い」
イスラエルにオリーブ山と呼ばれる山がありました。高さは800mぐらい(昨年5月にチャペル・クラブで登った日和田山が305mだから、2倍以上高いですね)。オリーブの木がたくさん植えられているので、オリーブ山と呼ばれていました。
 その山のふもとに「ゲッセマネ」(32節)という場所がありました。今日の聖書に出て来たね。ゲッセマネという言葉は、“油をしぼる”という意味なのだそうです。きっと、そこにオリーブ山のオリーブをしぼって、油を作るところがあったから、その場所はゲッセマネと呼ばれたのでしょう。
 ゲッセマネは、イスラエルの都エルサレムのすぐそばにありました。それで、イエスさまは、過ぎ越しの祭りに参加するためにエルサレムにいる時は、毎晩このゲッセマネの園に行って、父なる神さまにお祈りをしていました。
 イエスさまはどんなお祈りをしていたのでしょう?


「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」
(36節)
 イエスさまは、ゲッセマネの園で、このように祈られました。
 「杯」とは、ビールとか、ワインとか、お酒を入れるコップのことです。それで“乾杯!”って、やる。おめでたくて、楽しい。
 けれども、イエスさまは“乾杯”っていう気分じゃない。反対に「死ぬばかりに悲しい」(34節)なんて言っています。どうしてでしょう?。
 それはね、イエスさまの杯には嫌なもの、まずい飲み物が入っていたからです。みんなだって、自分の杯においしいジュースではなくて青汁が入っていたら、“乾杯!”なんて、楽しく飲めないでしょう? イエスさまの杯には、何が入っていたのでしょう? そこには、“十字架の死”が入っていたのです。
 “ジュウジカノシ”って、どんな飲み物? と思った人、いる? それは、イエスさまが十字架に架けられて死ぬ“運命”のことです。“えっ、それは飲み物じゃないよ”と思ったかな。杯というのはモノの譬(たと)えで、杯は“苦しみの運命”のことなのです。十字架で死ぬという苦しみの運命だから、イエスさまは、「この杯をわたしから取りのけてください」と父なる神さまに願っているのです。


 イエスさまは、みんなから差別されている人やいじめられている人、バカにされている人を、とても大切にして愛しました。でも、差別したりバカにしている人の方は、そんなイエスさまがゆるせなかったのです。だから、みんなをかばうイエスさまもいじめてしまえ!ということで、十字架に架けて殺そうと考えていたのです。
 そんな苦しい運命なら、エルサレムから逃げてしまえばいい、そうすれば助かるじゃないか。確かにそのとおりです。でも、イエスさまは逃げなかった。逃げたいという気持もあったと思います。だから、「この杯をわたしから取りのけてください」と、“この苦しみ、何とかしてください”と神さまに祈っているのです。
 でも、イエスさまは逃げなかった。“逃げたら、あの人たちをだれが愛するのか! 自分しかいないではないか”。きっとそう思ったから、イエスさまは逃げなかったのです。
 だれにでも、嫌だなあ、逃げたいなあ、と思うことがあります。私が小1の時、こんなことがありました。友だちと一緒に自転車をこいでいたら、急に目の前が真っ暗になった。気がついたら、おばさんにぶつかっていました。そうしたら、そのおばさんが“お家の人のところに連れて行きなさい”と言うのです。“お父さんやお母さんに言われたら怒られる”。そう思ったら、怖くて、嫌で、逃げちゃいたいなあ、と思いました。でも、逃げたらいけないでしょう。迷惑をかけたのだから責任を取らなければいけない。それで、ドキドキしならが、そのおばさんを家まで連れて行きました。たぶんお父さんかお母さんが話を聞いて、謝ってくれたのだけど、その後、ぼくは叱られずにすみました。逃げたら、もっと悪いことになっていたでしょう。


 逃げたらいけないことがある。逃げたいんだけど、逃げたらいけない。だから、イエスさまはこう祈ったのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心に適(かな)うことが行われますように」。“わたしの願いは、逃げたいのです。この苦しみを取りのけてほしいのです。でも、逃げたらいけない。苦しみを負(お)わなければならない。ならば、神さまが良いと思われるようにしてください。もしそれを受けなければならないなら、勇気と力を与えてください”とイエスさまは祈られたのです。自分の願いではなく、神さまが良いと思うことをしてください。
 自分がこうしたいと願っても、それができないことがあります。こうなってほしいと願っても、そうならないことがあります。ふと“どうして神さまは、ぼくが嫌なこと、苦しいことをなさるんだろう?”と思うことがあります。でも、神さまはきっと、私たちのためを思って、私たちにとって良いことをしてくださっているのです。でも、その“良さ”を、私たちはすぐには分からないのです。
 デパートやスーパーのおもちゃ売り場やお菓子売り場で、小さな子どもが“これ買って!”と泣きわめいているのを見たことがありますか? お父さんお母さんが買ってあげないと、ますます泣きわめいて、床に転がったりしますね。どうしたらいいでしょう? 買ってあげれば納まります。でも、それを続けたらどうなるでしょう? その子は大きくなったら、我慢のできない、とても我侭(わがまま)な人になって、周りの人から嫌われるようになるでしょう。だから、我ままでない、我慢のできる子どもになるように、それがその子にとって良いことだと思うから、親は買わないで我慢を覚えさせようとします。でも、その良さが、親の気持ちが分からずに、その子は“嫌だ、嫌だ”と泣くでしょう。
 神さまと私たちも、そんな関係です。嫌だな、辛いな、と思うけど、神さまはきっと、私たちに良いことを考えて、してくださる。そういう神さまの心「御心」を信じて、イエスさまのように、嫌なこと、苦しいことも我慢できるように、祈っていきましょう。


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